(2)特別でないこと

 真っ暗で蒸し暑い廊下を走り、何番目かの扉を空けた。何を目的とした部屋なのか分からないし知ったことではなかった。分かるのは手前の部屋と同じかび臭さ。蒸し暑さ。そして他の部屋より少しばかり片付いていることに俺は感謝した。ゴミもガラクタも散らかっていないので注意力を発揮する必要もない。汚れた扉の対角線上、硝子の外れた窓枠の下に探し求めた影があった。

「ソウセキ!」

 俺のことを覚えているのだろうか。黒猫はケージの奧からニャアと鳴いた。駆け寄り、黒ずんだ床に膝を着く。

「ああ、よかった……。ソウセキ、よかったっ」

 抱きかかえるようにケージを掴んだ。安堵が涙になって溢れた。最近の俺は泣いてばかりだ。視界を曇らせるものを甲で拭い、中を覗き込んだ。ソウセキは体躯と同じ真っ黒な籠に捕らえられていた。見たところ怪我もなければ、衰弱している様子も見られない。ナツメには似ない眼光の鋭さはマンションにいたときと変わりなかった。

「本当に、よく無事で……」

 無意識に扉を開けようとして我に返った。こんな場所でソウセキを解放したところで扱いに困るだけだ。心苦しいがしばらくは中で大人しくして貰ったほうがいいだろう。

 ならば、次はどうする。警察を呼ぶか。

「いや」

 ソウセキを連れてこの場を離れるべきだ。が来ないとも限らない。速やかにこの場を離れ、速やかに警察を呼ぶ。これがベストだ。

 再度ケージを覗く。ソウセキは随分と落ち着いている。もはや俺を見てすらいなかった。床と平行に上げた視線でどこか一点を見つめていた。耳を小刻みに動かし、ひげが前方に傾けていた。違和感を覚え、ある言葉を思い出した。

『猫はとても耳が良いのよ』

『人間には捉えられない音を』

『たとえばネズミの』

 ネズミの。

 振り返らずに身を捻った。が、回避は不完全だった。軸にした左肩から背にかけて鋭く熱が奔った。激痛と呼べるものだったが悲鳴を上げる暇はなかった。反転した勢いで数メートル距離を取り、元いた場所に向き直った。

 は舌打ちを響かせた。

「勘のいい野郎だ」

 だらりと垂れ下がった右手。握ったナイフは血に塗れ、切っ先にはぷっくりと赤い雫が付着していた。床の血痕は全て俺の肩から飛び散ったもので、ぞっとするような量だった。だが避けていなければ頸椎を貫かれて死んでいただろう。俺は熱と服の湿る感触に顔面を歪ませ、喉を絞った。

「菊池ィ、やっぱりお前だったんだな……!」

 菊池は、自身の失態を覆うように語気を強めた。

「神杉、どうしてここが分かった? 知っていたのか、この場所を」

 裂け目から腕に血が滴っている。治療が必要な傷だ。ここが閉院していなければすぐにでも施術して貰えただろうに。詮無い考えを自嘲する。

「先月調べに来たからな、この。柚木崎と一緒にな」

 菊池の髪がざわりと揺れたような気がした。錯覚だったのかも知れない。だが苛立っているのは確かだろう。菊池はさらに声を鋭くする。

「だが、僕が使っていることには気付いていなかったはずだ。気付いていれば、僕はとっくに捕まっていたはずだからな。それが、今になって、なぜだ?」

「バカが!」

 鼻で笑う。

「足元を見ろよ。、誰だって気付くんじゃねえか?」

 菊池の靴には白い粉が付着していた。室内には四方八方に同色の靴跡が連なり、中には俺のものも含まれている。最も真新しい軌道を見れば菊池が一直線に俺を刺しにきたことだって一目瞭然だ。少量なので白っぽく見えるが、よくよく観察すれば粉は微かに赤みがかっていた。

。まだフロアに残ったままだったな。お前に散々踏みつけられたときも、制服にきっちり跡が残ってたぜ」

 あのときは俺も半ば自棄になっていたから足跡の意味を深く考えようとはしなかった。せいぜい、グラウンドの白線引きが頭を過ぎった程度で、それもすぐに忘れた。だが、猫殺しが顔見知りである可能性を加味すれば話は別だ。制服の靴跡から廃病院を連想するのも難しい話ではない。

