第六章 若者たち

(1)臨死

 夢を見ていた。

 どこまでも続く長い通路を一人きりで歩いている夢だ。とても暗く静かな場所だった。直観的にあの廃病院だと理解した。根拠はなく、思い返せば似ても似つかない造りだった気がする。記憶は曖昧で判然としない。天井や壁が不自然に狭く部屋らしきものが見当たらなかったことは覚えている。だが何しろ夢だ。景色に違和感を覚えることも、状況に疑念を挟む余地もなかった。不安や恐怖は感じなかった。むしろ静寂は心地よかった。無音の歩廊を一筋に歩み続ける。すべては決められたことであり進むべき道だった。はじめは一足一足を味わうように踏み締めた。慣れると今度は歩調を速めた。いつしか脚は駆けるほどの速度になり景色は次第に溶け出していった。重力の束縛から解放され全身が落下していくようにすら感じた。

 やがて前方に光が見えた。針の先で突いたような光だった。光は徐々に膨らんでいき、それが通路の出口だと悟った。両脚は加速を続け、間もなく意識が光に呑み込まれた。とても目を開けていられなかった。数秒、あるいはもう少し長く視界を閉ざし、再び瞼を開いたとき、目の前には星空が広がっていた。星空と見紛うばかりの光景が広がっていた。丸く、柔らかな光の粒子が見渡す限りを覆い尽くしていた。足元にも。頭上にも。空の先までも。地平の遥か彼方までも。数は意味を成さなかった。光は無数であり、無限だった。広大な宇宙の果てまで途方もなく連なっている確信が胸中を支配した。俺は傍らに浮かぶ光の一つに手を翳した。子供の頃を思い出すような不思議な懐かしさがあった。草の緑を想わせる光はゆったりと薄らいだり灯ったりしていた。まるで呼吸を繰り返すように。

 その星たちの中心に、柚木崎の姿を認めた。夜空に満月が浮かぶように。月の影で花が開くように。穏やかに。優しげに。微笑みを湛えていた。

 目から涙が溢れた。涙が記憶を呼び覚ました。

 俺はこの瞬間のために魂を捧げたのだ。俺はこの瞬間のために生を全うしたのだ。苦しみも、後悔も、全てはこの時のために在ったのだ。

 安らかで、満たされた感覚だった。髪の毛から爪先に至るまで幸せだった。両脚はまさに吸い寄せられるようだった。柚木崎は腕を広げて迎え入れてくれた。一つ一つの星明りが輝きを強め世界を幸福で満たし尽してくれた。

 夢はそこで途切れた。

 

 薄汚い天井が見えた。

 ベッドから起き上がる気力はなかった。脳細胞は気怠さに支配され身じろぎ一つが億劫だった。眼球だけをぐるりと動かす。壁も天井も真っ赤に染められていた。何て趣味の悪い内装だろう。持ち主の正気を疑ったがすぐに勘違いだと気が付いた。真っ白なカーテンの向こうで夕陽が沈もうとしていた。

 花火の夜から一日が経過している。あるいは二日か、三日か。もっと長くか。考えても答えは出せず、滴る点滴液を眺めているうちにどうでもよくなった。

 最初に部屋に入ってきたのは点滴の残量を確かめにきたらしい年配の看護師だった。そのひとは俺が目を覚ましていることを喜び、意識や体温、皮膚感覚等の異常について一通り確認をした。違和感はないかと尋ねられたので「喉が渇いた」と答えた。水は用意されなかった。

 次に現れたのは担当医だった。医師は看護師のそれと似たような検査を繰り返したあと、結果には一切触れず今までの経緯を説明してくれた。専門用語ばかりでよく理解できなかった。要は、刺されてから丸一日が経過し、危険な状態にあったが辛うじて一命を取り留め、そしてまた抜糸の痛みに耐えなければならない、ということらしい。医師は「君が助かったのは幸運が味方をしてくれたからだ」と他人事のように白い歯をこぼした。なら俺は誰に感謝すればいいのだろうと、ぼんやりとした頭で考えた。


「柚木崎さんにはあとでしっかりと礼を言っておきなさい」

 夜に見舞いにやってきた親父は疲労を隠そうともしない口調でそう告げてきた。容体自体は安定していたからだろう。親父も文花も見た目にはすっかり落ち着いていた。文花などはきちんと受け答えのできる俺を見て拍子抜けさえした様子だった。この頃になると意識は既にはっきりとしていて話すだけなら問題はなかった。ただ傷口が痛むため大声を出すことや上体を起こすことは難しかった。自然と返事は短くなった。

