(3)消去
「よお、くたばりぞこない」
三人目の見舞客は伊戸だった。俺が怪我人然としていることの何が面白いのか、愉快気に犬歯を見せつけてくれた。ずかずかと病室に踏み込み、どかりと丸椅子に腰かける。稽古の帰りなのだろう。足元に胴着を放り投げた。洗ってない雑巾みたいな臭いが漂ってきたが、それを気にかけるほど俺も伊戸もデリケートでなかった。
「具合はどうなんだ? 飯食って糞垂らすくらいのことはできるようになってんのか」
普段と変わらない口汚さ。どこかほっとした。
「おかげさまでな。病院食もたらふく食わせて貰ってるよ」
「いい気味だ」
伊戸はからからと笑った。
「これで夏休みも半分潰れたな」
「それだよ。貴重な高二の夏なのに。ま、潰れちまったもんは仕方ないけどな」
伊戸は「なんだ」と片眉を上げた。
「あんまり悔しそうじゃねえな」
「そうか?」
俺は額を指で掻いた。伊戸は解せいないふうだったが、すぐに鼻で笑った。
「カスの一匹や二匹ぷちっとやらねえからだよ。情けねえ。狂犬神杉の名が泣くぜ」
「全くだ」
軽く肩を揺らし天井を仰いだ。
「まだまだ未熟なんだろうな」
何の気なしの言葉だった。なので伊戸の反応がないことを不思議に思った。訝しみ、伊戸を見やった。無駄に整った容姿が歪んでいた。渋柿でも噛んだような面だ。思わず吹き出してしまった。
「どうしたんだよ。面白いぜ、その顔」
「いや」
と伊戸は眉をひそめる。奇妙な現象でも目撃したかのように。細い顎に手を添えた。
「なんか、お前……」
「?」
そのまま口ごもってしまう。珍しい態度だった。どう表現すれば良いのか分からない、あるいは口にするほどの確証がない。そんな感じだろうか。まるで間違い探しでもしているかのような表情だった。俺には正解が分からない。
伊戸はしばらくこっちを睨んでいたが、やがて不機嫌を表に出した。
「? なんだよ」
「……なんでもねえよ」
「なんでもないってこたないだろ。なんだよ」
「あーもう、うっせえな」
伊戸は、がなって背筋を伸ばした。「しかしよお」と話題を切り替えたのは明らかに追及を逃れるためだった。事実、伊戸はどうでもいいようなことを口にした。
「つくづくお前は高倉中とは相性が悪いよな」
強引な話題転換に困惑する。
「井上のこと言ってんのか?」
「それもあるがよ、お前を刺したチンピラな。あいつらも元々は高倉出身らしいぜ。地元じゃ有名な糞野郎だったってよ」
俺はへえと相槌を打った。だが生返事以上の話題でもないように思えた。珍しいことではない。世間とはその程度に狭いはずだ。
俺の反応まで見越していたのか伊戸は「それだけじゃねえぜ」と話を掘り下げた。
「ほら、俺がこの前……」
と言いかけたところで病室の扉ががらっと開いた。柚木崎だった。半分開いたドアの向こうで、あっと唇を丸くしていた。
「ごめんなさい、お客さん来てたんだ」
伊戸は肩越しに振り返り頭を揺らした。柚木崎も応じて一礼した。「じゃあ」と隙間を閉ざそうとする。
「いいよ、入ってきてくれ。こいつには気を遣わなくていいから」
首を左右に振った。
「お花持ってきただけだから」
ノースリーブから伸びる腕には赤い花束が抱えられていた。柚木崎は「向こうで活けてくるね」と言い残し病室から足音が遠ざかっていった。完全に聞こえなくなったところで、伊戸がぽつりとつぶやいた。
「神杉のくせにえらい可愛いの引き当てたな」
「ガチャみたいに言うなよ」
「あの娘、前に見たことあるぜ」
俺は呆れた。
「覚えてないのか? 喫茶で一回会ったことあるだろ」
いや、と伊戸はかぶりを振った。
「もっと前だ。確か、大会の会場で一度」
「大会? フルコンのか?」
伊戸は答えない。鍛え込まれた腕を組み、そうだそうだと一人で納得していた。
「どっかで見たことあると思ってたんだ。そうだよ。客席にいたんだ。あんまり不似合だったからよく覚えてる。前髪伸びてたから気付かなかった」
充分うなずいたあと扉のほうを振り返った。
「身内に選手でもいるんじゃねえかな」
柊が見舞いに来たのは翌朝だった。病室には入らず扉の外側から声をかけてきた。元気かと訊かれたので元気ではないと答えるとそうだろうなと返された。柚木崎はベッドの傍らで黙々と梨の皮を剥いていた。柊はその柚木崎にも話しかけた。
「柚木崎も。久しぶりだな」
「お久しぶり、柊さん。二週間ぶりくらいかな」
一瞥もなかった。剥きかけの梨を小皿に戻した。
「私、席外してるね」
呼び止める間はなかった。さっさと出口に行ってしまう。すれ違いざまに片手を上げた。
「じゃあ、柊さん」
柊は「ああ」と応じる。柊は、柚木崎を見送ってから、ようやく病室に入ってきた。丸椅子にスカートを敷き込み溜息を吐いた。
「相変わらずとっつきにくいやつだな」
「お前らほんとに仲悪いのな」
柊は無視し、剥きかけの梨を手に取った。柚木崎の作業を引き継ぎ、手際よく梨の実を裸にしていく。ナイフに注がれる冷めた視線は最後に教室で見かけたとき変わりはなかった。ただ心なしか表情に疲労の色が浮かんでいるように見えた。