(こいつだ)

 間近で爆ぜる音が聞こえた。何かが、何度も爆ぜる音だ。ウーファーがリズムを刻むような重低音は速度を上げて強まっていき、やがて身を震わせるほどの大音響に膨らんだ。俺の、心臓の拍動だった。全身を血液が巡った。熱流が脳味噌を焼け焦がすのを感じた。想像と現実の一致が、周回遅れの激怒をもたらした。

 こいつだ。こいつが殺したのだ。

「お前が、ナツメを、殺したんだな!」

「ナツメ?」

 菊池が、不愉快そうに片眉を上げた。

「柚木崎が飼ってた、白猫のことだ。お前が、さらって、殺したんだろう!」

 一言一言、握り潰すように言葉を区切った。意識しなければ喋ることすらできなくなりそうだった。理性は容易に弾け飛ぶ。真っ赤な視界に身を委ねさえすれば。

(だが)

 拳を握る。血の滴る刃を見やる。刃の先のケージに目をやる。

 怒りに身を任せるのは簡単だ。だが状況はそこまで簡単ではない。裂けた肉がそう囁いた。

 菊池がふんと鼻を鳴らした。

「殺したよ。僕が柚木崎から貰った。この黒猫もだ」

 爪先でケージを蹴りつけた。

「貰った以上は僕のものだ。僕がどうしようと僕の自由だ」

 さらに蹴る。蹴る。蹴る。何度も。

 無造作に蹴られるたびに黒いケージがガタガタと暴れた。

「おい!」

 たまらずに叫んだ。菊池は素直に従った。だが表情は勝ち誇っていた。自分の優位に気付きつつある顔だ。余裕面で続けた。

「他にも色々解体したよ。鳥とか。ハムスターとか。子犬とか。有意義な経験だった。人間として一回り成長できた気がする」

「市内で、猫を殺したのもお前だな」

「そうだ」

 正面を向き、肩をすくめた。

「でも、あれはよくなかったな。ここが使えれば目立つ場所で遊んだりしなかったのに。困るよ。さすがに。新聞は」

 つまり、こういうことだ。

 菊池のは町中ではなくずっとこの廃病院だったのだ。町外れで人がいない。人がいないので見られる心配もない。どこかで生き物を調達しては持ち運んで殺していた。俺たちは犯行現場を割り出すために円心仮説とやらを当てにしたが何てことはない。外から見えにくい拠点が一つあれば移動の必要など端からないのだ。

 だが、そうした立地に目を付けた人間が他にもいた。

「あのゴミ共さえこなければなァ」

 リュウとテツ。二人組のチンピラ。あの二人もろくでもない理由のために廃病院に着目し、たむろするようになった。居つかれてしまえば追い出すこともできない。仕方なく菊池は遊び場を外へ移すことにした。それが俺と柚木崎の目に留まった。

(戻ってきたのは、俺たちがあいつらを追い出したからか)

 付着した血でも眺めていたのか、菊池は刃を翳したり裏返したりしていた。解体に使うためのものだろう。かつて目にしたものと比較すれば刃物としての存在感が段違いだった。刀身の一挙一動に意識が反応してしまう。

 どう対処するべきか。道場での記憶を手繰っていたそのとき、不意に、菊池の頭部が前方へ傾いた。

「くッ……!」

 フェイントも糞もない。頸動脈を直接的に狙った横薙ぎだった。俺は後方へ回避、と言うよりただ驚いてバランスを崩し、勢いで壁に背を打ちつけた。菊池は左手で俺の襟を掴み、返すナイフで腹部を抉ろうと動いた。が、俺もまた左で手首を掴み追撃を妨いた。腹の数ミリ先で切っ先が小刻みに揺れた。

 裂けた肩の肉が痛んだ。長くは押さえていられない。

「っォラァァッ!」

 菊池の胸に右腕を押し当て力任せに突き飛ばした。手が襟から離れる。菊池は大きくよろめいた。しかし転倒まではしなかった。距離を取り、足を止めた。全身から冷や汗が噴き出した。

