(5)ほたるの息

 井上を殺したあと、俺はまず悪夢のなかで亡霊にうなされた。夢と現実を曖昧に追い回される夜が続き、精神は急速に摩耗していった。やがて時間がそれを落ち着かせると、今度は現実の復讐に恐れを抱くようになった。憎しみに駆られた井上の家族が、友人が、同門生が、俺を叩き殺しにやってくるのではないかと不安に襲われる日々を過ごした。夜道で背後に怯えない日はなかった。だが想像の産物はついぞ姿を見せることなく、いつしか恐怖は慌ただしい日常に消え失せた。

 そして、今、二年の歳月を経て本物の復讐者が俺の前に座っている。想像のそれとは随分とかけ離れた姿をして。

 純白の復讐者。膝の上に両手を重ねた姿は穏やかな夕暮れの庭園と調和していた。その手の下に覗く銀色の刃さえ何も不自然とは思えないほどに。

 柚木崎は瞳を閉ざした。一瞬西日が眩しいのだろうかと考えた。馬鹿げた空想だった。柚木崎は何かに耐えていた。眉間に皺を深く刻み、内側で乱れる何かに必死に耐えているようだった。やがて荒れ狂うものが過ぎ去ったのか、強張りが引くのが見て取れた。あとはもう普段の柚木崎と変わるところはなかった。その態度にはいくぶんか諦めが含まれているようだった。

「さて、どこから話そうかな」

 同じ台詞を聞いたのは柚木崎の部屋ではなかったか。柚木崎は「間の抜けた話なのだけれど」と前置きしたうえで沈んだ声を響かせた。

「進学してから半年くらいはね、拓也くんを殺したひとが同じ学校にいるって知らなかったの。あなたが井上の叔母さんの家に謝りに来てたのは知っていたけれど、私は会わせて貰えなかったから。だから、校内であなたの姿を見かけたことがあってもそれが神杉空竹だとは気が付かなかった」

 おかしいでしょう、と得られない同意を求める目つき。何も答えないでいると柚木崎は満足を見せた。

「その大柄な男子生徒が神杉くんだと知ったのは九月の終わり。よく覚えてる。美術室でC組の神坂さんがあなたのことを愉しそうに噂していたの。隣のクラスに人を殺したやつがいるって。私はそれを聞いて愕然とした。自分の愚かさを心底から呪った。って。そして一月後に部活を辞めた」

「部内の人間関係が理由じゃないのか」

「まさか。どうでもいいよ。誰が誰に嫉妬していたかなんて。ただ時間を作るにはいい機会だった」

 柚木崎の目に、陰険な光が宿った。

「私は、あなたの存在を認識した瞬間からどうやってあなたを殺してやろうかひたすらに考えていた。神杉くんには恵まれた体格と拓也くんですら敵わない強さがある。力の弱い私が正攻法で殺すのはまず無理。なら事故は? あるいは他人に殺害を依頼するのは? そこで思い出したのが菊池くん」

 仰向けで血を拭き出していた顔を思い浮かべる。柚木崎は自身の言葉が十分に浸透するのを待ってから、続けた。

「彼が私に好意を抱いてくれていたことは知っていたから、その気持ちを利用しようと考えたの。とは言え馬鹿正直に人を殺してくださいと頼んだところで引き受けてくれるわけがない。そもそも彼には誰かを殺す度胸なんてないように見えた。彼の本性はただの小心者。隠れて嫌がらせをすることはできても正面から他人と争うことなんてできない。だから、

 柚木崎は、左手で反対の手首を絞めつけた。右手が窮屈そうに閉ざされる。視線はナイフに向けられていた。

「神杉くんが指摘した通りだよ。ペットショップで買ってきたインコを渡して、って頼んだの。もちろん菊池くんは嫌がった。でも私の前で臆病な姿を見せたくなかったんだろうね。赤ん坊みたいに震えながらインコの首を捻じって殺した。私はそんな彼に微笑みこう褒めてあげた。って。彼は半分泣くみたいにして笑っていたわ。彼は」

