冷たいファーストキス

 狭い、狭い道だった。体がつかえてしまうほどのトンネルのような道を、俺はもの凄い速さで通ってゆく。

 追い越してゆく。時間を。景色を。記憶を。光さえも。振り落とされないように、必死でしがみついて、速く、速く。

 俺が見たものは、俺の中にある不安。自分への疑い。コンプレックス。羞恥心。虚栄心。だけど、それを知り、理解し、気付くことができれば、俺はまた産まれることができる。


 前世がどうだとか、俺には分からない。だけど、俺はきっとこれまでも、何度もこうしてこれを繰り返してきたんだろう。いつか俺の生が終わるとき、俺はまた忘れてしまうんだろうけど、それでも、これから何度もこれを繰り返すんだろう。

 トンネル。息苦しくさえある。だけど、進む。

 遠くに、はるか遠くに、光が。

 抜けた。

 やっぱり、雨だった。

「サヤ!」

 あのコンビニの前。俺は、傘をパラシュートにしてサヤの前に降り立った。そして、サヤが空を見上げながら身を寄せる軒下へ。

「雨、止まないな」

「ほんと」

「あんた、傘、ないの?」

「すぐ止むかなって思ったけど、結構凄いから。どうしようかなって」

 俺は、右手に握る傘を差し出した。こんどは、この一本だけ。サヤは顔をくしゃくしゃにして笑い、俺たちのシェルターの中に身を入れた。

「きっと、来てくれるって思ってたよ」

「ごめん。遅くなった」

「ううん。来てくれて、ありがとう」

 サヤは、満足そうだ。きっと、これも、俺の心が映る鏡なのかもしれない。それでもいい。俺の中で、サヤはサヤでしかないから。

「思い出って、変なものなんだね」

 サヤが不意に言う。

「ずっと前のことなのに、いつまでもすぐそばにあるようで。いつでも手に触れられそうで、決して手の届かない遠いところにあって」

 俺は、サヤに歩調を合わせた。アスファルトを叩く雨が、それを包んでいる。

「いい思い出も、悪い思い出も、たくさんあるね」

「そうだな。たくさんある」

「出会った日。告白したとき。はじめてのキス。デート。旅行。結婚式。新婚旅行。いっぱい喧嘩もした。耕太郎はいつまで経っても子供みたいだった」

「ごめん」

 だけど。俺は、歩くのをやめた。

 雨が、ビニールを叩いている。それは俺たちの血の脈の音みたいだった。

「だけど、俺は、一度も後悔なんてしていない。あのときああすればよかった、なんて思ったことはない。どこにいたって、何をしてたって、俺はサヤのことが好きだ。何度死んで何度産まれたって、必ずサヤのところにやって来る。何十億人いても、必ずサヤを見つけ出す。これまでも、これからも。今だって、俺はそうやってサヤのところに帰ってきたんだ」

「耕太郎――」

 サヤは、俺の言いたいことが分かっていながらあえてそれを言わず、きょとんとして見せることがある。そういうとき、決まって瞬きを多くするから、俺にはすぐ分かる。

 ただ黙って、左手を差し出す。それを飾る腕時計は、たしかに動いていた。動いて、刻んでいた。サヤは二度頷き、俺の手を取った。やっぱり、その手は冷たかった。だけど、俺はそれを受け入れた。


 俺たちは、二人で、空にいた。コンビニがどんどん小さくなり、俺たちの街が丸ごと見下ろせるくらいに、高く。

「雨じゃなければ、いい眺めなのにな」

「雨でも、いいじゃない」

 俺の顔を覗き込むサヤに向かって、苦笑を返す。

「雨なら、こうやって同じ傘に入ることができる」

 同じものを避け、同じものを守ろうとし、同じ傘の中に。そして同じものを見、同じものを望む。それは、雨が降るからだ。早く上がれ、早く晴れろと願うことができ、それを喜ぶことができる。それは、人にとって、この上ない喜びなのではないだろうか。

 空。それは、雨がはじまる場所。俺たちの喜びが、始まる場所。

 ぱちぱちとビニールの上で弾ける水花火と、くすくすと笑うサヤの喉の音が重なる。

「あなたは、わたしに触れ、いのちをすり減らした。だけど、あなたは、まだ死なない」

「分かってる。だって、俺は生きてるんだから」

「そうね――」

 サヤは、ちっとも悲しそうじゃない。もう少しくらい、悲しそうにしてくれてもいいのに。

 だって、これで、ほんとうにお別れなんだから。

「あなたが、待ってる。だから、帰ろう」

 いや、違う。俺はこの鏡の中の世界から抜け出し、二度とサヤに会えないんじゃない。サヤと一緒に、帰るんだ。

 心の中のことを言葉にするというのは、勇気がいる。もし、それが間違っていたら、もし、それでサヤが傷付いたら。そんなことを思うと、つい口が重くなってしまうものだ。だけど、今の俺なら、確かな手応えをもってそれを口にすることができる。

