(3)神杉空竹と柚木崎夏凛
「ただいまー」
分厚い扉をうんしょと開き柚木崎が言った。俺は「え?」と声を上げてしまう。柚木崎が目をぱちくりさせた。
「? どうしたの」
「あ、いや」
口ごもる。玄関の真横には表札が掲げられていた。柚木崎智弘。さらに混乱して、後頭部を掻いた。
「柚木崎って、独り暮らしじゃないのか?」
「神杉くん、何で知ってるの?」
柚木崎が不思議そうに小首を傾げるので、俺は柊から教えて貰ったのだと答えた。
「ああ、柊さん。仲良いもんね。付き合ってるんだっけ」
「いや、友達だよ」
理屈っぽい男友達とつるんでいる感覚だ。だが周囲からは特別な関係と見られているのだろうか。俺自身はあいつの恋愛観なんて知らないし恋をする姿も想像ができない。付き合うとはまた現実感のない話だった。
「私、あのひと苦手なんだよね」
玄関に踏み入りながら柚木崎がぼやいた。
「無口だし、無表情だし。何考えてるのか全然わかんない。値踏みされてる感じがする」
そりゃただの同族嫌悪じゃないか。喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込み俺もまたドアをくぐった。
「でも、あのひとが描く絵は好きかな。さびしくて、とても懐かしい気持ちになるの。冬の空を眺めてるみたいに」
上り口はさっぱりと片付いていて夏色のサンダルが一足揃えられているだけだった。可愛らしいサイズからしてこれは柚木崎本人のものだろう。やはり家族の履物は見当たらない。俺の困惑を察してか、柚木崎が答えをくれた。
「危ないでしょ? 独り暮らしだって目を付けられたら。だから家に入るときは必ず言うようにしているの」
家族がいるように振る舞っている、ということか。表札を父親の名前にしているのも同じ理由だろう。女子の独り暮らしには男にはない苦労があるらしい。
「しかし、独り暮らしなんてよく許して貰えたな。そんなに家が遠いのか?」
「通えないほど遠くはないかな。でも、叔父さんも叔母さんも反対はしなかったよ」
「叔父さん?」
オウム返しする俺に、柚木崎は「ああ」とつぶやき「そこまでは知らないんだね」と素っ気なく言った。上体を屈めて踵に手を伸ばす。
「私の両親もう死んでるから」
淡白な口調だった。今日は晩御飯要らないからと家を出るとき言い添えるような。だから俺も「へえ、そうなのか」と味気ない言葉を滑らしてしまった。うまく働かない頭に柊の言葉が過る。
『友人も家族もいないので何も描けませんでした』
友人も、家族も。
「……すまん。不躾なことを聞いちまって」
「いいよ。上がって」
柚木崎は脱いだ靴を律儀に下駄箱へと仕舞う。俺も靴を揃えて後ろに続いた。玄関を上がるとすぐ右手にキッチンがあった。柚木崎は銀のドリップポットに水を注ぎヒーターのスイッチをオンにした。それはとりあえずそのままにして木枠の扉を開き奥へと通される。
「そこ座ってて」
コーヒー淹れるから、と案内された先にはガラス張りのローテーブルがあった。指示されるまま部屋に入り胡坐をかいた。キッチンボードからカップを取り出す柚木崎を横目に室内を見回してみる。
柚木崎の住む部屋は河川敷から10分ほどチャリを漕いだ場所にあるマンションの三階だった。西高からは徒歩で5分と言ったところ。柚木崎がホームルームギリギリに登校する理由も理解できる距離だった。部屋はワンルームで身の回りのものは概ねこの部屋に詰め込まれている。部屋の角には勉強机があり、同じ学生として焦りを覚えるほど参考書類が綺麗に並べられていた。机の上にはスタンドライトに時計、サボテン、ノートパソコンなど簡素な小物が置かれている。隣にある書棚には書籍がびっしりと詰まっているほか、数点のスケッチブックが立てかけられていた。他にはタンス、姿見、空気清浄機などが置いてある。バルコニーは南側だ。必要なものを必要なだけ揃えたという印象の部屋で何とも柚木崎らしい。ただテーブルの正面にあるベッドと、乱れた毛布を眺めていると女子の部屋に上がったという実感が湧いてきて居心地の悪さを覚えた。
