(2)動物殺し
そこは建物と建物の狭間にある数メートル四方の空間だった。雑多にそびえるビルの谷間に偶然生まれた場所なのだろう。路地とも言えない街の切り込みから不意に広がりを見せ、再び狭くなって反対側の道路へ繋がっていた。監獄のように迫るビルの壁面にはドブ色の染みがこびり付き派手やかな表の顔が張り子であることを証明していた。日陰独特の肌寒さ、そして苔臭さが鼻を突く。だが陽が傾き始めている今は隙間から射し込む斜めの光が歌劇のように荘厳な画を俺の網膜に映し出していた。
柚木崎夏凛は舞台の中央に佇み、黄金色のスポットライトを一身に浴びていた。神聖な存在に祈りを捧げるように。あるいは宣託を受けるかのように。厳かに。静謐に。小さな亡骸を見下ろしながら。
猫は一目に死んでいると分かった。ぴくりとも動かず灰色の四肢を薄汚れたアスファルトに投げ出していた。たとえ静止した状態でも筋肉は機能し命の揺らめきを反映する。生物の特有の形を作る。それが、毛の先一つも感じられなかった。目を凝らせば体の下には赤黒い影が重油のように広がっていた。溢れ出た大量の血液。一つの個体のものだとすればとても生きていられる量ではない。猫は、生きてはいなかった。
目眩を覚えた。校門を出るまではいつもと変わらない毎日だったはずなのに、いつの間にか悪い夢に取り込まれている。組み立てられない現実の破片が脳みその中でぐるぐると渦を巻き、俺の理解を拒絶していた。
柚木崎夏凛。沈む光に照らされた女。猫。足元に転がる肉の塊。二度と動かない空っぽの容れ物。人形。崩れ落ちた人の形。もう二度と動かない。こわれたいのち。
「ぐっ……!」
シャツの胸元を捻じり掴んだ。背中を折り曲げ痛みに耐える。心臓に指をねじ込まれ、繋がる管を引き千切られるような痛み。手足の先に冷感が奔り、唇が小刻みに震えた。目を瞑って歯を食い縛る。全身の皮膚から汗が噴き出していた。息が、浅い。
「神杉くん」
女の声が間近に聞こえた。
「大丈夫?」
声が反響している。空間に。壁面に。俺の頭蓋骨に。狂ったように撥ね回った甲高い音は、振動数を出鱈目に突き上げ、金属染みた耳鳴りに変化する。蝸牛が歪んで破裂しそうだった。
「とても、苦しそうだけど」
苦しい。そう、とても苦しかった。消えて欲しかった。右手に残る胸骨の感触も、壊れて動かない手足も、半狂乱の悲鳴も、あいつの名前を叫び続ける声も、頭痛も、目眩も、痛みも、恐怖も、全部全部消してしまいたかった。
俺じゃない。俺のせいじゃない。俺は悪くない。こいつだ。目の前にいる女。こいつが殺した。柚木崎夏凛。動物殺しの女。いや、そうじゃない。こいつじゃない。猫を殺したのは、
「……お前、じゃない」
辛うじて、一言だけ絞り出せた。胸は引き裂かれるように痛む。呼吸も浅い。だが、意識だけは暗い底から浮上しようとしていた。必要なのは深呼吸、吐く息を意識することだ。血中の二酸化炭素を増加させ、同時に肺に酸素を取り込む。腐ったドブみたいな空気も今はただ、嬉しい。
心臓が叩くように脈打っていた。破れてしまいそうで怖い。でも大丈夫だ。俺は生きている。大丈夫。何とか声も出せそうだった。
「猫の、その出血量なら、手も、袖だってもっと汚れているはずだ。それに……お前がここに入って、まだ数分も経っていない。お前がやったんじゃない」
顔を上げた。柚木崎は少しだけ吃驚したように目を丸くしていた。
「……ありがとう。意外とちゃんと見てるのね」
息を整え空を仰いだ。谷底から見える狭い空。だいぶ落ち着いてきた。シャツから手を放し、周りを見回した。
「他に、人がいたのか?」
「……私はこの子が見えたから入ってきただけ」
歩道から見つけたのか。そっちこそよく見ている。普通なら見過ごすような隙間だ。
猫の死骸に近付いた。猫は口と両目を半開きにして息絶えていた。緑の瞳は生気なく濁っていて、鼻の下からちろりと舌が突き出ていた。
「……ひどいな」
出血元は腹部だった。猫は喉から下腹部にかけて縦に大きく切り裂かれていた。裂け目からはピンク色の内臓が零れ、獣臭さとは違う生っぽい臭気を放っている。数匹のハエが傷口を舐めるように羽を鳴らしていた。
誰が見ても自然死ではない。動物の仕業でもないだろう。昨日の馬鹿共のいたずらとも全く違う。強烈な悪意の所業だった。
