(5)井上拓也

 握った拳を眺め下ろす。攻撃の要となる利き腕の拳。一般的なそれと比較すれば皮も骨も分厚く仕上がっているはずだ。試割なら中坊の頃でも杉板一枚は軽くぶち割れた。

 強くなるため。強くなるために拳を鍛えた。巻藁を突いた。拳立てを繰り返した。祖父さんのような無様を曝すまいと自らを徹底的に苛め抜いた。だが、

(現実はどうだ?)

 握っても握っても手の震えは止まってくれない。酒の切れたアル中みたいに拳の置き場所が定まらない。

 ふと顔を上げた。近付いてきた柚木崎が俺の隣にちょこんと腰を下ろした。言葉を待ったが柚木崎から何かを発する気はなさそうだった。むしろ話の続きを促しているように見えた。要望に応え、俺は記憶の封を解いた。

「中三の秋、俺はとある試合に出場した。規模はさほどでかくはない。顔見知りの道場が集まって稽古の成果を披露する、まあ、一種の交流試合みたいなもんだ」

 交流試合、と一言に済ませれば和気藹々とした光景が目に浮かぶかも知れない。だが兎にも角にも血の気の多い連中ばかりだ。試合となれば目が血走るし、派閥が揃えば対抗意識も自然と芽生える。客席には身内を含め多くのギャラリーが集まっていて、喉が張り付くような緊張感が形成されていた。

「その一回戦で対戦したのが、高倉中の井上拓也だった」

 井上拓也。胸中でその名を繰り返す。

 わずか数分の交錯に過ぎなかった。十五年という未熟な人生の中でも、さらにわずかな数分間。そのたった数分間で井上の名前は忘れられないものとして俺の脳髄に刻み込まれた。

 毎日教室で顔を合わせていても名前すら覚えられない級友がいる。数分縁があっただけで生涯忘れられない他人がいる。それを運命と呼ぶほど俺は厚顔でいられない。とどのつまり全ては自己責任でしかないのだから。

「……どんな、ひとだったの」

 柚木崎の問いに、俺は答えた。

「大会では何度も見かけたことのある選手だった。試合をしたことは一度もなかったが……真っ直ぐで、見ていて気持ちのいい空手をするやつだったよ。強い選手だった」

 相対したときのことをよく覚えている。井上は明らかに緊張しているようだった。爪先に目を落としたまま自分の胸を何度も小突いたりしていた。落ち着きなく視線を彷徨わせたのは家族を見ていたからかも知れない。小さく口の端を緩めたような記憶がある。井上はしばらく身体を左右に揺らしたり、軽く縦に跳ねたりしていたが、やがて重々しく視界を閉ざすと額の前で腕をゆっくりと交差させた。長く大きく息を吸い、十字を切りながら息を吐き出す。全身の筋肉が引き締まり井上の中から雑念が削ぎ落とされていくのを感じた。そして再び瞼を開いたとき井上は鍛え込まれた刀剣のように厳かな武道家の面構えになっていた。

 面白い試合になると思った。井上の強さを確信したからじゃない。やつの眼がちっとも俺を怖がっていなかったからだ。そういうやつはたまにいた。だが舐めた態度を改めさせることも難しくはなかった。軽く拳で小突いてやれば虚仮は大体剥がれて落ちる。生意気な馬鹿の喚き声を聞くのも試合の醍醐味の一つだと、俺は驕り切っていた。

 だが、そうはならなかった。井上は挫けなかった。手数も、威力も、明らかに俺が上回っていた。なのに怯む様子は一切なかった。それどころか隙を見ては的確に反撃を繰り出し、逆に俺を脅かした。俺は益々腹が立って力任せに殴りつけた。何度も拳を打ち付け、何度も拳を打ち返された。俺が吼えると呼応するように井上も吠えた。互いに一歩も退かなかった。

 殴り合う時間は長くて短かった。終止符を打ったのは一つの感触だった。井上の胸部を会心の一打で貫いたという、その感触。

「いいのが入ったと……そのときは思った」

 今はもう思いたくない。忘れたい。でも消えてくれない。井上の胸板に拳をめり込ませた感触がまとわりついて離れない。まるで生肉が張り付くみたいに。

「井上は胸を押さえて両膝を着くと前のめりに倒れ込んだ。文句なしの一本勝ちだった」

 井上は顔面をマットに押しつけたままぴくりとも動かなくなった。下半身からはじんわりと水のようなものが広がった。失禁だった。

「あれ、と思った直後に審判が駆け寄ってきて、倒れた井上を抱き起した。しばらくは頬を叩いて井上の名を呼んでいたが、手首に指を押し当てると目玉を剥いて何かを叫んだ。井上の師範の名前だったんだと思う。見覚えのある大人が何人か集まってきて、そのうち主催者や医療班もそれに加わった。波が一斉に押し寄せるみたいだった。俺は何がどうなっているのか分からなくて、騒ぎ立てる大人たちをただ茫然と眺めていた」

 物心がつくかつかないかという時分の話ではなかったか。家の近所で迷子になった記憶がある。親の目を盗んで玄関を開け、幼い好奇心を存分に解放した。はじめはその小さな冒険を満喫していたのだろう。しかし、ふと我に返ると右も左も分からない路地に立っていることに気が付いた。自宅から距離が離れていることは明白だが帰り道が分からない。夕陽はとっくに沈んでいて見知らぬ景色は灰色に染まっている。俺は必死でおふくろを呼ぶが応えてくれる声はない。土鳩の低い鳴き声だけが無関心に事実を告げる。お前はもう二度と引き返すことのできない場所に来てしまったのだ。

 喉はからからに乾き、皮膚感覚は痺れていた。口元には許しを請う笑みが張り付くが誰も相手にしてくれない。そのうち大粒の涙が溢れてきて視界をぐにゃりと歪ませた。とても立っていられなかった。

「俺はその場に腰を着いた。伊戸が俺の肩を揺さぶっていたが何も聞こえなかった。俺の拳と目の前の光景が結ばれている。その嫌な感覚だけが逃げ場もなくはっきりとしていた。やがてけたたましいサイレンが鳴り響いて井上は担架に乗せられた。その傍らで、一人の女のひとが叫んでいることに気が付いた。井上の母親だった。井上の母親は、横たわる息子にしがみついて何度も何度も名前を叫んだ。耳を覆いたくなるような悲痛な声で、拓也、拓也と」

 井上が死んだと聞かされたのは、それから半日ほど経ってのことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る