(3)リュウとテツ
「え?」
柚木崎がびくりと肩を震わせた。豆でも食らったような貌で「何?」と振り返る。柚木崎は、いつの間にか、病院の入口に近付き、ガラス戸の取っ手を握っていた。
「鍵がかかってるんじゃないのか?」
「……普通に開くけど」
小走りで柚木崎の傍まで駆け寄った。ドア越しに院内を覗いてみた。内側が暗いため外の景色ばかりを反射している。丸いドアノブを押してみた。すんなりと動いた。定期的に整備されているかのような感触だった。
「不用心だな。……壊れてるのか?」
ドアが固定されるまで目一杯開き、二人で屋内に立ち入った。瞬間、粉っぽい臭いが鼻を衝いた。数年間放置されていた建物だ。かびと埃の天下だろう。むずむずを指で押さえながら薄暗い室内を細目で眺めた。玄関先は広めのフロアになっていた。
まず目に付くのは待合用の長椅子。向きも角度も不揃いに放置されている。次に赤銅色の鉢。長椅子に挟まれる形で無造作に横転していたが中身は空っぽだった。廃院当時から置きっ放しにされているのか、中心付近では丸々と肥えたゴミ袋が群がっていて、変色したビニールから茶色い何かを零していた。床は炭を擦りつけたようにくすみ、タイルはピースが欠けていた。クロスがひび割れ垂れ下がる天井はそれ自体がまるで皮膚病だった。
俺が知らないだけで心霊スポットにでもなっているのかも知れない。そう考えるには十分な異空間だ。成る程、好事家が廃墟に非日常を求めるのも何となくうなずける気がする。靴で床を踏むとじゃりりと音が反響した。柚木崎も俺の後に続いた。指先が袖を引っ張っていた。正面は行き止まり。右側に受付。そして奥へと続く廊下がある。俺たちは割れた誘導灯に向かって歩みを進めた。そのとき、
「おい。なんだよ、アンタら」
野太い声が院内に響いた。思わず上擦った声が漏れた。幽霊が出た、と思う暇もなかった。とにかく心臓が跳ね上がった。左に首を振るとフロアの片隅に人影がぬらりと立ち昇っていた。
人がいたのか。光量がなくて気付かなかった。動悸を抑えながら目を凝らすと、
「おい、リュウ。誰も来ないんじゃなかったのかよ。っざけんなよ」
また別の声が反響した。先の人影の背後にもう一つ影があった。影は壁際にある長椅子の上で、大袈裟に脚を組んでいた。
「……知るかよ、テツ。つうか、こないだここ見っけたときも一匹ガキがいたろうが。…ったく」
リュウが立ったまま腰を曲げた。煙草の火を床に押し当てたのだ。手をポケットに突っこんだままサンダルを引き摺り近付いてくる。
「アンタら何? 病院の人じゃないね?」
屋外の光に照らされ、その姿が明らかになった。
「……つうかガキか? でけえな」
無精髭を生やした色黒の男だった。年上なのは間違いない。だが、さほど離れているわけでもなさそうだった。病院の関係者ではないだろう。学生でもなければ、まともに働いているようにも見えない。きついヤニの臭いが漂ってくる。リュウはとろんとした目で舐めるように柚木崎を見据えた。俺は柚木崎を身体の陰に隠した。
「へえ、そういうこと?」
ひげで覆われた口元をにちゃりと蠢かした。愉快気に喉の奥を鳴らした。
「お兄ちゃん、悪いけどさ。今はボクらが使ってんだわ。他の有料んとこ行ってくんないかな」
俺はフロアの奥に目をやった。もう一人の男、テツが座る長椅子の上に何かの道具が置いてあった。医療器具のようにも見えた。無性に嫌悪感が湧いた。顔をしかめているとテツと目が合った。
「何なら俺らが見ててやろうか?」
「え、なに? 撮影会?」
「4Pでもいいよー」
男たちは舌を伸ばしてひたひたと笑う。
「つか、こいつらできんのかよ? 男のほうでか過ぎだろ」
「いやいや、むしろちっちゃいんじゃねえの? マイクロサイズ?」
大口を開けてまたゲラゲラ。実に不愉快で、耳障りな音だった。
(まあ、ただのチンピラだ)
相手にしないほうがいい。とことんまで程度の低い連中だが、人を喰うわけでもないだろう。適当にあしらってやり過ごすのが賢明だ。俺は口の端を広げて白い歯を示した。
「いやあ、すいません先輩方。まさか人がいるとは思わなくて」
なるだけちっぽけに見えるよう猿みたいに身を縮めた。右手は頭の後ろだ。
「何やってんスか? あ、聞いちゃまずいっスかね? すんません。邪魔すんのも悪ィっスよね。俺らもう帰るっスわ」
無論、俺にだってプライドがある。こんなチンピラにへこへこ頭を下げる姿を柚木崎に見られたくはない。だが、重要なのもまたそこだ。柚木崎がいる。一時の感情で事を荒立てるわけにはいかなかった。
(……いつだったかな)
昔、似たようなことがあった。小坊んときだ。妹は発表会、親父はその付き添いで家を空けた。残された俺は祖父さんに連れられて外で飯を食べることになった。その帰りに……。いや、今はどうでもいい。
リュウの反応はなかった。回線に不具合でもあるのだろうか。元々おつむの出来は良くないはずだ。無表情に口元をにちゃにちゃさせていた。俺はにこにこと応じる。やがて嘲りに顔を歪めた。
「んなビビんなよ」
「ビビってないスよ」
「嘘吐け、ビビってんだろ」
「いやいやホントですって。もう帰っていいスか?」
「ハっ。……チクんなよ」
それはどうだか保証できない。
俺は「おじゃましましたー」と鳩みたいに首を動かして身体を反転させようとした。そのときだった。
「……下品な連中」
柚木崎がぼそりと、それでいてはっきりと断じた。柚木崎の冷ややかな声は壁に当たって天井で跳ね返り、フロアの熱を根こそぎ奪い去った。空気が凍り付いた。誰もが固まって動かなかった。ただリュウの表情だけがすっと尖った。背中からどっと汗が噴き出した。
(ま……っ)
待て、柚木崎。このタイミングでどうしてそんなことを言う。俺が穏便に済ませようってのが解ってないわけないだろ!?
二の句を継げずにいると、
「カノジョ」
リュウがたるそうに首を傾けた。
「今、なんか面白いこと言った?」
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