「難儀なもんだな」

 菊池がくつくつと肩を揺らした。

「今、蹴りなり拳なりで追い打ちをかけていれば僕を寝かしつけるのも簡単だった。違うか?」

 答える余裕はなかった。呼吸を整えるので精一杯だった。沈黙を肯定と捉えたかどうかは分からない。少なくとも菊池に口を噤む気はないようだった。

「さて、状況を整理してみようか神杉?」

 刃の腹でぺちぺちと掌を叩いた。

「僕にとって最もまずいのはお前にこの場から逃げられることだ。その傷なら走っても僕のほうが速いだろうが入口にはお前のほう近いな? リスキーな賭けになるが成功する可能性は充分にある。県道まで逃げ切れば車に助けを求めることもできるだろう。そうなると僕は」

 両手を上げた。薄ら笑いを浮かべて。

「お手上げだ。どうすることもできない。なので観念するしかないが捕まる前にこの黒猫は殺しておこうと思う」

 切っ先を足元のケージに向ける。

「これがお前にとってまずい状況だな? たかだか猫一匹にとても信じられないが、糞が漏れそうな顔して必死こいて助けにきたんだ。見捨てるって選択肢はないだろう。つまり僕から猫を奪って逃げ切ることがお前の勝利条件なわけだが」

 菊池の口許が三日月の形に歪んだ。

「神杉、お前は人が殴れないんだろ?」

 俺は無言で通したが駆け引きは成立しそうになかった。俺はまさにこいつに殴りかかって一度失敗しているのだから。

「イップスってやつか? だらしのないやつだ。それに理解できんね」

 芝居がかった仕草で呆れて見せた。

「楽しいだろ? 生き物を殺すっていうのは。家から学校に通うだけじゃあ得られない経験だ。たとえばだ、手足を切り取った猫がどうなるか知っているか?」

 意味が、理解できなかった。理解できないし、想像もできない。俺はただぽかんと呆ける。菊池は失笑し自ら答えを口にした。

「猫はすぐに観念しないんだ。威嚇もすれば、逃げようともする。失った手足を芋虫みたいにバタバタさせながら、それこそ、必死でな」

「……やめろ」

「なのにある瞬間、不意に大人しくなる。不意にだ。僕はすぐさま猫の瞳を覗き込む。死はいつもそこに現れる。猫はまだ息をしているし心臓だって動いている。。生きているのに、死んでいる。昼から夜にうつろうみたいにその境界がはっきりとしない」

「やめろっつってんだろ!」

 語り手は、どこまでも涼しげだった。

「命が物に変化していく時間は本当に興味深い。何度見ても飽きないし、とても……官能的だ。あれこそ支配の快感だよ。って感じがする」

 皮膚を、虫が這い上がってくるような怖気に襲われた。俺は、それでも冷静であろうと唇を噛んだ。だが耐えられなかった。内側を侵さんと蠢く脚を、悲鳴にも似た怒号で拒絶した。

 ふざけるな。

「ふざけるなよ変態野郎がッ! クソッ、冗談じゃねえぞ。ナツメはお前のクソみてえな満足感のために生きてたわけじゃねえ。他の猫もだ!」

 反応は淡泊だった。わずかに片眉を動かしただけ。その角度が怒りの値打ちだと言わんばかりに。

「でもさあ神杉。お前だって肉は食べるだろ? 食べたら美味かったって満足するだろ? 家畜だってお前を満足させるために食肉処理場で解体されてるわけじゃない」

 無視してもよい言葉だったのかも知れない。しかし、できなかった。気付けば整合性を図ろうとする自分がいた。

 不意に、菊池の顔に別人の影が重なった。丸い瞳が問いかけてくる。

『じゃあ、あの子には価値がなかったっていうことになるのかな』

 言葉に詰まった。何の答えも浮かばなかった。

 部屋が狭い。迫ってくるようだ。こんなにも天井は低かっただろうか。息苦しさに、喉が渇く。唾を呑み、言葉を吐き出した。

「……そうじゃないから、大切に扱うんだ。ガキみたいな屁理屈で誤魔化すな」

 重なる表情が苦笑した。くだらない答えを聞いたとばかりに。

「教科書にはそう書いてあるかもな。でもな神杉。誤魔化しているのはどっちだ? どんな尊いお題目を並べようと殺される側にとっちゃ同じじゃないか? 知ったふうな顔をして『俺も子供の頃はそんな難しいこと考えたなあ』って笑って済ませればそれでいいのか? 殺した命に感謝して食えば許されるのか? みんな仕事と勉強で忙しいから考えるのが面倒臭いだけじゃないか? 僕の行いはそんな忙しさに断罪されるのか?」