そして、もう一点気になったのは、室内に漂う微かな……。
「柚木崎、猫飼ってる?」
キッチンのほうで柚木崎が答えた。
「二匹ね。やっぱり臭う?」
「多少な。姿は見えないが」
「だったら多分ベッドの下。慣れたらそのうち出てくると思うよ」
「マンションで猫とか飼っていいのか?」
「うちはペット可だから」
ホントかよと訝しみながら上体を傾けてベッドの下を覗いてみる。脚が低過ぎて奥のほうまでは見通せなかった。俺の頭は暗がりの猫を想像しようとする。しかし浮かんできたのは全く別のイメージだった。
内臓のはみ出た猫の死骸。
詮の緩みを覚え、指先で目元を拭った。ふと見上げるとぼやけた視界に柚木崎の姿があった。柚木崎は部屋に入ろうとせずトレイを手に入口で佇んでいた。黒い瞳が静かに俺を見据えていた。
「……なんだよ」
柚木崎は「別に」と応答する。敷居をまたぐとテーブルの傍に寄って膝を着いた。
「神杉くんが座ってるとものすごく部屋が狭く見えるなって」
ほっとけ。
俺は差し出されたカップをサンキュと受け取る。指の腹に伝わる熱と共に、黒い香りが鼻先をかすめる。柚木崎はさらに小瓶とフレッシュを配った。
「砂糖は?」
「要らない。でもクリームは貰うよ」
「一杯でいいよね」
俺は中身が飛び散らないようフレッシュのフタを開け湯気立つカップに丸く注いだ。銀色のスプーンで白と黒が溶け合うまでかき混ぜたあと、玩具みたいな取っ手を摘まみ、口元へ運んだ。匂いよりも熱が鼻孔に充満する。口に含む。絶妙な熱さと苦さが舌を包んだ。
「少しは落ち着いた?」
柚木崎は床ではなくベッドに腰を下ろした。甘党なのか、角砂糖をいくつも摘まんではカップの中へ落としていた。すぐには口に運ぼうとせず、一旦テーブルの上にカップを置いた。
「さて、どこから話そうかな」
柚木崎は上半身を後ろに倒し、両腕に体重を預けた。スカートから足を伸ばし、天井を見上げる。俺はテーブルに片肘を突き、身を乗り出した。
「猫の死骸を見つけたのは偶然じゃない、って話だったな」
柚木崎は前髪を揺らした。喉の強張りを意識しながら、続ける。
「柊は、お前は動物を殺したことがある、と言っていたぜ」
反応は淡泊だった。眠たそうに「ああ」と零した。
「前に鳥の死骸をスケッチしたことがあるの。そういうのも面白いかなって。そしたらC組の神坂さんに描いた絵を見られて、あることないこと言い触らされて」
別にいいけどね、と心底どうでもよさげに言った。「神杉くんだって似たような経験あるでしょ」と訊き返されたが、俺は答えなかった。
「なら、一体なんなんだ?」
柚木崎は間を置いて話し始めた。
「はじめは近所にある月極の駐車場だった」
薄い唇は昨日のことのように語る。
「住宅街の真ん中にぽっかりと穴が空いたみたいなとこ。ほら、よくあるでしょ? 風景そのものは周りとそんなに変わらないのに、なぜだかひと気のない場所って。たぶん建物の配置とか道路の入り組みが関係してると思うんだけど」
「何となくわかるよ。それで?」
「放課後家に帰る途中、その駐車場の片隅に子猫が横たわっているのを見かけたの。近付いてみたら首が真横に裂かれてた」
二本の指で喉元を撫でるジェスチャーをする。俺はむず痒くなって肩をすくめる。
「異常な死に方だとは思ったけれど、そのときは別に何もしなかった。でも、知り合いにそのことを話したら、近所でも同じように殺された猫が二匹見つかったって言うの。その人の家も市内だから、もしかしたら同じ犯人の仕業なんじゃないかって」
「……いつ頃の話なんだ」
「三月の始めくらいかな」
三か月前か。
