エピローグ

エピローグ

 帯の紐を指で結ぶ。お腹の締まる感覚に着付けの仕上がりを実感した。姿見に向かって両腕を広げ、腰を捻って袖を振る。くるりとその場でひと回り。

「うん」

 悪くない。今の私でもぴったりだ。体型が変わってないからかな?

 帯の上に両手を重ねる。滑らせて、胸元へ。

 拓也くんと買った花柄の浴衣。胸にも、脚にも、朝顔が咲いている。

 この姿を見て彼が言ったことをよく覚えている。時代劇みたいだなってそう言ったんだ。なにそれ? 今思い出しても笑っちゃう。

 私は口許を指で覆った。

 神杉くんは何て言ってくれるんだろう。どんな顔を見せてくれるかな。

 きっと、見慣れない私の姿を見て、最初はあたふたするに違いない。おっきな手で頭を掻いて、首のところを真っ赤に染めて、あーとかうーとかクマみたいな声を出すの。不器用そうに眉を寄せて、何て言おうか真剣に悩んで、それから、それから、

「……?」

 ふと鏡を見た。浴衣姿の女が顔を綻ばせていた。

 誰だろう、これ? 私じゃないみたいだ。

「……私、浮かれてるんだ」

 唇を結び、前髪を掻き上げた。膿んだ肉色の疵が額を真横に走っていた。彼を陥れるために刻んだ傷痕。醜い疵だと人は哀れむだろう。否定はしない。けれど、私はこの疵を愛しく想う。

 この疵は拓也くんを愛した証。彼への想いの強さの証。想いが風化していないことの証。そして、

「神杉くんへの、憎しみの証」

 ……本当に?

 ううん、ちゃんとわかってる。私はもう神杉くんを憎いとは思っていない。殺してやりたいとは、思っていない。

 拓也くんへの想いは失われていない。憎む気持ちは失われていない。私は、私から拓也くんを奪った存在を絶対に許さない。

 けれど、それが、優しいあのひとに結びつかない。

 私の中で、拓也くんへの想いと、神杉くんへの想いは、別個のものに変わってしまっている。

 不意に、足首に窮屈を感じた。何だろう。そう思って視線を落とした。上擦った声が喉から溢れた。黒い何かが、脚を這い上がろうとしていた。

「やっ……」

 咄嗟に口を押えて、悲鳴を呑んだ。頭の奧の冷静な部分が辛うじて混乱を押し留めた。その部分が囁く。慌てるな、よく見てみろと。

「ソウセキ……」

 猫のソウセキが身体を擦り付けているだけだった。私は大袈裟に胸を撫で下ろした。

「驚かさないで」

 屈み、黒い頭を撫でてみる。温かかった。両手を伸ばし腕に抱く。抵抗はなかった。

 黒猫のソウセキ。この子の名前。でも本当は名前なんか付けたくなかった。この子にも……あの子にも。

「ねえ、お前はあの子がどこへ行ったか訊いたりしないの?」

 金色の瞳は何の答えも与えてくれない。ただ静かに私を包む。ひょっとしたらこの子は何もかも知っているのかも知れない。あの子がどこへ行ったのか。みんなが、どこへ消えたのか。

「……私は、きっと地獄に堕ちるわね」

 呟いてから、自嘲する。

 地獄なんてない。報いなんてない。愛が報われないこの世界で罪も罰もあるわけがない。頭では充分わかっている。けれど考えずにはいられない。私は、きっと、地獄に堕ちる。

 菊池くん。彼の人生は無茶苦茶になった。彼は誰からも愛されていなかったけれど、これを機に世界の全てから見放されるかも知れない。きっと私のことは庇ってくれる。けれどいつかは目を覚ます。そのとき私は殺されるかも知れない。

 彼にはひどいことをした。ひどいことをさせた。たくさんの命を奪わせた。あの子のことも殺させた。

 地獄はなくても、報いはなくても、罪も罰も期待できなくても、沈んでいくあの子たちの瞳を、私は一生忘れることはできない。退路はとっくに断たれている。なのに、堕落し切る意欲もない。もはや、失われてしまった。

 私は、今夜あのひとに本当のことを話そうと思っている。私は最低の女だって打ち明けようと思っている。彼は重ねて傷付くだろう。そして私を蔑むだろうか? きっとそうはならない。それどころか私を憐れみ、自分を責めさえするだろう。

 だけど、それで、そのあとは?

 互いの傷を舐め合って生きようとでも言うのか?

 違う。ただ終わるのだ。彼との関係が、ただ終わる。

 だから、かみさま、今夜だけは。

 

 下駄を履く。扉を開く。夏のふくよかな空気が全身を包む。アブラゼミが鳴いている。バッグを掴み、からからと階段を駆け降りる。

「あら、夏凛ちゃん。可愛い浴衣ね。花火行くの?」

 同じマンションに住む女のひとだった。仕事帰りなのだろう。二の腕にブラウスを張り付けていた。名前は知らない。けれど、すれ違えば挨拶くらいはする。

 私が頷くと、向こうは首を傾けた。

「お友達?」

 私は答えなかった。彼女は勝手に何かを想像したようだ。とても面白いゴシップを手に入れたとばかりに足を弾ませて行ってしまった。私は頬に指で触れた。

 

 薄紫色の空。交差する電線の影。

 手元に絵筆がないことが惜しかった。

 この夕空を絵にして見せれば、彼は喜んでくれただろうか。

 夏の陽射しを目一杯浴びた地面はどこかふわふわとしていた。カーペットみたいな感触を楽しみながら駅へ向かって歩いていく。

 気持ちが逸る。胸が高鳴る。気付けば早足になっている。

 きっと私が先に着く。彼は慌てて駆け寄ってくる。少し、はにかむようにして笑う。私はその顔に思いを馳せる。

「はやく、あいたい」

 神杉くんに会いたい。

 もっとたくさんお喋りがしたい。もっとたくさん声が聞きたい。ずっと顔を眺めていたい。肩と肩で触れ合っていたい。

 勝手なことだってわかってる。資格がないことも理解してる。だけど、息はこんなにも弾んでる。

 塀のうえで猫が呑気にあくびをしていた。間抜けな大口についつい顔が綻んでしまう。そんな笑みが、私の心を一層確かなものにする。

 神杉くんに会いたい。

 灯る想いを胸に、私は夕暮れの街を駆けていく。

                      (了)

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ほたるの息 大淀たわら @tawara

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