 赤い舌がちろりと見えた。舐めるように囁いてくる。「なあ、神杉」と。

「これってそんなに特別なことか?」

 くだらない。くだらない妄言ばかりだ。考える価値はない。考えてはいけない。俺は一つ一つの意味を考えまいとして、声を張り上げた。

「強がるなよストーカー野郎。俺が逃げて通報すりゃお前は警察に捕まるんだぜ。その特別でもなんでもないことでよ」

「そりゃ法律があるからだ。心にもないことを言うなよ神杉。お前は僕が法律を破ったから怒ってるのか? 違うだろ」

 馬鹿々々しいと一笑に付す。

「だがお前のその怒りだって僕に言わせりゃ支離滅裂だ」

 菊池の瞳には何も映ってはいなかった。何もない。目玉が収まっているはずの場所には空洞が広がっていた。底の見えない、がらんどう。呑み込まれそうで、汗が滲んだ。

「受け入れろよ。猫が一匹死んだところで世界は何も変わりゃしない。僕が気持ちよくなって、お前が嫌な気分になるだけさ。命を奪うなんてのはさ。その程度のことなんだよ、神杉」

 さて、と菊池がナイフを揺らした。垂れていた切っ先が、ぴくりと上向きに持ち上がった。

「僕の勝利条件を話していなかったな。もちろんお前を殺して黙らせることだ。死体の処理に困るだろうが、それは殺したあとで考えてみるよ。どのみち……忘れてるんじゃないだろうな? 柚木崎を傷つけた害虫を生かして帰すつもりはないんだ」

 雄弁な口から熱が引いていくのを感じた。の段取りに入ったのだろう。俺は部屋の入口を横目に見た。

 状況はクソッタレだった。胸糞悪いが菊池の指摘に間違いはなかった。俺はソウセキを見捨てて逃げられないし、菊池を殴って黙らせることもできない。殴らずに無効化する手段もないわけではないが、この肩で一体どこまで動けるものか。傷は深手だ。僅かに腕を動かすだけで裂かれた肉に痛みが奔る。神経に支障はなくとも痛覚が動作に及ぼす影響は無視できなかった。不用意に組み付けば、一刺しで返り討ちだろう。

 俺が逃げればソウセキは死ぬ。ソウセキを救えば俺が死ぬ。どちらに転んでも結果は糞だ。

 熱を孕む頭に、声が響いた。

『これってそんなに特別なことか?』

 幻聴らしかった。眼前の男は一言も発していない。爬虫類のように、ただ機会を窺っている。

 ケージに目をやった。黒猫もまた俺を見据えていた。ぼんやりと光る金色に射抜かれ、俺は喉を上下させた。

 何も、特別なことじゃない。

「くそッ!」

 入口へ走った。背後で菊池が「アハ」と笑った。だが無視をした。薄暗い通路に飛び出し玄関を目指した。フロアまでは三十メートル。県道までは百メートル。五体満足でも逃げ切れるのか微妙な距離なのに、今は痛みが足枷になる。やはり全力では走れない。それでも千切れるほど脚を動かした。菊池の足音がすぐ後ろで響いている。鼓動が速まる。破裂しそうなほどに。

 通路を抜ける。視界が明るくなる。フロアだ。薄紅の粉末を踏み締めガラス戸を目指す。残り数メートル。間に合う。

 安堵が脳裏を掠めたところで、俺の身体が斜めに傾いた。

「!?」

 一瞬の出来事だった。体勢を立て直す暇はなかった。受け身を取る時間すらなかった。

 粉末で足を滑らせた。

 気付いた瞬間には頬骨を床に打ち付けていた。勢いで身体が回転した。ガラス戸を横に過ぎて壁にぶち当たった。菊池の嘲笑がフロアにこだました。

「かっ……神杉! お前バカだろ! ふつう、ここで、こけるか!? あはははは!」

 菊池は、涙まじりにひいひい笑う。状況が状況でなければ友人のドジを笑う年相応の姿に見えていたかも知れない。横倒しになった視界には腹をよじる菊池の姿。落ちて転がるスマホ。薄紅色の粉末。それよりも赤黒いまだら模様。菊池は、血痕を踏み締めながら、ゆったりと近付いてくる。

