ほたるの息

大淀たわら

プロローグ

プロローグ

「オラアッ!」

 日の暮れの河川敷に雄叫びが響いた。握られた拳が半円を描きながら飛んでくる。フックとアッパーの中間のような軌道。下突きと呼ぶには脇が開き過ぎている。俺は半身に構え、向かってくる腕に左腕を打ちつけた。骨と骨がかち合う感触。相手が前方にバランスを崩す。傾いた頭部へ目がけ、すかさず右肘を放った。衝撃はない。肘は眉間の一寸手前でぴたりと止まっている。相手も突きつけられた肘を前に凍りついていた。鈍色の空を鳥の影が横切っていく。すっきりとしない空模様だった。梅雨が近付いているのかも知れない。

 俺は左右の足を交互に引いて間合いを離した。後屈立ちになって左手を前方にかざす。堤防では犬を連れたおっさんが俺たちの諍いを見下ろしていた。見ていないで何とかして欲しいのだが、たぶん男子学生がふざけているだけだと思われている。

 当の相手は腕を垂らして棒立ちになっていた。退くべきか、続けるべきか。糞色の頭で考えられるのはそれくらいのものだろう。選んだのは後者だった。再び両腕を上げて突っ込んでくる。

「っらァッ」

 次は右の蹴りだった。腿を狙った、と言うよりは単に脚が上がっていないだけか。俺は曲がった脚を右の手で外側から払った。踏み込み、腕を相手の首に巻き付ける。相手を後方に倒しながら、右足を右足で大きく刈り取った。

 大外刈り。反転する身体は短く息を漏らして肩から地面に落下する。俺は脇へ引き寄せた右の拳を転がる頭部へ突き下ろした。これも寸止め。上空から迫る拳に両目はきつく閉ざされていた。

「かっちゃん!」

 控えた仲間の一人が叫んだ。気弱そうな男だった。小鳥みたいに仲間の顔色を窺うばかりで先ほどから一度も手を出してこない。隣にいるもう一人も派手に尻餅を突いてからは耳障りな台詞を吐かなくなった。今は俺とのやり取りを神妙な目つきで観戦している。

 拳を引き、再び間合いを取った。かっちゃんが慌てて上体を起こした。煙草を吸っているからだろう。大して動いていないはずなのにもう息が上がっていた。体格があるのにもったいない。そんなことをぼんやり思った。

 かっちゃんは土を払って立ち上がった。上半身を捻り、茶色い頭を後方に傾ける。砲丸投げに近い動作だ。小石や土を投げる動きではない。拳を振るうには距離がある。一体何をするつもりなのか。

 訝しんでいると、勢いよく頭を振った。

「ブッ!」

「おわっ!?」

 唾!

 上半身を反らし飛来物を回避する。外れた弾丸は綺麗な放物線を描いてぽとりと地面に落下した。土の上には白い泡の炸裂痕。ガキかよ、こいつ。

 不意を衝いてタックルでも仕掛けてくるかと警戒したが、唾を吐きつけたままの姿勢で俺をねめつけている。

「クソがッ、死ねッ!」

 かっちゃんは感情に任せてそう叫んだ。くるりと身を翻すと肩を怒らせ堤防の階段を上がっていく。後ろの二人も慌ててリーダーの後を追った。俺は構えを解いた。チャリに乗って小さくなっていく三人を見送ったあと、両膝を折って息を吐いた。

「はあ……疲れた」

 こんなことをしたのはいつ以来だろう。もう二年近くになるのか。道場に通わなくなってからも筋トレは欠かしていない。走り込みだって毎朝している。だが剥き出しの敵意を前に感じる疲労は肉体のそれとはまた違うものだ。

 川原の風景を眺める。静かだった。緩んだ緊張の隙間に水の音だけが染み込んでくる。張り付いたシャツに心地良く風が吹き付け、いっそこのまま寝転んでしまいたかった。とても腹が減っていた。