 親父は身体の具合や気分のことなど当たり前の質問をいくつか重ねてきた。

 腹を開いたのだから痛むのは当たり前だ。前日までの俺ならそう抗弁していたかも知れない。ただ不思議と生意気を言う気は起きなかった。それが痛みのせいなのか、肉体の衰弱によるものなのか自分でもよく分からなかった。

 親父は、テレビ用にと、キャビネットに千円札を置いたあと、柚木崎について口にした。

「あのひとがいなければたぶんお前は死んでいたぞ」

 曰く、救急車を呼び出し、くたばりかけの俺に声をかけ続け、病院に着いてからは夜を徹して治療に付き添ってくれたらしい。容体が落ち着いてからも側に居続けることを固持したそうだが看護師と親父に覚束ない口調と足取りを指摘され、ようやく自宅に帰ったそうだ。

 自然と夢の中の光景を思い出していた。胸の奧からじんわりと熱くなり、足先がぶるりと震えた。叶うなら今すぐにでも会いたかった。

 親父は、錆びるような溜息を吐いた。

「お前は一体何になろうとしているんだ?」

 答えられるわけがなかった。親父は気重そうに肩を落とした。

「俺はもうお前を叱ればいいのか、褒めればいいのかよく分からん。ただ後悔だけが心にある。やはりお前に空手をさせるべきではなかった。お前の気持ちもわからんでもない。だがもう十分だろう。これ以上親を心配させるのはやめてくれ」

 親父の声は哀れさを孕んでいた。文花は気まずそうに下を向いていた。早く帰って本の続きでも読みたいのかも知れない。気持ちは十分に理解できた。身内に対する身内の説教ほど逃げ出したくなるものはない。正直俺も助かったと思った。今なら沈黙も傷のせいにできる。

 一方でやはり、怪我で気弱になっていたのだろうか。入院でもしなければ親父のこんな声も聞けなかったのだろうなと、妙に感慨めいた気持ちもあった。冷静に非難を受け止めている自分がいた。

 親父も随分と小さくなった。使い古された文句ではあるが、偽りのない実感だった。


 柚木崎が病室に来てくれたのは翌朝のことだった。傷は相変わらず酷く痛んだが、痛みと寝た切りの退屈さを秤にかけ、前者を選んで動いてみようと考えられる程度にはなっていた。上体を起こした反動で悶絶していると控えめにドアがノックされた。

 笑顔や挨拶の類は一切なかった。黙ったまま部屋に入り、扉の前で両足を揃えた。真っ白なワンピースが院内の風景とよく似合っていた。

 柚木崎はいつまでたっても喋ろうとしなかった。視線を下げ、時間に何かを期待しているようだった。時は、ただ過ぎていくだけに感じられた。

「今日はやけに大人しいな」

 反応はなかった。

「……まあ、柚木崎はいつも大体こんなもんかな。退屈してたんだ。話し相手になってくれよ」

 やはり無反応。気鬱そうに俯いている。柚木崎の期待するものとは一体なんだろう。想像し、苦笑した。

「聞いたよ。ずっと側についててくれたんだってな。こうして生きてられんのも柚木崎のおかげだ。ありがとうな」

 感謝し、告げる。

「聞こえてたよ、お前の声」

 柚木崎ははっと顔を上げた。瞳を揺らし、何か伝えようと口を開いた。しかし水面で喘いだふうにしかならなかった。言葉は言葉の形を成せず沈黙の底に沈み込んだ。

 柚木崎は身体の前で両手を重ねた。次の動作は分かりやすかった。大切な何かを断ち切るように固く瞼を閉ざした。

「柚木崎」

 頭が深く垂れ下がる前に、俺は柚木崎を呼び止めた。

「謝らないでくれ。お前は悪くない」

 そう言っておきながら、自身の言葉に嫌悪を抱いた。

 勝手なことを言っていると思った。こんなものは負債の押し付けでしかない。強権的とすら言える。仮に俺が柚木崎の立場にあったとしたら頭を下げずにいられるだろうか?

 それでも俺は言うしかなかった。

「悪くない。お前は悪くないんだ」

 柚木崎は弱くはなかった。少なくとも泣き出してしまうほどには。唇を噛み締め、震える指先でスカートの裾を掴んだ。白い生地に皺が広がった。胸元まで届く、大きな皺だった。

 柚木崎は深々と頭を下げた。

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