「それ以降、人気のないところが気にかかるようになってね。今日は当たりだった」
偶然と言えば偶然だがまるで偶然とは言えない。なるほど、曖昧だが的確な表現だ。でも、
「危ねえだろ、それって」
「うん、動物を殺すようなひとが同じ町に住んでると思うとちょっとね。私の知る範囲が犯行の全てとも思えないし」
「じゃなくてお前がだよ。危ないだろ」
柚木崎はきょとんと瞬きをする。
「きょとんとするとこか? 防犯意識はあるのに何でそういうとこに頓着ねえんだよ。相手は猫の腹を捌くようなイカレだぜ? そんなやつが出そうな場所に近付いて自分に何かあったらって考えないのかよ」
「心配してくれてるの?」
「するだろ普通。お前力なさそうだしよ」
柚木崎はむうと頬を膨らませた。どういう表情なのかよくわからなかった。柚木崎はカップに両手を伸ばし口元を隠すみたいに中身を含む。どうやら冷めるのを待っていたらしい。俺も適度に温くなったコーヒーを一口すする。
「警察には、相談したのか?」
柚木崎は首を振った。
「だったらこれから行こうぜ。あんだけ酷い殺され方だ。警察だって絶対に動く」
「でも、死骸埋めちゃったでしょ」
「れっきとした犯罪だぜ。死骸がなくたって動いてくれるだろ」
「どうだろ。死骸があっても難しいんじゃないかな」
なんでだよ、と片眉を上げる。柚木崎はカップを腿の上に乗せ、中を覗き込んだ。
「通報をすれば受理はしてくれると思うよ。神杉くんの話を記録して、現場だって確認してくれると思う。パトロールを強化するだろうし、意識して市内を回ってくれると思う。でも、それだけ。それでおしまい。犯人に辿り着くような捜査はしない」
「猫一匹には本気になれないって言うのか」
「人間と同じ捜査はできないってこと。だって犬や猫は喋らないもの。行動パターンだってわからないでしょう? 捜査をしてもきっと行き詰ってしまう。野良の場合は特にね」
言われてみれば、と腕を組む。
確かに、警察が殺人事件を捜査するとき被害者の人物像を洗い出すのは最重要項目の一つだろう。どんな職業に就いて、どんなスケジュールで動いていたのか。通勤時刻や勤務時間。家族構成に交友関係。資産。トラブル。怨恨の有無。様々な角度から周辺を捜査し、物証や証言によって容疑者を絞り込んでいく。動物の捜査にはそれらの手法が通用するだろうか? 喩えるなら被害者の身元が分からない事件を捜査するようなものだ。殺されたことは分かっても、素性や背景までは掴めない。
「でもよ、こういうことやるやつは……いずれ人も襲うんじゃないか」
「そんなことは警察だってわかってる。わかっていても動けない。他に対処しなきゃいけないことはいくらでもあるから。事件はまだ起きてないの。将来的な危険性を予感していても殺人事件ほど人手は割けない」
行き着く先は結局そこか。猫と人では重要性が違う。重要性が違うから後回しに扱われる。それはそうだ。誰だって猫よりも人を優先するだろう。俺だってその認識から外れているわけじゃない。
人と猫。人間と人間以外。
(一体、どこが違う)
胸の中に鈍いものを感じた。生温かなそれは気道を込み上げ頭蓋の奥で充満していく。俺は流動するそれを捉えて形を整えようと試みるが、掴んでも掴んでも指の間をすり抜け、もやもやと中空へ霧散していく。終わりのない思考の整合。ロジックを見出せぬまま意識は現実に引き戻されていく。俺はカップの取っ手を指で摘まんだ。
(もちろん)
中身を煽り、脳味噌を絞る。
もちろん警察だっていつかは動くだろう。放置できないと判断を下せば解決に乗り出すはずだ。だが、それはいつだ? もっとたくさんの猫が殺されたときか、世間の関心が高まったときか。あるいは影響力のある人間が進言すれば取り合ってくれるだろうか。しかし、少なくともそれは俺ではない。