 浅く息を継いだ。

「彼は、自分のことを誰かに認めて欲しかったの。他人のことは認めようとしないくせに他人からは認めて欲しかった。だから私がそうしてあげた」

 反論を拒むように言葉を並べる。

「それから私は何匹も彼に小動物を与え、何度も同じように殺させた。与える動物も小さなものから大きなものへと変えていった。狙いは的中した。菊池くんは段々と命を奪うことに抵抗を覚えなくなって、やがて何の指示を与えなくても自ら野良猫を殺すまでの攻撃性を身に着けていった。私は大いに喜んで彼を賞賛した」

 賞賛。そうだ。やつはこう言っていた。柚木崎は女神だと。陳腐な表現だが誇張のつもりもなかったのだろう。あいつにとって柚木崎は理解者であり、共犯者であり、絶対的な支配者だった。柚木崎は菊池を管理下に置き、意のままにやつの人格を作り換えた。

「そのうえで菊池の嫉妬心を煽り、俺に敵意を向けさせる。それがお前の計画だったんだな」

 柚木崎は弱々しく笑った。

「大袈裟だね。そんな大層なものじゃないよ。とても単純なことしかしてないんだもの」

 文庫の表紙を指で撫でる。

「でも、そのために神杉くんに近付く必要があったのは確かだね。実際それは実にいい考えだったの。あなたを近くで観察することで隙や機会を窺うことができる。いくら菊池くんを殺し屋に仕立て上げたところで力の差は歴然だったから」

「だから、俺に協力を申し出た。自分は有用だと売りに出して」

「何でも良かったの。あなたの傍にいることができれば何でも」

 文脈を無視すれば、それは甘い囁きに聞こえていたかも知れない。今はただ虚しいだけではあったが。

「なら、お前が見かけたって言う殺された猫も」

「存在しない。……少なくとも路上にはね」

「俺と菊池が公園で出会ったのも、偶然じゃなかったってことだな」

「約束を重ねたの。同じ待ち合わせ場所を指定して。単純でしょう?」

 言ってから、虚しそうに自嘲した。

「何だか、悪女みたいだね」

「タチの悪い冗談だ」

 本当に、と柚木崎。

「あのときは知り合って貰うだけで成功だった。対立させられれば大成功。でも実際はもっと思いがけない収穫があった」

「俺が、他人を殴れないと分かったってことだな」

 頭を縦に揺らす。

「堤防であなたを見かけたときから疑問には感じていたの。菊池くんから詳しい状況を聞いても確信は持てなかった。もう一つ、何か決定的な証拠が欲しかった」

「それが、あの廃病院の一件か」

 柚木崎は、無言のまま、ばつが悪そうに身じろぎした。その反応が答えだった。どう考えても竜と鉄を挑発する意味はなかった。無事の場を荒らしたに過ぎなかったのだから。柚木崎の発想は奇しくも俺と一致していた。つまり、空手を使いたくてたまらなかった、かつての俺と。

「……あれこそ計画的なものじゃないよ。単にいい機会だなって思っただけ。でも結果は満足のいくものだった。神杉くん、殴れば済む場面なのに全然そうしようとしないんだもの。だから菊池くんでもどうにかできそうって確信が持てた」

 はたと気が付いた。

「じゃあ、額の傷も」

「わざと。石で殴り付けたの。迫真の演技だったでしょう」

 柚木崎は長い前髪を掻き上げた。百足のように赤黒い縫い跡が白い皮膚に張り付いていた。

「結構気を遣ったんだよ。一人であれをやって本当に命が危なくなっても困るし。神杉くんと一緒にいるときじゃなきゃできなかった」

「菊池には、なんて?」

「神杉くんに襲われたって」

 成程、怒り狂うわけだ。

 そして、柚木崎の復讐もまたそこで遂げられるはずだった。嫉妬と義憤の果ての暴走。殺人という安易な結末。柚木崎は指示も、何もしていない。

「でも……やっぱり人任せは確実性に欠けるね。柊さんの邪魔が入って機会を物にすることはできなかった。それならと神杉くんを煽ってみたけれど結局は伊戸さんに邪魔されてしまった」

 結果、無関係な二人に俺が殺されかけたというのも随分と皮肉な話だ。

(それに)

 と腹部を撫でてみる。今まさに柚木崎と語り合っている。これもまた一つの皮肉ではないか?

