(4)強いこと、弱いこと

「……祖父さんの話、したことあるよな」

 柚木崎は頷いたようだった。

「俺の祖父さんな。空手の先生をやってたんだ」

 光の一粒を目で追いながら続ける。

「家には武道場だってある。つっても別にそんな大層なもんじゃない。近所のガキが習い事で通ったり、運動不足のおばちゃんがダイエットに身体を動かしにくるくらいのもんだ。俺もそこで鼻水垂らしてる一人だった」

 親父とおふくろは俺が三歳の頃に離婚した。ガキの時分の話だから、どっちが悪くて何が原因だったかなんて俺は知らない。おふくろの顔すら覚えていない。物心がつく頃には俺はもう親父の実家で寝起きしていて、家には祖父さんがいて、祖父さんの真似をしながら毎朝拳を振っていた。祖父さんは祖父さんであると同時に俺の師匠でもあった。

「柚木崎、空手は見たことあるか?」

 柚木崎は、眉根を寄せ、記憶を捻り出すように虚空を見上げた。 

「……こう、相手の胸をドスドス! って叩くやつでしょ?」

 握った両手を拙く構え、えいえいと前に突き出した。子供っぽい仕草に思わず笑みが零れてしまう。

「そりゃあフルコン空手つってな。顔面以外なら殴ってもいいってルールだ。なんだ。意外とちゃんと知ってるな」

「殴っちゃ駄目な空手もあるの?」

「寸止めルールっつーのがある。伝統派と呼ばれる流派や団体が採用してる試合形式だ。寸止めでは直接的な打撃は認められていなくて打撃が決まったと判定された時点でポイントになる。俺が祖父さんから習ってたのもこっちのほうだ」

 空手は元々琉球王国で生まれたものだ。沖縄には古来よりと呼ばれる独自の拳法が存在していた。は中国から伝来してきた拳法・唐手(トーディ)とは別物として伝えられてきたが、のちに両者が融合し唐手(からて)と呼ばれる武術に発展した。大正時代、唐手は船越義珍や本部朝基らの手によって日本本土に広められ昭和以降に空手と名称を改められた。伝統派空手とはそれら古流の特色を有する流派ないし団体の総称であり後年に分派したフルコンタクト空手とは性格を異にしている。空手は流派・会派が乱立しているため思想や鍛錬法など細かな差異を挙げるときりがないが大雑把に分類するなら伝統派とフルコン、当てるか当てないかという試合形式で区分するのが最も簡単でわかりやすい。

「伝統派空手には一つの理念がある」

「理念?」

「ああ、理念だ。一撃必殺という名の理念。拳を当てるときは相手を殺すとき。だから試合では当てずに止める」

 俺は力なく笑みを作って見せる。

「呑気な話だろ? 自信過剰、そうでなけりゃピント外れだ。元々は薩摩の示現流剣術の影響で生まれた思想らしいが、俺はずっとそんなのまやかしだと思ってたよ。一発拳を当てたところで人が死ぬわけじゃない。当てなきゃ威力は分からない。神話を現実に当てはめたところで滑稽なだけだってな」

 右の拳を強く握り締めた。

「その想いは齢を重ねるごとに強くなっていった。学年が上がって、身体がでかくなって、自分は強い人間だと履き違えちまったんだろう。ダンスみたいな形稽古だけじゃない。ぶっ倒れるまで顔面を潰し合うようなバチバチの真剣勝負をやってみたくなった」

 同門のガキを無理矢理組手に付き合わせて泣かせたこともあった。祖父さんにはたしなめられたが悪いとは思わなかった。むしろ、いつしか俺は祖父さんの空手に嫌悪感すら抱くようになっていた。存分に力を振るわせて貰えないことを、、理不尽な仕打ちのように感じていた。

「フルコンに興味を持ち始めたのもそんな時分だ」

 柚木崎は階段から数歩離れた場所に立って黙って話を聞いている。ふと、座らないのだろうかと思い、促す視線を送ってみたが伝わらなかった。汗ばんだシャツを掴み、話を続ける。

「顔面殴打は禁止されているが寸止めよりは俺の理想に近かった。もちろん祖父さんの手前がある。別の道場に入門したいとはさすがに言い出せなかった。だが、いつか必ず門を叩くと心に誓う出来事が起きた」

 小学六年のときだ。余程激しい感情だったのだろう。記憶を手繰れば日付まで正確に思い出すことができる。確か六月二十日の土曜日だった。

「俺の妹はガキの頃からピアノをやっててな。その日は発表会で親父と一緒に家を空けた。終わったあとも保護者間の慰労会があるとかで晩も遅くなるって話だったから、残された俺と祖父さんは面倒くせえから外で食おうってことになった。何か豪勢なもんにありつけるかもって期待してたから辛気臭え居酒屋に連れてかれたときはちとがっかりしたな。まあ、そこで細々とつまみみたいなもん食って、祖父さんは一杯二杯酒を引っ掛けて、ほろ酔いになって……一時間くらいあとに店を出たときのことだ。前を歩いてたチンピラみたいな二人組と揉めちまったんだ。その日は小雨で祖父さんが泥をハネたとかそんなくだらねえことがきっかけだったと思う。でも、本当の原因はそれじゃない。相手は相当酔ってたし、ガラも良くはなかったが、それでも祖父さんがすぐに謝って丸く収まるはずだった」

