第五章 哀れな者たち

(1)それは、いつだって

「神杉くん、何にする」

 自販機に指を向けながら柚木崎が訊いた。ベンチの隣には幾台もの自販機が整列させられている。過剰な数だ。こんな道端に誰が設置したのかは知らないが余程自販機が嫌いなのだろう。罰で立たされているようにしか見えなかった。

 ベンチの上には日除けがあるが夏の日差しには用を成していない。俺は熱さに潰され頭を垂れた。湿ったシャツは気持ち悪さ以外何も提供してくれない。蝉の声は耳を蝕み、煮えたアスファルトの匂いは鼻を衝く。撒き散らされる排気ガスも、首筋を這う汗の感触も、全てが苛立ちの材料だった。今は、柚木崎の声に応えることすら。

「……お水にするね」

 ぞんざいに商品が吐き出される音。それがまた癪に障った。柚木崎はペットボトルの蓋を捻り差し出してきた。一瞥するのも億劫だった。柚木崎はボトルをバッグに仕舞うと無言で傍らに佇んだ。日傘の影が俺を覆っていた。

「……ナツメは」

 と口にしたところで言葉がつかえた。続きを言葉に換えられなかった。黙っていることに気が滅入ってしまっただけなのかも知れない。ただ、ナツメと言ってしまったのでナツメの姿が頭に浮かんだ。

「……ナツメの頭、小さかった」

 柚木崎が「そうだね」と同意した。消え入りそうな声だった。

「頭だけだと、どうしてもね」

 警察署で見せられた白猫の姿が、より鮮明に思い出された。そして、なぜ俺たちがこんな道端で干乾びているのかも。食道から込み上げる、据えた臭い。俺は口元を手で覆った。

「神杉くん、大丈夫?」

 屈み、覗き込んでくる。

「飲んで。ちゃんと水分獲らなきゃ」

 声を、どこか遠くに聞きながら、俺は、ただじっと眼前の虚像を見つめ続けた。


 柚木崎から連絡があったのは二人で蛍を見に行った翌朝、もはや昼にさしかかろうという時間だった。

 あれは、俺が見た夢ではなかったのか。

 前日の出来事が頭から離れず、昼飯を作る気にもなれず、縁側で隠居のように空を眺めたいたところ当の本人から電話があった。動揺した俺は二度ほどスマホを床に落としてしまったのだが電話口から聞こえてくる声は昨晩のことなどなかったように淡々としていてやはり俺は自身の妄想を疑った。

 柚木崎は、取り留めのない挨拶を交わしたあとでこう切り出した。

「ナツメとソウセキが、見当たらないの」

 実は二日ほど前からすでに姿が見えなくなっていたのだが一時的なものだろうとそのままにしていた、さすがに三日目ともなると放置してよいものかわからない、どうしたものだろうか、と。

 猫の家出なんて珍しくも何ともない。場合によっては何週間も家を空けることだってある。心配しなくてもいい。大丈夫だ。そう笑って済ませられなかったのは、例の事件があったからだ。午後には柚木崎のマンションに出向き二人で周辺を探してみた。しかし猫の行き先など分かるはずもなく夕暮れ時まで歩き回った結果、汗ばむ身体と気持ち悪さだけが手元に残った。

「夜になれば帰って来るんじゃないか」

 俺たちは決定的な何かを避けるように気休めの言葉で結論を先延ばし、その日は帰宅の途に着いた。だが時間を無駄に消費しただけで状況に変化はなかった。翌日になってもナツメとソウセキは家に戻らず、俺たちは部屋で途方に暮れていた。

「扇沢さん、だっけ? あのひとに訊いてみることはできないかな」

 柚木崎の提案は初日から既に頭にあったが選択肢からは外していた。スマホを立ち上げリダイアルをするという一分に満たない簡易な作業が途轍もなく重大な結果を招くような気がして指が動かせなかったのだ。俺は、聞くも無為な言い訳を並べて柚木崎の意見を拒んだ。だが会話を重ねていくうちに選択肢が限られてくるのは自明だった。

 悪い予感など妄想に過ぎない。不安を指で潰すように指紋にまみれた画面に触れた。


 扇沢さんは白猫の飼い主が柚木崎だと知って心底から驚いた様子だった。切り離された頭部を前に半狂乱になって喚く俺をなだめ、優しい言葉で慰めてくれた。そして、最近の行動や、周囲で不審な出来事がなかったかを辛抱強く聴き取ったうえで、犯人は必ず捕まえてみせると言い切ってくれた。その容疑者候補に俺たち二人が含まれていたことは恐らく疑う余地はないだろう。猫の死骸を見つけたガキの、飼っていた猫が殺される。これを偶然と切って捨てるなら警官としては辞表を提出するしか道はあるまい。俺たちが警察のリストから外れるかどうかは今後の捜査次第だろう。もちろん俺たちに後ろめたいことなどないのだから疑いの目を向けられたところで痛くもかゆくもない。疑いたいのなら気が済むまで疑い尽せばいい。それで俺の知りたいことがわかるのなら……誰でもいい、答えを教えて欲しかった。