「そうね、お疲れさま」

 声は丸まる背中に突然振ってきた。俺の影に、俺ではない影が重なっている。屈んだまま背後を振り返った。

 真っ先に見えたのは紺色のスカートだった。白いシャツ。肩がけのバッグ。ラインの入った大袈裟な襟。覗く首元は雪化粧のように白い。唇は小さく結ばれ、顔全体に淡い印象を与えている。伸びた前髪は片目が隠れるほどに長く、その表情をより霞がかったものにしている。見下ろす瞳だけが月のように映えていた。

 どことなく夜空が似合いそうな女だった。女は風に吹かれる髪を押さえて言った。

「私、男のひとのケンカなんて初めて見たわ」

「……よかったな。面白いもんが見られて」

 女はにこりともしない。

「すごいのね。一度も相手を殴らずに」

「あいつらが素人なだけだ」

「でも」

 と女はハンカチを差し出してきた。

「ちゃんと殴り返していれば二度もぶたれずに済んだんじゃないかしら」

 俺はハンカチを眺める。すっきりしない空模様と同じく地味で色気のない柄だった。指をズボンで拭い、口元に当てた。両端が少し切れているらしい。だが、どうってことない傷だ。拳骨を作り甲で拭った。

 気遣いを無碍にされても女に気にする様子はない。ハンカチをバッグに仕舞った。

「原因は何なの?」

「あいつらが」

 と、かっちゃんが走り去った方へ首を向ける。

「猫の毛をライターで焼こうとしてた」

 女が周囲を見回す。

「逃げたよ、一目散に」

 最後に見たのは川原の草むらに頭を突っ込む茶色い尻尾だった。火傷の程度は分からない。ひどい傷にはなっていないだろうとは思う。ただ、あの猫はもう二度と人間に近付こうとはしないだろう。その現実が、少しだけ寂しかった。

 女はふうんと興味なさげに感心する。

「格好良いのね」

「……そんなんじゃねえよ。ああいうの、許せないだけだ」

 ところで、と俺は立ち上がった。

「あんた誰なんだ?」

 女の背丈は俺の胸までもなかった。まあ、大抵の女子は俺の胸ぐらいの背しかない。それでも小柄な部類だろう。見上げて言った。

「クラスメイトの顔ぐらい覚えたらどうなの」

 女の制服は確かに西高のものだった。一応毎日目にしている。でも、こんな女子クラスにいただろうか? 記憶を呼び起こそうと視線を落とす。湧き起こってきたのは名前ではなく自嘲だった。俺は級友の半分も覚えていない。

「柚木崎よ」

「ゆきざき」

 名乗って貰えればそんなやつもいたなという気がしてくる。気がしてくるだけかも知れないが。

 我ながら社会常識という点においては失礼極まりない対応だと反省する。しかし、相手も気に留める様子はなかった。こいつはこいつで変わり者のようだ。柚木崎は後ろ手を組みくるりと背を向けた。

「君は有名人だよ、神杉くん」

 肩越しに見返り、告げる。

?」


 ひと夏の出来事だった。

 十七歳の夏。土から這い出た蝉たちが、また土へと孵るだけのわずかなひととき。三月にも満たない季節の出来事。

 俺が触れ、心に刻んだすべては、最早記憶とは呼べないものに風化してしまっている。懐かしい、という純化された想い。

 つらい事件だったとひとは言う。そんなとき俺は、ただ黙ってうなずくようにしている。忘れてはならないことがたくさんあった。悲しいことも。でも、あの夏のことを心に浮かべるとき俺はいつも楽しいことばかりを思い出す。

 深い夏草の香り。虫の音色。夜空には星の雲が漂い、水の流れは煌めいている。月明かりの下で手を結ぶ俺たちの前には無数の光が飛び交い、消えたり、灯ったりしていた。まるで寝息を立てるように。

 触れることはもう叶わない。瞼の裏に開くそれを俺はただ静かに観賞する。

 柚木崎夏凛ゆきざきかりんと過ごした夏は、想い出として華を咲かせる。

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