「ああ。帰ろう。一緒に」

 簡単なことだった。

 サヤは、繋いだままの俺の左手を離した。ふわふわと空中を漂うのに少し戸惑いながら、それでも笑顔だった。

 俺は、サヤを思いきり抱き寄せた。

 眼が合う。そして、笑い合う。

 これが、俺たちのファーストキス。サヤの体の冷たさは、鏡に触れたときの感覚だったんだ。だから、やっぱりサヤの唇は、冷たかった。それでも、こんなに冷たいキスが、こんなにあたたかく思えるなんて。

 それはきっと、俺の中にあるサヤの熱。生きて脈打つ、俺の熱。鏡の中の像とは決して交わることはできないけれど、温度を伝え合うことならできるのかもしれない。


 いのちが、俺の中に戻ってくる。唇から、顔へ。胸へ。腹へ。手足へ。

 磨り減ったものが、戻ってゆく。逆行したものが、進んでゆく。

 俺たちを、あるべき場所へ。それが、俺の世界の中で生きる、サヤの願い。神様は、その願いを叶えるつもりらしい。

 ああ、サヤ。なんて女なんだ。お前が生きていて、確かに俺の隣にいたということが、こんなにも誇らしいなんて。お前を知っているということだけで、生きていくことができるなんて。

 ようやく、始められる。とっくに始まっていたものを。



 ――さん。

 ――耕太郎さん。

 呼びかけられて、俺は目をうっすら開いた。やけに眩しい。それに、飲みすぎた翌朝のように目眩がし、頭痛も鳴り響いている。

 見慣れない天井。いや、見覚えのある天井。

「耕太郎さん」

 咲耶。俺は、喉を鳴らした。

「よかった。気が付かれたのですね」

「おお、よかった、よかった」

 爺さんも一緒にいるらしい。二人して、俺を覗き込んでいるようだ。その影の具合と部屋の中の色から、今は夕方なんだということが分かった。

「よく戻りなさった。よく――」

 爺さんは錆びた声で、俺の手を取りながら何度も同じことを言った。

「もう、このまま心に飲まれてしまい、戻れぬのではないかと思いました」

 咲耶は、涙ぐんでいるらしい。

「俺は、生きて――?」

 徹夜でカラオケに行ったときみたいに、声が枯れている。喉が渇いているんだ。冷たいスポーツドリンクかサヤの好きなルイボスティーを飲み干したい。

「ええ、生きています。あなたは、まさに生きています」

「そうか」

 俺は腕を上げようとして、重くて支えきれず顔面にそれを落とした。咲耶が慌てて介添えをしようとするが、俺は笑っていた。

 痺れて力の入らない手から、お守りがこぼれる。

「俺が見ていたものは、何だったんだろう」

「さあな。わしらに言えるのは、あなたはたしかにサヤさんを見つけ、それを追うことで、あなた自身をも見つけたということだけです。そして、あなたは、確かに生きているということです」

「お爺さん。生きるっていうのは、こんなにも苦しく、重たいものなんですね」

「それは、そうでしょう。生というもの自体、軽いものであるはずがない。ましてや、自分と、自分を知る人の生の全てが、あなたの中にあるのです。それが、どうして軽いようなことがあるかね」

 確かに。俺は、また苦笑した。この笑い方は、正直言って好きじゃない。なんだか逃げ道を残しておくようで、潔くないような気がする。

 だけど、俺のことを好きだと言った、俺の最愛の人がいる。サヤも、確かに生きていた。幽霊になって戻ってきたサヤが結局何だったのかは、今の俺のぼんやりとした頭ではよく分からないけれど、だけど、サヤは間違いなく生きていたんだ。それを、俺は知っているんだ。だから、サヤは消えることなんてないんだ。サヤが消えない限り、俺が消えるということもないんだ。

 ほっとした。自分が生きているということに。サヤがいないことを嘆き、死んでしまった方が楽だと思ったことがないことはない。だけど、その度、ほんとうには死ななかった。どこかで、分かっていたからだろう。

 安心すると、眠くなってきた。急激に身体に戻った俺のいのちが、仔犬のように無邪気に跳ね回っている。眠気の正体は、そういう種類のものなんだろうと何となく思った。


 瞼を支える力もない。これは、流されてもいい眠りだ。

 水の音が、遠くで匂う。

 花の香りが、すぐ近くで聴こえる。

 そっと布団をかけてくれる手。

 眠ってもいいんだ。また、目覚めるのだから。

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