 柚木崎はどう感じているのだろう。

 推量は無駄な作業だった。推し量るまでもない。柚木崎は疲れていた。語ることに、あるいはその中身に。矛盾を背負うにはあまりにも細い肩。影ばかりが大きく伸びていく。

「はじめて君と話したとき」

 柚木崎がうめくようにつぶやいた。つぶやいてから沈黙を招き入れた。自分でも何が言いたいのか分かっていないのかも知れない。そんな哀れみが脳裏を過ぎった。疑問の正否を明らかにせず柚木崎は話を繋いだ。

「……君は、猫を助けていたよね。ああいうの許せないって。猫の死骸を弔ったときは泣いていたし、ナツメの死を知ったときも取り乱してた。可愛そうになるほど」

 一息を吐く。

「それを踏まえたうえでもう一度訊くね。私が殺したたくさんの命には、何か価値があったと思う?」

 俺は答えなかった。答えるよりまず菊池の姿を重ね見ていた。やつも同じことを俺に問うた。特別なことか、と。

 無言を黙秘と捉えたのか。柚木崎は「昔の話をしようか」と力なく笑った。

「前に言ったよね。私には両親がいないって。私のお父さんとお母さんね、強盗に殺されたの。私が中学生になったばかりの頃」

 笑みが徐々に歪んでいく。

「犯人の男のひとはね、バイトがクビになって、ごはんを食べたいけれど貯金を崩したくないからって、本当にただそれだけの理由で私の家に押し入ったの。私は友達の家に出かけてて無事だった」

 陰惨な目つき。ナイフを握った。

「その人はね、私の家がたまたま目に付いて、お金を持ってそうって印象だけで強盗を考えたんだって。それでね、私の両親を包丁で刺して、ろくに家探しもせずお母さんの財布だけを盗って逃げたの。夕食は半額で買ったスーパーのお弁当だったそうよ」

 柚木崎の肺が膨らむ。その音が聞こえた。

「加害者は親の愛情を受けて育てられなかった? 同情に値すべき少年時代を過ごしてきた? だから何? ふざけないで! 関係ないよ、そんなの!!」

 激昂し、腕を振るった。だん、と音が響いたときベンチの背には刃が突き刺さっていた。柚木崎は柄を掴んだまま肩で息をしていた。しかし、それも僅かな時間だった。糸が切れたように腕がだらりと垂れる。表情はもう消え失せていた。

「……霊安室で見たお父さんとお母さんはまるで作り物みたいな顔をしてた。不思議だった……。朝はあんなに元気だったのに。本物のお父さんとお母さんはどこへ行っちゃったんだろう。どうして何も言わずいなくなってしまったんだろう。そんなことばかりが頭に浮かんだ。殺したあのひとなら知っていたかも知れないけれど、そのひと、裁かれる前に留置場で首を括って自殺しちゃった。私の疑問はどこにも行き場がなくなって、だから……今度は文字の中に答えを見つけてみようと思った」

 本棚見たよね、とうなだれて言う。

「犯罪心理の本も読んだし、プロファイリングの本だって読んだ。哲学書や、宗教の本だって……。私ね、絶対どこかに理由があると思ったの。お父さんとお母さんが殺された理由。でも、いくら探してもお父さんとお母さんが死んじゃった理由なんて書いてなかった」

 ゆらりと顔を上げ、首を傾ける。幼子が同意を求めるように。

「……おかしいよね? どうして私のお父さんとお母さんなの? 世界はこんなにも広いのに、どうして私のお父さんとお母さんが殺されなくちゃならなかったの? どこかに必ず理由があるはずなの。でも、どこを探しても理由は見つからない。だからかな。私も段々と生きている理由が分からなくなってきた。だって、そうでしょ? 死ななきゃいけない理由がないんだもの。生きる理由なんてわかるはずないじゃない」

 余白をひぐらしの声が埋めた。物哀しい音色だった。だが柚木崎の声も大差なかった。胸ばかりが苦しくなった。しかし、ふと、淡い唇に変化があった。泣き顔と見間違わんばかりの微かな綻び。触れるだけで崩れそうな笑みを湛え、柚木崎は言葉を紡いだ。

