第四章 愚かな者たち

(1)傷痕

「ふざけんじゃねえぞッ、てめえッ!」

 襟首を捻じられ、そのまま壁に打ち付けられた。息が詰まった。菊池は牙を剥き、喰らいつくように罵倒を浴びせかけてきた。ふざけるな。僕が何を言ったか忘れたのか。クズが。殺してやる。許さない。絶対に殺してやる。繰り出される呪詛の中に右の拳が混じっていた。顎をまともに打ち据えられ、俺は地べたに倒れ込んだ。菊池は叫び、伏せる身体を靴裏で踏みつけてきた。何度も。何度も。俺の存在をぐちゃぐちゃに潰すように。


 柚木崎の顔面は赤く血に染まっていた。俺はどうすれば良いか分からず、柚木崎の名を呼び続けた。柚木崎は瞳を閉ざしてぐったりとしていた。糸の切れた人形のように。

 柚木崎が壊れてしまう。柚木崎が消えてしまう。穴底に転落するような喪失感は、猛烈な吐き気と過呼吸を引き起こし、点滅する視界に過去の記憶を投射した。脳味噌と心臓が引き千切られるほどの痛み。皮膚感覚は薄らぎ、唇は痙攣を抑えられない。俺は嘔吐し、腹を掻き毟る芋虫になった。唾液と涙をぐちゃぐちゃに散らしながらのたうち回った。

 誰か助けを呼ばなければ。そんな当たり前のことに思い至ったのはすっかり胃液を吐き出したあとだった。震える指先は何度もコールに失敗し、ようやく救急に繋がった後も説明は全く要領を得なかった。それでも辛うじて状況を伝え、あとは柚木崎の手を握ってひたすら祈った。どうか柚木崎を死なせないで。どうか柚木崎を死なせないで。どうか柚木崎を死なせないで。

 祈りは届いたのだろうか。結論を言うと大事には至らなかった。命に関わるほどの怪我ではなかったのだ。救急車の中で目覚めた柚木崎は朦朧とした目で車内を見回した。置かれた状況を悟り、手を握る俺に気付き、俺がくしゃくしゃに泣いていることに瞬き、困ったふうに笑みを浮かべた。

「神杉くん、大袈裟だよ……」

 柚木崎はすぐに上体を起こそうとしたが、これは救急隊員に制止された。意識ははっきりとしていて気を失う前のことも明瞭な口調で話してくれた。一通り絵を描き終えたこと。道具を仕舞って下へ降りようとしたこと。気が付けば救急車の中で目覚めたこと。岩から足を滑らせて頭を打った、というのが本当のところらしい。

「誰かいたってわけじゃないんだよな?」

「……誰かって」

「いや、いいんだ」

 念のため病院でCT検査を受けたが、骨や脳に異常は見つからず、日暮れ前には二人でマンションまで帰ることができた。しかし……。

 傷口を塞ぐために針を入れる必要があった。施術を受けた頭部は痛々しく包帯で覆われていた。

 傷痕が残るかも知れない。

 医者は柚木崎にそう告げた。

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