(4)会話
それから数日は色んなひとが様子を見に来てくれた。正月以来の親戚に、卒業以来の顔馴染み。教師や、口を利いたこともない級友。どういう経緯で見舞いに来ることになったのか俺は知らない。会えば会ったで気まずく感じることもあった。だが、ありがたかった。あの夜命を落としていれば、そんな時間が生まれることもなかったのだから。
一方、毎日必ず来てくれたのが柚木崎だった。玄関が開くとすぐに姿を見せ、身の回りの世話をしてくれた。何もなければ黙々と文庫に目を落とし、たまに他愛のない会話を交わした。好きな食べ物のこと。好きな本のこと。勉強のこと。進路のこと。俺が話を振ると、静かに頷いたり、ときには微笑んだりしてくれた。柚木崎は七時前まで病院で過ごし、空が赤くなる頃には部屋を後にした。扉の前で手を振る姿は蜃気楼のようで、明日にはもう消えてなくなってしまうのではないかと寂しくなった。
「こうも動かねえと身体が鈍って仕方がねえなあ」
痛まない程度に腰を反らした。景色は黄金色に輝いていた。植木も、花壇の花々も、目映い西日のなかにあった。
入院から一週間。動くにはすっかり支障がなくなり、俺は何でもない時間を満喫していた。昼間は院内でゆったりと過ごし、陽が沈む頃に敷地の中を散策した。柚木崎と一緒にいればどこにいても楽しかった。特に裏庭の景観は見事なものだった。園芸などまるで縁のない俺でさえそう思えるほど手入れが行き届いていた。草木の配置には明確な意図があり、もしかしたら思想があるのかも知れなかった。聞けば院長のセンスだと言う。病院を離れられない患者のために、あるいは、もう二度と外界を見ることができないひとのために設置された、優しさの類。きっと多くの患者の心を癒してきたのだろうし、同じくらいのひとを悲しませもしたのだろう。その庭園に今はひぐらしの声が満ちている。どこからともなく聞こえてくる、今日の終わりを告げる声。終焉が近いことを知らせる声。誰に頼まれたわけでもないのにそうしてくれる。俺はこの声が嫌いではなかった。哀しくなるのは、どうしようもないにしても。
柚木崎は庭園が見渡せる白いベンチで文庫本のページをめくっていた。正面に向き合い「なあ」と話しかけた。柚木崎は「なあに」と応えた。
「落ち着いたら海に行かないか?」
「海?」
「海。結局行かなかったろ。遊びに行こうぜ。夏休みが終わる前に」
大切そうにページを撫でる、指先。
「海かあ。行きたいね。でも神杉くんが退院する頃には冷たくなって入れないんじゃないかな」
「そっかあ。そうかもな。残念だな。柚木崎の水着見たいのに」
「馬鹿なこと言わないでよ」
小さく微笑む、口許。
「本当だぜ。じゃあまた山はどうだ? たぶん紅葉が綺麗だ。年寄りみたいで嫌か」
「ううん、そんなことないよ。でも、どうだろ。来年は受験だし、秋になると時間が取れなくなってるかも」
「そうだな。受験だもんな。頭が痛いぜ」
「頭痛で入院長引いちゃうかもね」
「はは、まったくだ」
「困っちゃうよね」
沈黙も、好きだ。
「……なあ、柚木崎」
「なあに、神杉くん」
「ナツメな」
「うん?」
「ソウセキもだけど、どうして菊池にさらわれたんだと思う?」
「どうして?」
「菊池な。公園で初めて会ったとき……お前が俺に送り迎えして貰ってるって言ったとき、こう言ったんだ。僕だって柚木崎の家は知らないのに、って。家を知らないのに、どうしてあいつらのことさらえたんだと思う?」
髪はさらりと頬を滑り、
「どうしてかな。どうしてだろ。菊池くん、ストーカーみたいなところあるから、調べたんじゃないかな。どうにかして」
「調べたか。そうかもな。じゃあ室内飼いだったナツメとソウセキが急に外に出かけるようになったのは、偶然なのかな?」
「そうなるんだろうね。ほら、夏だから私も網戸を開けることはあったし」
「夏だもんな」
「うん、夏だもん」
肌は真夏の雪のようだ。
「なあ、柚木崎」
「なに、神杉くん」
「ペットショップの店長がお前を覚えていたのはなぜだ」
「有能だからじゃない?」
「店長はこう言った。『特徴的な客は覚えてる』 お前が前にあの店に行ったのはナツメたちの餌皿を買うためだったんだよな。猫の餌皿を買うことがそんなに特徴的なのか?」
「さあ、そうではないかもね」
「柊に頼んで調べて貰ったよ。お前があの店で何を買ったのか。お前の代理って名乗らせて、餌を買ってくるように頼まれたって嘘を吐いて貰ってな」
「ひどいね、神杉くん」
「店長が言ってたらしいぜ。あんなにたくさんインコやハムスターを買うなんてよほど動物が好きなのねってな。なあ、お前が買った動物たちは一体どこへ消えたんだ?」
「……」
「なあ、柚木崎。答えてくれ。菊池は鳥やハムスターをたくさん殺したと言っていた。これはただの偶然なのか? 美術部のやつが見たって言うお前のスケッチブックにインコやネズミの死骸が描かれてたのも偶然なのか? お前が初めてきたはずの廃病院で迷わず消火器を探し出せたのも幸運か? 答えてくれ。答えてくれよ、柚木崎夏凛」
つらいことがたくさんあった。悲しいことも。
「空手についても妙に詳しかったな。普通はフルコンが胸を叩き合うなんて知らないぜ? 伊戸はお前を大会で見たことがあると言っていたよ。やつと顔を合わせられなかったのはそれが理由か? 井上拓也のことを知らないととぼけたのも」
けれど楽しかった。お前と一緒にいる時間は本当に楽しかった。
「でたらめだ。知らないはずがない。菊池は高倉中出身で井上とは同期生だった。菊池と同級だったお前だって当然そうなる。知らないわけがないだろう。死んだ同期のことを。柚木崎」
お前はどうだ。
「菊池に、俺を殺させようとしたんだな」
お前は。
「井上の仇を取ろうとしたんだ」
柚木崎は、文庫のページをぱたりと閉じた。嘘の物語はそれで終わった。両手で包み込めるくらいの小さな嘘。柚木崎は名残惜しそうに見つめていた。やがて文庫を座面に置くと文字に注がれていた瞳をこちらに向けた。
思った。
俺は、このひとのことがどうしようもなく好きなのだ。
「神杉くん。命に価値ってあると思う?」
手にはナイフが握られていた。
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