「そんなとき私の傍にいてくれたのが拓也くん。両親がいなくなって叔母さんの家に引き取られた私は従兄の彼と同じ家で暮らすことになったの」

 慈しむように目を細める。

「彼は優しかったわ。抜け殻みたいになってた私を親身になって支えてくれた。周りはみんな私のことを腫物みたいに扱ったのに彼だけは優しく手を握ってくれた。素敵な景色をたくさん見せてくれて、何度も生きようと言ってくれた。命には……生きていることには価値があるから。だから夏凛も生きようって、そう言ってくれた」

 自らの身体を抱くようにする。

「私はそんな彼を、従兄の彼を愛したわ。子供がこんなことを言うのは変かしら? でも本当よ。私は彼を愛していたの。拓也くんは私のことなんて妹みたいにしか思っていなかったけれど、それでも私は彼を愛していた。幸せな二年間だった。いつまでもこんな日々が続けばいいのに。心からそう願った次の日に、彼はあなたに殺された」

 瞳が俺を捉えた。決して鋭利ではなかった。それでも深く臓腑を抉られた。肺から黒いものがじわりと滲み出していくのを痛切に自覚していた。

 声が、憐れに震えた。

「おかしいよね? 理屈に合わなくない? 私は、お父さんもお母さんも大好きだったのよ? 拓也くんを愛していたの。私の想いが尊いものなら……生きていることに意味があるなら、命に価値があるのなら! お父さんもお母さんも拓也くんも死んでいいはずないじゃない!」

 柚木崎は叫び、立ち上がった。服の襟元を強く掴む。引き裂かんばかりに、掴む。

「犯人が盗んだお母さんの財布ね、五千円しか入っていなかったそうよ」

 戦慄き、頬を引き攣らせた。

「ねえ、私のお父さんとお母さんは五千円の価値しかなかったのかな? 勝手に殺して勝手に死んだあの男も? それとも下りた保険金の額が私の両親の値段なのかしら? 違うよね。そんなはずない。私の結論はこう。そもそも人間の命に価値なんてない」

 すがりつくように、断言する。

「価値なんてないの。生きる意味なんてないの。理由もないの。価値なんてものは自分以外の誰かが勝手に決めるものでしかないの」

 ほら、と大きく腕を広げた。

「蛍の息と同じだよ。あんなものはルシフェリンが酸素を供給されて発光器を光らせているだけ。魔法でもなんでもない。人間だけが勝手にそこに価値を見出してる。命と死に価値を与えている」

 自らの胸に手を当てる。

「だから、私もそうしようと思った。命を値踏みしようと思った。犠牲にしようと思った。ちゃんと殺そうと思った。私のなかの拓也くんのために。拓也くんとの幸せな思い出のために!」

 神杉くんもそうだよ、と語気を強めた。

「君は拓也くんを殺した。それが怖くて人が殴れなくなった。でも私を犯そうとしたあの二人のことは殴ったよね。死んじゃうかも知れないのに! それはあいつらの命より私のことが大切だと思ってくれたからじゃないの!?」

 もはや悲鳴だった。

「神杉くんが退院したらお父さんはお祝いしてくれるよね。可愛い息子のためだもの。御馳走は何だろう? お肉? それともお魚? いいよね。死にたくなるほど羨ましい! 食卓に並ぶのは内臓を引きずり出された獣の死骸! 君の言うあんまりな死に方! ……でも、君はきっと美味しそうって思う。涙は、流さない」

 言葉が途切れた。あとには荒い息だけが残った。それは瀕死者の喘ぎだった。得たいものを得られず悶え、それでも得ようともがく姿。聞くに堪えない干乾びた音。蝉はもういなくなっていた。やがて息遣いにぼそぼそと小声が混じった。

「人は常に何かを犠牲にして生きている。食べるために。生きるために。あるいは……何の理由もなく。それは当たり前のことでしょう? だから私も私のためにあの子たちをそうしてやった。それだけのことよ」

 柚木崎は「もう一度訊くわ」と俺を睨み付けた。

「神杉くん、命に価値ってあると思う?」

 三度目の問いかけ。

(いや)

 俺は数を否定した。

 三度ではない。ずっとだ。柚木崎はずっと問い続けてきた。川原で猫を弔ったとき。ショーケースを覗いていたとき。ナツメを菊池に捧げたとき。こいつはいつも答えを求めていた。。気にかけていなかったのは、俺のほうだ。