「柊。お前、目が赤いな」
ああ、と目元に触れようとして手を止めた。ナイフを握っていたからだ。手首を曲げ、甲の辺りで軽くこすった。
「ちょっとな。絵の描き過ぎだよ」
「そっか、無理すんなよ」
柊はじろりと上目で睨んできた。
「そう言うお前は随分と無理をしたみたいだな」
「まあな」
「危ないところだったと」
「悪いとは思ってるよ、お前には」
柊は、また溜息を吐いた。分割した梨を皿に乗せる。フォークを添えて差し出してきたので感謝し一口頂いた。しゃくしゃくと心地の良い音が響き、舌の上に甘い果汁が広がった。珍しくもない味なのに、なぜだか貴重なものを食しているように感じた。柊ももぐもぐと口を動かしていた。こくりと喉を上下させ、また一口はむと齧る。二人で静かに梨の実を味わった。
柊は皿の上にフォークを置いた。
「空手を使うことができたらしいな」
ああと頷く。
「吹っ切れた、ということなのか」
「……さあ、どうなんだろうな」
軽く指を握り目の前に掲げてみた。特に以前と変わったところがあるわけではない。活力を取り戻したとか、輝いて見えるだとか、そんなことは全然ない。ただの不細工なだけの右手だ。
確かに、拳を振るうことはできた。あいつら二人を叩きのめすことはできた。だからと言って人を殴ることが怖くなくなったわけではない。人を殴ることは怖い。今でも怖い。壊すことは、怖い。
「それも練習次第だろう」
柊はそう言ってナイフを手に取った。
「生物の行動現象に『消去』と呼ばれる作用がある」
「消去? 行動現象?」
左手で柄を握り、右の指を刃先に添える。まさか切ったりはしないだろうが危なげな動作だと感じた。心配を余所に柊は続けた。
「それ自体では恐怖を感じない条件刺激と、無条件で恐怖を与える非条件刺激。それらを同時に提示し続けると生物は二つの刺激を関連付けて条件刺激のみで恐怖反応を示すようになってしまう」
「……つまり?」
「パブロフの犬だな。餌の代わりに鞭で打ち据えれば犬はベルの音だけで怯えるようになるということだ。これを恐怖条件付けと呼ぶ」
ゆっくりと刃に指を這わせる。背筋にぞくりと冷たさが走った。
「一方で恐怖条件付けが成立したあと非条件刺激を提示せず条件刺激のみを与え続ける……つまり、鞭で打たずにベルの音のみを聞かせ続けると、危険がないこと学習し、やがて恐怖反応を示さなくなる。これが消去の作用だ」
指を刃の根元で止める。ナイフを静かに皿の上へ戻した。
「神杉にも似たようなメカニズムが働くんじゃないかな。お前は相手選手を死なせてしまったことで人を殴ることが怖くなった。これは一種の恐怖条件付けだ。殴るという行為と、死なせるという結果を関連付けてしまったんだ。しかし、それでもやはりそれは事故だ。空手は危険を孕むスポーツかも知れないが安全への配慮は常に成されている。つまり拳を当てても人は死なないと学習できれば、いずれ選手として復帰することも不可能ではないかも知れない」
「徐々に慣らしていけば、てことか」
「お前はその一歩目を踏み出したんだ」
空手の再開。選手としての再起。
魅力的な提案なのだろう。少なくとも柊はそのつもりで話してくれている。
「でもよ、それでいいのか?」
ぴんと来ていない柊に、俺は続けた。
「恐怖をなくしてどうする? それで人を殴って、どうなる? 空手をやることは目的じゃない。殴ることだって、違う」
「お前は柚木崎を守るために拳を使った。それは正しいことじゃないのか?」
「守るためなら殴ってもいいのか? ひとを傷付けても構わないのか? いや……」
俺はシーツを軽く握った。
「すまない柊。俺のために言ってくれているのに。ありがとう。心配してくれて」
動かせる範囲で頭を下げた。傷が痛んだが我慢した。柊は面食らったようだった。目を見開くだけの些細な仕草も、こいつにしては珍しい。反動で険しくなった顔つきで、ふんと息を漏らした。
「いいよ、別に」
「お前には助けられてばかりだ」
「……いいってば」
柊は髪を指で掬い、耳の後ろに垂らした。首筋に黒い髪が流れ落ちる。俺は違和感を覚えた。
「髪、伸ばしてんのか」
「ん? ああ、ちょっとな」
気分転換、と前髪を摘まむ。
今に気付くことでもなかったかも知れない。この長さなら夏休み前から伸ばしていたはずだ。
(結局、俺は何も見えちゃいない)
不甲斐ない自分を殺したくなる。それで全てが元通りになるのなら、俺は迷わずそうするだろう。だが、そうはならない。ならないのだ。たとえ心臓を抉り出したとしても、時間は過去へ巻き戻ったりしない。
息を吸い、息を吐いた。呼吸で勇気が湧いてくるわけではない。覚悟を決める、その時間が必要なだけだ。
病室の入口に目をやった。扉はしかと閉ざされていた。それでも緊張に唾を飲んだ。顔を寄せ、小声で告げた。
「柊、一つ頼まれてくれないか」
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