「死後三十分ってとこかな」
柚木崎の言葉に驚きの目を向けた。
「そんなことわかるのか?」
「わからないよ。でも、そんなとこじゃない? まだ血も渇いてないし」
柚木崎に釣られて地面を見やる。赤く西日を反射する血だまりには液状の部分が確かにある。さほど時間は経っていないという柚木崎の見立てを裏付けているようだった。俺は柚木崎に視線を戻した。
「ここに入ったのは本当に偶然か? たまたまこいつを見つけただけなのか?」
柚木崎は小ぶりな頭を傾け「うーん」と考え込む。随分と落ち着いていた。昼休みの世間話に応じるような気軽さだ。それとも俺が昂ぶり過ぎているだけなのだろうか。
「そうだね。偶然と言えば偶然だけど、まるで偶然とは言えないかも知れない」
何を言ってやがる。
もったいぶった言い回しが癇に障った。それが表情に出たのだろう。柚木崎が薄く笑った。
「……怖い顔しないでよ。何ならどこか落ち着けるとこで話す?」
ここはちょっと居心地悪いし、と肩をすくめる。俺も場所を変えることに異論はなかった。
「……でも、ちょっと待ってくれ」
「?」
俺は再び地面を向いた。このままではいけないだろうと、そう思った。
墓石を置くことはしなかった。石なら川原にいくらでも転がっている。だから置いてもあまり意味がないように思えた。ならば、この行為にどこまで意味があるのか。自分でもよく分からないまま被せた土の前で手を合わせた。
俺たちは近所の文具店でスコップと段ボールを借りてバカ共とじゃれ合った川原まで骸を移動させた。弔うなら他に適当な場所もあったのだろうが、その適当な場所が思い浮かばなかった。骸を段ボールに詰めたのは柚木崎だ。とても女子にさせることではなかったが俺は触れる前に吐いてしまった。見兼ねた柚木崎が代わりにやってくれたのだ。猫の死骸に取り乱し、女の前で嘔吐する。男として情けない限りだが柚木崎は案外淡々とこなしていた。血や肉を扱うのは女のほうが強いというのは本当かも知れない。まあ、俺は男でも特に弱い部類だろう。
土の前で合掌していると答えのない問いが浮かんでは消えた。
この猫は飼い猫だったのだろうか。野良猫だったのだろうか。餌をくれる人は、喉を撫でてくれる人はいたのだろうか。名前を呼んでくれる人は、いなくなって悲しんでくれる人は。
犯人は何のために猫を殺した? 考えるだけで反吐が出そうだった。こんな猫を殺す意味などあるわけがない。ただ殺して、命を弄びたいという、それだけの理由なのだ。許されるべきではない。許されるべきではなかった。
俺は重い瞼を開いた。眼前には掘り返して埋めた土の跡だけが残っている。これが一生の最後かと思うとやるせなかった。
屈んだまま背後を振り返った。月みたいな瞳が俺を覗き込んでいた。
「こういうことってよくするの?」
「こういうこと?」
「道で轢かれた猫とか。よく死んでるでしょ?」
返答に詰まる。
しない。別にいつもしてるわけじゃない。普段なら可哀想にと横目に見ながら通り過ぎて行くだけだ。でも、そう答えていいか分からなかった。俺は言葉を選ぶ。
「こいつは、弔ってやらなきゃならないと、思った」
立ち上がり柚木崎に向き合った。今度は柚木崎が俺を見上げる。
「どうして?」
どうして? どうしてだろう。また少し考え、こう答えた。
「だって、こんなの、あんまりじゃねえか」
そうだ。あんまりだ。こんな死に方。あんまりだ。
柚木崎は賛同も異論も挟まなかった。ただ一言「そう」と反応し、俺に真っ白なハンカチを差し出してきた。
「涙」
「え?」
「拭いたらどう?」
俺は慌てて目元に触れる。頬に熱いものが流れていた。気が付かなかった。無性に恥ずかしくなり、両目を腕で隠した。でも、駄目だった。意識をすると次から次へと感情が溢れ出してきた。顔の、口の引き攣りが抑えられなかった。
ハンカチを受け取り、顔面を覆った。口から悲鳴みたいな声が漏れた。悲鳴と涙がいつまでも止まらなかった。猫はもう二度と動かない。それが悲しくて仕方なかった。
柚木崎は土の前に座って無言で手を合わせていた。
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