 ベンチを見やる。背にはまだナイフが刺さっていた。柚木崎はその存在を忘れてはいなかった。望めばいつでも振るうことができる。返答次第で、いくらでも。

 沈黙を同意と解釈したのだろう。柚木崎はさらに質問を重ねた。

「だったら、私があの子たちを殺したことも罪じゃない。そうでしょう?」

 言質を迫る。真実を要求する。

 命には価値があるのか。なぜ奪ってはいけないのか。

 肯定することは、容易いように思えた。

 否定することも、容易いように思えた。

 語ることは難しくない。理屈ならいくらでも並べられる。けれど違うと思った。どんな正しい意見も、俺と柚木崎には無関係だった。

 腕を曲げ、拳を握った。重たかった。自分の肉体であるはずなのに重たく感じていた。ならば答えは決まっている。

 真っ直ぐに、見つめ返した。

「お前は、本当にそれでいいなんて思ってるのかよ……」

 柚木崎は、大きく瞳を見開いた。映し出された感情が手足から力を奪い去っていくのが見て取れた。支えは失われ、すとんとベンチに腰を着けた。それから、困ったやつでも見るように、俺が馬鹿を言ったときみたいに、力のない笑みを浮かべた。

「その答えはずるいよ、神杉くん」

 伸ばされた手を振り払う。それをしたのだと胸が疼いた。

「多分、お前の言うことは間違ってないんだろう」

 間違っていない。命に価値なんてない。風や雲と同じだ。在るだけのものだ。理由もなく存在し、理由もなく消えていく。人だけがそこに優劣をつける。生と死に価値を与える。命の尊さを賛美しながら、大量の死を消費していく。仕方がないと、滑稽な言い訳を並べ立てて。

(それでも)

 それでも俺たちは、誰かと一緒にいれば笑うのだし、別れるときは寂しいのだ。

 意味などない。矛盾だらけだ。けど嘘にはならない。

 嘘には、ならない。

「……俺には、お前を責める資格なんてないよ」

 零れ落ちたのは、そんな一言だった。

「元を辿れば全部俺のせいだ。ナツメも、俺が殺したようなもんだ。だから、お前が俺を殺したいと思うのなら、俺はそれを受け入れようと思う。自分を大切にしろって言われたばかりだけど、俺がお前にしてやれることなんて、それぐらいしかないんだから。でも、もしお前にもうそんな気がないのなら」

「神杉くんはどう生きるの? こんな、価値のない世界で」

「……考えるよ」

 命が平坦だと言うのなら、全てが無価値だと言うのなら、一つの答えにすがるのではなく、いつも自分を確かめながら、鍛えた拳の重みを、力のよりよい使い方を、殴り合わずに済む方法を、尊重し合える関係を、祖父さんがいつもそうしていたように、

「少しでも、マシな生き方ができるように」

 そのためにも俺は、この恐怖を持っていたほうがいいのだ。これは俺の強みだ。俺は臆病なまま空手を極めていきたい。

 柚木崎は、寂しげに、かぶりを振った。

「私は、あなたほど強くはなれない」

 それは宣言だった。静かで、明白な、訣別の宣言。

 庭園に目を向けた。箱庭の向こう側を見た。夏の残火が空に色を滲ませていた。綺麗だった。仄かな茜色の空。手前では庭木の影絵が夜に呑まれようとしている。時期に柚木崎の姿も見分けがつかなくなってしまうのだろう。蛍の季節は過ぎてしまった。

「私、神杉くんのことが好き」

 柚木崎が影の中でぽつりとつぶやいた。俺は向き直った。だが聞き止める必要はなかったのかも知れない。柚木崎には伝える意志も、伝わる期待も、何もないように見えた。届く当てなく発せられる言葉。独り言。あるいは、祈り。

 俺も、同じものを捧げる。

「俺もだ。俺もお前のことを一人の女性として好きになっていた。ありがとう柚木崎。ずっと俺の傍にいてくれて」

「ありがとう神杉くん、ずっと私を信じてくれて」

 柚木崎は顔を上げた。もう俺を見てはいなかった。離れてしまったのだと、そう思った。見送る瞳から涙が溢れていた。柚木崎はそれを拭おうとはしなかった。

「さようなら」

 言葉は、夕闇に溶けて見えなくなった。

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