苦味が思考に絡みつく。空の容器をテーブルに戻し、柚木崎の目を見る。
「どうすれば止められると思う?」
「現行犯逮捕」
用意していたように答えが返ってくる。俺は、口を開いて一旦閉じ、唾を呑んでからまた開いた。
「それって、俺にできると思うか?」
「無理。警察でも人手が足りないって前提なんだよ。それを友達のいない神杉くんが一人で? 時間は? 場所は? 犯行に及ぶその瞬間に神杉くんが居合わせるなんてあり得ると思う?」
柚木崎は口元にカップを運ぶ。
「探偵ごっこでもしたいの?」
「そんなんじゃねえよ。そんなんじゃねえけど……」
離れないのだ。もうずっと離れない。テープを剥がした跡みたいにいつまでも影が張り付いている。動かなくなったあいつの影が、もうずっと。だから俺には義務があるように思う。いや、それも欺瞞かも知れない。ただの自己満足。あるいは自分の中で崩れた何かの、そのバランスを保ちたいだけ。俺は俺のために何もしないではいられなかった。
柚木崎はテーブルに右手を伸ばした。空の容器が二つ並ぶ。スカートの上で指を結び、溜息を吐いた。
「神杉くん、犯罪機会論って知ってる?」
俺はただ眉を寄せる。それが答えだった。
「環境犯罪学っていうね、犯罪の起こる原因は人じゃなくて環境にあるって研究があるの。犯罪機会論はその考え方の一つ。それによれば犯罪に至る動機はあっても機会を奪ってしまえば犯行は阻止できると言われてる」
たとえば、と柚木崎は俺に指を向ける
「神杉くんが性犯罪者だとして」
「喩え悪過ぎだろ」
「私に部屋を施錠する習慣がないと知ったらどう? どうにでもできる、って思うよね。つまり私は施錠を怠ることで犯罪者に機会を与えてしまうことになる」
「言い換えれば施錠を徹底することは犯罪の機会を奪うことに繋がるってわけか?」
柚木崎はこくりと頷く。
「もちろん本気で押し入ろうと思えば方法はいくらでもある。でも多少なりと面倒だと思わせるだけで犯罪のいくらかを思い止まらせる効果があるの。これが犯罪機会論の考え方」
成程、独り暮らしの柚木崎が家族との同居を装っているのも同じ理屈だ。鍵がある。人がいる。難攻不落の城でなくとも犯行の手間を感じさせるだけで抑止になる。今回の件に置き換えれば猫を殺しにくい環境を作り出せば凶行に歯止めをかけられるというわけだ。だが、
「別に街中に監視カメラを付けろって言いたいわけじゃないよな」
「うん、本来はコミュニティ全体で取り組んでいくことだから。神杉くん個人でどうにかなるものじゃないよ。私が言いたいのは、じゃあ犯罪の機会って何? ってこと」
「そりゃあ、お前」
ひと気がない、とかじゃないのか?
「うん。それから入りやすいこと。入りやすくて見えにくい。こういう場所は犯罪の機会になり得るの。領域性・監視性が低い、とも言われてる」
猫を見つけた路地裏を思い出してみて、と柚木崎は右の手を開いた。
「戸も柵もないから簡単に入れる。歩いている人は気にも留めない。犯行は容易い」
「つまり、領域性・監視性の低い場所を探せば犯行現場を抑えられる可能性が高いと、そう言いたいのか」
「闇雲に歩き回るよりかは、ね」
柚木崎は前髪を指で撫でた。指先が触れ、離れたところからはらはらと髪が揺れた。
「小学校の授業で防犯マップとか作らなかった? 地図に場所を落としていけばある程度犯行現場を絞れるかも知れない」
犯罪を避けるための地図を逆に利用するわけか。
俺は口元に拳を当てた。
「でも、どの程度の範囲を調べればいいんだ?」
「それは円心仮説、重心仮説って考え方がある」
柚木崎はベッドからぎしりと立ち上がった。勉強机の引き出しを開け、中から赤ペンと折りたたまれた印刷物を持ち出してきた。地図だ。ローテーブルに広げられたそれは霧代市の地理と路線図を簡易に示していた。恐らく駅で配布されている観光用のものだろう。