 だったらどうして? 柚木崎がそんな顔をする。俺は自嘲し、自分の胸を指差した。

「喧嘩をふっかけたのは俺さ。因縁つーかよ、ちょっと相手を小馬鹿にしたんだな。ムカついたつうより空手を使いたくてたまらなかったんだ。隣には祖父さんもいる。気がでかくなってたんだと思う」

 祖父さんは強い空手家だった。温厚で、いつもにこにこしてて、孫の俺にも敬語で話しかけるようなひとだった。でも空手だけは化け物みたいに強かった。ガキの頃の記憶がそう思わせてるんじゃない。今、冷静に振り返ってみても、女子供相手に空手教室やってんのが不思議なくらいの実力者だった。だから酔っ払い二人が絡んできたところでどうとでもなると、俺はタカをくくっていた。

「でも、違った」

 あの夜、反吐臭い路上で起きた出来事。今でもありありと瞼に浮かぶ。

「祖父さんな、喧嘩に空手なんか使わなかった。相手を叩きのめすどころか、その場に手を付いて土下座までしたんだ。申し訳ありません、これで勘弁してくださいってな。何度も何度も額を地面に擦り付けた。嗤われても、頭を踏みつけられても、何度も。俺は愕然とした。情けなくて死にそうだった。俺は叫んだ。どうしてこんなやつらに謝るんだ。あんたなら簡単に叩きのめせるだろって。祖父さんは動かなかった。祖父さんがやらないのなら俺がと、自分で拳を握った。そんな俺を祖父さんは一喝した。身が竦むような声だった。そうしてまた地面に額を擦り付けた。相手の二人は祖父さんの頭に唾を吐いて嗤いながらどこかへ消えた、俺は祖父さんを思い付く限りの言葉で罵った」

 うつむき、息を継いだ。吐き出す息は自分が思うよりずっと重く感じた。

 静寂が虫の音色を際立たせる。今までも音は奏でられていたはずなのに全く意識を向けていなかった。彼らのための彼らの演奏。嘲りも怒りもそこにはない。単調で、純粋だった。

 柚木崎が遠慮がちに口を開いた。

「神杉くん、それは」

「ああ、わかっているよ」

 繊細な表情を怯えさせぬよう俺は声を柔らかくする。

 そう、今なら分かる。祖父さんは俺を危険な目に合わせたくなかったのだ。孫を守るためならプライドなんざ犬の糞にしても構わないと思っていた。それは空手家としての強さじゃない。祖父さんの、人間としての強さだった。

「でも、糞餓鬼だった俺にはそんなことはさっぱり理解できなかった。祖父さんを嗤った二人よりも、嗤われた祖父さんのほうが何倍も憎いと思った。そのとき俺はフルコンの門を叩くと誓った」

 もう祖父さんの空手なんざ見るのも嫌だった。一刻も早く今とは違う環境に身を置きたかった。俺は祖父さんに対して一方的に入門を告げた。

「祖父さんは反対しなかった。あんな姿を見せた以上軽蔑されても仕方がない、そういう気持ちもあったんだと思う。けど、代わりに反対したのが親父だ。別に道理を説いたわけじゃない。単に月謝を払うのが嫌だったんだ。祖父さんがいるんだから家で習えってわけだ。でも、祖父さんが体調を崩して入退院を繰り返すようになると親父の理屈も通らなくなった。俺は空手を続けたいと熱心に親父を説得した。渋っていた親父も最後には首を縦に振らざるを得なかった。親父にしてみれば、まあ、妹とのバランスを取らなきゃいけない部分もあったんだろう」

 祖父さんはやはり反対しなかった。ただ真っ直ぐに俺を見て「怪我だけはしないように」と静かに言った。寝台で管に繋がれた祖父さんは病人そのものだったが、まるで道場に座して向き合っているかのような錯覚を覚えた。自分はどうしてこの人の元を離れようとしているのだろう。間抜けな疑問が頭を過ぎったが一瞬だった。俺は大手を振ってフルコンの門を叩いた。

「それから三年間は充実してた。稽古はきついし先輩は厳しかったが望んだ道を進んでいるという実感があった。叩かれれば叩かれるほど肉体と精神が鍛えられていくように感じた。そして、何よりここが重要で……組手と試合が楽しかった。存分に殴り合いができたからな」

 無論フルコンの試合と実戦は違う。直接打撃が認められていると言っても顔面に対する攻撃は禁止……いや、仮に顔面殴打が認められていたとしてもルールの枠内で運用する以上はスポーツでしかない。だが当時の俺はその拳を当てるという行為自体が楽しくて仕方がなかった。

(そう言えば)

 と数年越しにようやく気付く。

(祖父さんの言いつけなんか一つも守れなかったな)

 痣をつくった。血尿が出た。水月を貫かれたときは内臓が引き千切られるようだった。頭を蹴られ意識を飛ばされたのは一度や二度の話じゃない。肋骨のひびに気付かずスパーを続けていたことだってある。無傷の時期など一時もなかった。そして、拳で誰かを傷付けなかった時期も。

 殴った。蹴った。胃液を吐かせた。叩き伏せ、怯えさせ、苦悶に顔を歪ませてやった。打ち込まれた拳以上に拳を打ち返し、最後に立っているのは大体俺だった。いつしか俺は同年代でも一目置かれる存在になり、試合では常に相手を脅かした。

 楽しかった。強いことが楽しかった。強さを叩き込むことが楽しかった。楽しくて、楽しくて、はらわたの底から充実していた。

「そんな強さには何の価値もないと気付かされたのが中三の秋だ」

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