「どうして」

 頭を占めるのはそればかりだ。

 

「……うん、どうして、あの子たちなんだろうね」

 俺は顔を上げた。

「猫なんて市内に数え切れないほどいるはずなのに……。たまたまあの子たちが狙われた? そんな偶然ってあるのかな?」

 目が眩んだ。夏の陽射しがすべてを白く染め上げていた。何もかもまぶしくて、何があるかもわからない。日傘の少女が何を見ているのかも。

 柚木崎は、色のないハンカチ取り出し首筋を伝う汗を拭った。肌を撫でる柚木崎の手つきが蜃気楼のように歪んで見えた。頭部には未だ白い包帯が巻かれていた。

「……なんだよ、それ」

 歪みの奧で、柚木崎が答えた。

「猫殺しは、私たちが追いかけてることに気付いていたのかも知れない。警告か、もしくは嘲笑う目的であの子たちに手を出した。あるいは」

 口元に手を当て思案顔をする。

「私たちは犯人を知っている?」

「違う」

 身体をベンチから引き剥がした。両脚は立ち上がるのに充分な役割を果たさなかった。目眩がする。柚木崎の肩と手首を掴み、頼りない身体の支えにした。隠れていた口元が露わになる。淡い色の唇。俺はそこに温もりを感じていたはずだ。今はもう夢のように思える。柚木崎の片目は不思議そうに俺を見上げていた。本当に、不思議そうに。

 歯噛みをした。

「そんな、理屈を訊いてるんじゃない。警察署からずっとそうだ。ナツメが、殺されたんだぞ? ソウセキだって見つかっていない。なのに、どうしてお前は」

 言うべきではない。

 頭のどこか、恐らくは辛うじて冷静な部分がそう告げたが、奥歯は情けなく震えていた。

「どうして、そんな冷静でいられるんだ……? 今は、もっと」

 もっと。

 もっと、なんだ?

 もっと取り乱すべきだ。もっと悲しんでくれ。俺の前で涙を見せろ?

 愚かなことを言っている。俺はやはりどこまでも愚かだった。だって、

「ごめんなさい。私、そんな冷静に、見えるのかな」

 柚木崎の手は、こんなにも怯えている。

「糞ッ!」

 柚木崎を離し、手近のゴミ箱を蹴りつけた。缶の詰まったゴミ箱は倒れこそしなかったものの側面に茶色い靴跡が残った。無駄に大きいだけの靴跡だった。

「あいつ、あんなに、小さかったのに……」

 白い毛並がふわふわとしていた。碧い瞳はガラス玉のようだった。いつだって俺たちに何かを期待して、ちっとも俺を怖がったりしなかった。膝のうえでころころ転がる姿が愛らしかった。眺めていると自然に口元が緩んだ。俺はそんな瞬間がとても好きだった。

 柚木崎は、割れ物に触れるような声音で言った。

「……神杉くんだって、知っているでしょう。死は、。何の関係もない。それはいつだって、ある日突然よ」

「……わからねえよ」

 本当だ。考えれば考えるほどわからなくなる。井上の母親だってきっとそうだったはずだ。。ある朝車輪に轢き潰されるだけが生きていることだと言うのならば、喜びと悲しみの意味はなんだ? 誰かを大切に想う気持ちは?

 理由がなければ、おかしいではないか。辻褄が合わない。そう思う。

 蹴りつけたゴミ箱をじっと見据えた。それこそ意味のある行為ではなかった。目の置き場などに意味はない。だが逸らすことも認めがたかった。ゴミ箱を見ることも、柚木崎を見ることも同じであるなど、一体どうして耐えられる?

 俺は、仇に対してそうするように自分の靴跡を凝視した。土色の靴跡。

「あれ……?」

 瞬間、すとんと何かが下りてきた。軽い、段ボールの箱でも落ちるように、ある記憶が頭に浮かんだ。不確かな残像はすぐに霧散し消えようとする。俺はひらめきが溶けてなくならないよう意識して掴み、眼の奧で眺め回した。

 身震いがした。

「……柚木崎、先に帰っててくれ」

「神杉くん?」

 踵を返し、錆だらけのチャリへ走った。途中、足がもつれ転倒した。でも関係なかった。鉄板のような地面も、柚木崎の声も関係ない。前のめりにまた走った。

「神杉くん、どうしたの?」

 スタンドを蹴り上げ、サドルに跨る。説明している時間はない。できるのは短い返事だけだ。振り返らずにペダルを踏んだ。 

「わかったかもしれない!」

 反応を待たず、景色を後方へ流していく。生きる理由も、生きられない理由も、今は背後に置き去りにする。

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