「ハァー、面白かったァ」

 強打した背中が痛む。寒気も。肩の感覚が薄らいでいた。

「無様だな神杉。猫を見捨てた結果がこれか。呆気ない幕引きだよ。まあ順当と言えば順当だ。安心しなよ。猫もちゃんと殺しとく。あっちで仲良く喧嘩でもするといい」

 菊池なりの冗談だったのだろう。面白くも何ともなかったが、ドブネズミの視線で床を眺めていると自然に可笑しさが込み上げてきた。最初は引きつけようだったそれは、時間を経るごとに膨らみ、やがて声になって口から漏れ出した。背中の痛みで大声は出せなかったが、俺は腹筋を痙攣させることに躊躇しなかった。

「なんだなんだ、狂ったのか?」

 菊池が、興味深そうに覗き込んできた。構わずに笑い続けた。這いつくばったまま。

「人間を殺そうとするとこういうことが起きるのか? へえ、面白いな。興味深い」

 馬鹿々々しかった。馬鹿々々しくて、馬鹿々々しかった。

「何だか色々と試してみたくなるな。神杉、ちょっとお前の腹を裂いてみるけどいいよな? どういう反応をするのか見てみたい」

 俺はまさにその腹を抱えた。

「腹を、裂く、のか?」

 可笑しくて堪らなくてまた笑う。裂くまでもなく、腸がよじれて死んでしまいそうだった。

「ああ、どうせ死ぬんだし構わないだろ別に。ああ、その前に脚の腱を切っておこう。暴れられても面倒だ」

 菊池がカエルみたいに膝を折った。反撃はないと知っているからだろう。期待に満ちた目で不用意に足首に手を伸ばしてくる。俺は両目に涙を溜めながら菊池に言った。

「やめろよ菊池。やめろ。腹を裂くなんて無理だ。なあ……やめろって」

「無理じゃないよ。じっとしててくれ」

「やめろよ、無理だ」

「無理じゃないって。少し黙ってろよ神杉」

「やめとけ。絶対に無理だよ」

 口の端を釣り上げる。

「え?」

 と振り返る菊池の瞳には一体何が映っていたのだろう。

 伊戸の、彫像のように引き締まった脚がニヤけた顔面にめり込んだ。その瞬間が、俺には実にゆっくりと見えた。菊池は反応すらできずびたんと床に激突した。さらに伊戸は、仰向けになった胴体目がけ、目を覆いたくなるほど強烈な下段突きを叩き込んだ。「ひゅっ」と奇妙な音が漏れ、鉄拳が引かれたときには、菊池はもうぴくりとも動かなくなっていた。

 俺は、落ちたスマホに手を伸ばし、節々の痛む身体を起こした。力なく笑った。

「……遅えよ伊戸。もう、間に合わないかと思った」

 色男は舌打ちをする。

「あほ。だったら俺と合流してから突入しろや。まずは泣いて感謝しろ糞神杉」

「いや、すまん。急いでた。マジで助かったわ。さすが伊戸さま。命の恩人」

「あたりめえだボケ。貧弱な語彙で伊戸慎介さまの雄姿を褒めたたえろ」

「あー、語彙が貧弱だから思い付かねえわ。まあアレだ。助かったわ。命の恩人」

「本当に貧弱だな」

「しかしよお、伊戸」

 と白目の菊池を見下ろした。鼻がおかしな方向に曲がり、真っ赤に染まった下半分はどこに唇があるかも分からない。胸は規則正しく上下しているので、とりあえずは生きているようだが、

「お前、ちっとは加減しろよ」

「あァ? 加減? したぜ。ちゃんと」

 伊戸のローは束ねたバットを軽々とへし折る。現役の頃は随分と腿を痛めつけられたものだ。そんな蹴りを顔面に喰らって死んでいないのだから、まあ、加減はしたのだろう。

「でも、死んでてもおかしくなかったぜ」

 伊戸は哀れな被害者を覗き込み、「まあな」と認めた。軽く肩をすくめ、その軽さと同じくらいの軽さで言い放った。

「でも正当防衛だろ?」

 ったく、どいつもこいつも。

 俺は、疲労感を背負い切れず、重い体を壁に預けた。

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