柚木崎は再びベッドに座り、赤ペンのキャップを外した。
「地理的プロファイリングといってイギリスのデビット・カンターという心理学者が考えたものらしいの。方法はこう。地図上に連続犯行の犯行地点を落とす」
ペン先を地図に落とした。一点は雑居ビルの立ち並ぶ区域、つまり俺たちが居合わせた犯行現場だ。地図に指を這わせ別の一点を刺す。今度は少し離れた住宅街。柚木崎が猫の死骸を見つけたとされる駐車場だろう。三点目は先の二点から離れた白地。白地の付近にもう一点。
「次に落とした地点の最も離れた二点を結ぶ」
白地と駐車場が線で結ばれる。
「この線を直径とする円を描く」
地図上に大胆な円が描かれる。残る二点も円周の範囲に収まっていた。
「これが、犯行の範囲、ってことか?」
川から山沿いを這い、住宅街をすっぽりと収め、オフィス街の一部を取り込んでいた。直径は約4キロと言ったところか。
「把握してない事件があるだろうからこれよりも広いかも知れない。でもそんなには違わないと思う。元々は連続犯の拠点を割り出すために考えられた手法で、この円の中心付近に犯人の拠点があるとされているの。これが円心仮説。同時にそれは犯行に及ぶエリアを示している」
円の中心には凪と呼ばれる地区があった。
「実際の拠点は中心からずれていることが多くて犯行の数も拠点付近に偏っているそうなの。これが重心仮説。現状だと4つの犯行現場が中心を挟んで分かれているから、どちらに寄っているか判断できないね」
俺と柚木崎が見つけた二件は市内でも比較的人通りの多いところだ。柚木崎が知人から聞いた場所は人家もまばらな山のふもと。犯行に及びやすいのは後者に思える。しかし、
「柚木崎、どうしてこんなこと詳しいんだ?」
柚木崎は無言で書棚を指差した。小説と思しき文庫以外にも専門書や実用書の類が並べられている。美術に関する書籍が多いようだが犯罪や哲学の本も混ざっていた。趣味なのだろうか。
「もう一つ」
俺の疑問を余所に柚木崎が地図の二点を丸で囲んだ。
「最初に殺された子ね。学校の帰りに見つけたって言ったでしょう? そのときはまだ少し息があったの。今日の子だってそう。殺されてからそんなに時間は経っていなかった」
犯行時刻が重なっている。大体4時半から五時半の間。
「犯人は学生、か?」
「わざわざ選んで犯罪に及ぶような時間じゃない。可能性はあるかもね」
下腹を掴まれたように身震いが起こった。情報は圧倒的に不足している。ソースも心許ない。犯行の瞬間を押さえるなど依然として現実味はないように思える。だが、できる気がした。たとえ歪に組み立てた脆い梯子だとしても、目指すものに手が届きそうに感じた。
犯人も地理の専門家ではないはずだ。4キロという範囲がいかに途方もなくとも目に留まる場所は案外限られているのではないだろうか。
「それで、いつからはじめるの」
柚木崎の横顔が問いかけてきた。視線の先には窓がある。陰影を深めていく街の上で夕空が美しく映えていた。西の空は茜色だが、遠ざかるにつれ夜の色が濃くなっていく。完璧なグラデーションに見惚れながら「そうだなあ」と応じた。
「今日のところは警察に相談して、できれば明日からでも何かしたいな」
そう、と柚木崎がつぶやく。
「なら私もそのつもりでいるね」
「あ?」
間抜けな声が漏れた。俺たちは互いに顔を見合わせる。疑問符を発したのは俺なのに、柚木崎のほうが「何を驚いているの」と丸い瞳で問い返してくる。
「一人でそんなところに行くのは危ないって言ったのは神杉くんだよ?」
「待て待てっ」
俺は柚木崎を手で制した。
「あれはお前が危ないと言ったんだ。俺のことじゃない」
柚木崎は不思議そうにする。
「神杉くんは危なくないの?」
「いや、危ない。危ないけど。俺は、その、何とかなるから」
「神杉くん、空手家だものね。だったら私一人増えたところで同じだと思うのだけれど」
だから待てって。
「どうして柚木崎がついてくるんだ? 犯人を捕まえたいなんてのは俺の我儘なんだぜ」
柚木崎は腿の隙間に両手を差し込み、猫みたいに首を傾けた。
「乗りかかった舟?」
「疑問形で言われても」
柚木崎は「深く考えなくてもいいよ」と会話を取り上げた。
「一人より二人のほうが犯人は見つけやすい。それだけのことよ」
俺は「でもなあ」と喉の奥で唸る。
もちろん、俺としても柚木崎が一緒にいてくれたほうが心強い。道を示してくれたのはこいつだし、きっと俺にはない視点を提供してくれる。ひと気のない場所を巡るのだから俺自身が不審者と間違われることだってあるかも知れない。そんなとき柚木崎のような女子がいるだけで状況は大分違ってくるはずだ。万が一犯人と相対したときも通報役を頼むことができる。いてくれた方が大いに助かる。助かるのだが……。
俺は柚木崎を頭から爪先まで眺めてみた。肌は日焼けという言葉をまるで知らない色をしている。肩幅はつくづく女の子で、腰回りは俺の腕ほどもなさそうに見えた。触れたら溶けそうな指先も、スカートから覗く細足も、荒事に向いているとは到底思えなかった。刃物を偲ばせた相手の前に立てるとは、とても。
次の瞬間、ベッドの下から白い影がぬうと這い出てきた。影は柚木崎の脚の隙間から顔を突き出し、じっと両眼を向けてくる。
「ああ、これが柚木崎の」
「……どこから出てくるの、この子」
雲みたいに真っ白な猫だった。猫はしばらく柚木崎の足元で耳をぴくぴくさせたり、ひげを前後に揺らしたりしていたが、やがて全身を抜き出し、俺の膝に頬をこすりつけてきた。
「おお……」
猫の首元に手を伸ばす。ぐにゃぐにゃとしていて触り心地が良かった。猫もされるがままに目を細めていた。顔が綻んでしまう。撫でる感触を楽しんでいると、柚木崎の脚の隙間からまた一匹の猫が頭を出した。今度は黒猫だった。
「だから、どこから……」
こちらはまだ警戒を解いていないのか、眼を強張らせるばかりで近付いてこない。柚木崎はひげを立てた黒猫を引っ張り上げて膝の上に乗せた。俺は白猫の背に手を這わせながら訊いた。
「こいつら名前なんて言うんだ?」
柚木崎は「名前?」と黒猫の頭にぽんと手を添える。
「名前なんかないよ」
「夏目漱石かよ」
「神杉くん、顔に似合わず洒落たこと言うね」
余計なお世話だ。
「どうして付けないんだ?」
「んー、必要ないからかな」
必要ないってことはないだろうに。
柚木崎は黒猫の頭をぽんぽんと叩いた。猫も特に嫌がったりはしない。柚木崎はしばらく黒猫の頭でリズムを取っていたが、やがて手を止め、白猫を指差した。
「じゃあ、その子がナツメ。こっちがソウセキ」
「適当だな、おいっ」
可笑しくなって噴き出してしまう。適当だ。でも悪い名前じゃない。
柚木崎は黒猫の皮を摘まんだり引っ張ったりしていた。猫はぶすりとした顔で主人のちょっかいを甘んじている。俺の頬は自然と緩む。
「まあ、いいか」
いざとなれば俺の身体を使えば良い。無駄にでかいだけの図体だ。柚木崎一人を守るくらいのことはできる。いや、必ずそうすべきだ。くだらない俺の命はそうやって消費されていくべきなのだ。
俺は傍らに座る白猫を抱え上げた。
「よろしくなナツメ。神杉空竹だ」
ビー玉みたいな眼がきらりと光を反射した。ナツメを膝に置き、空いた手を柚木崎に差し出した。ゴツゴツとした右手を向けられ柚木崎は少しばかり驚いたようだ。俺はにやりと笑ってみせる。柚木崎は笑みを返す代わりに息を吐き、俺の手を握った。
「よろしく、神杉くん」
子供みたいに柔らかくて冷たかった。でも、握り返す力は見た目よりもずっと強く、痛みを感じるほどだった。
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