乗るべきバス

「どうして」

 やっと出た言葉が、それだった。あとは、ただ溢れてくる涙に支配されて、どうにもならない。サヤが死んでから、嬉しくて泣くのは初めてだった。

 奇跡。これが、そうなんだ。あの不思議な神社の神様のおかげか何かは知らないけれど、奇跡というのはこのことなんだ。

 涙とはなでぐちゃぐちゃになったまま、サヤを抱きしめたくて飛び付く。

「駄目」

 思いもかけなかった強い拒絶の色を帯びた言葉に、俺はたじろいだ。

「ごめんね、耕太郎。触れちゃ、駄目なの」

 なぜなのか理由を聞いても、サヤは困ったように笑うだけで明確な説明ができないようだった。


 サヤは、今まで自分がどこにいたのかを語った。

 薄暗く、長い長い道。それは真っ直ぐではなくて、曲がりくねったり上ったり下ったりする道。途中、お地蔵さんのようなものがあって、それが道標になっている。六つ目のお地蔵さんを越えた先にゆかねばならないということがなぜか分かっていて、ひたすら歩く。だけど、ちょうど四つ目のところで疲れてしまって、つい振り返った。そうすると、ひどく怠惰な暮らしをしながら毎日泣いてばかりいる俺の見る影もない姿が見えた。

 急いで戻らなければと思い、駆け足で長い長い道を戻る。一つ目のお地蔵さんまで戻ったところで、そもそもどうやってこの道に来たのか分からず、長い時間困り果てていた。

 どれくらい、というのは分からない。着けている腕時計は止まってしまっていて、その道のある場所は昼も夜もない。だから、どれくらいの時間そうしていたのか、全く分からない。

 とにかくすごく長い時間そうしていて、あるとき急に雨が降ってきて、雨宿りができる場所を探すうち、バス停があるのを見つけた。ちょうどバスが来たので一も二もなく飛び乗り、気付けばこの部屋にいた。


「そんな馬鹿なことが」

 信じられなくても、サヤは実際目の前にいる。いや、もしかすると全部幻で、俺がどうかしてしまったのかもしれない。

 サヤは、死んだんだ。間違いなく、死んだ。これが夢でも幻覚でもなく、俺の頭もまだ平衡を保っているのなら、サヤは、

「幽霊──なのか?」

 ということになる。

「たぶん。死んだ自覚はないけど、わたしは、幽霊なんだろうと思う」

 でなければ、こうしてこの部屋でまた耕太郎と話せるわけがない。そう言って目を糸くずみたいにして笑った。

「幽霊でもゾンビでも、何でもいい。会いたかった。毎日、どれだけサヤのことを考えたか」

 そう言って、手を握ろうとする。サヤはやはり悲しげに笑い、自分の手が俺に触れないように引っ込めた。

「会いたい。手を握りたい。抱きしめたいしキスもしたい。エッチもたくさん。そう思ってくれるのは、嬉しい。とても。でも、こうして一緒に過ごすだけじゃ、駄目?」

 サヤがこんなことを言うのは珍しい。どちらかといえば、サヤの方から抱きついてきたり、キスをねだってきたりしてきた。だから、触れてはいけないということに何か特別な理由があるのだろうと思い、俺は洟を垂らしながら笑って頷いた。そうしなければ、サヤが困ってしまうと思ったからだ。


「俺な、どうにかしてサヤに会いたくて、神社にまで行ったんだ。絵馬に書いた願いが叶うって評判の神社でさ」

 沈黙が来るのが嫌で、とりあえずその話題を持ち出した。出会った日の俺たちを見、付き合った日の俺たちを見、その同じ雨の中バスに乗り、帰ったらサヤがいた。これは、あの神社の神様の力としか言いようがない。俺は興奮気味に、ひたすら話した。

「結婚式の日のことは?」

 サヤがテレビの横の写真に眼をやる。その中の俺たちは、気持ちいいくらい晴れた陽射しの下で笑っていた。

「結婚式の日のことは、見なかったな。もう一回、結婚式も見たかったけど」

「そうね。耕太郎がケーキを喉に詰まらせて大惨事になりかけた結婚式ね」

「おいおい、やめろよ。いつまでその話をネタにするんだ」

「死ぬまでよ。あ、もう死んでるか」

 笑った。声を出して笑うのは、サヤが死んでから初めてだった。涙は、腐るほど流した。

 やっぱり、サヤがいないと。

 サヤがいないと、笑えない。

「サヤ」

 俺は、居住まいを正した。

「戻ってきてくれて、ありがとう」

「うん。戻ってきたよ」

「おかえり」

「──ただいま」

 そのあと、二人、取り留めもない話をした。一年分溜まっていたわけだから、話題は尽きない。サヤは自分が死んでから一年が経っていることに驚いたようだが、それほどの期間俺を悲しませたことを何度も謝った。

 その中で、あの藤代神社にお礼参りをしようという話になった。サヤもまた死んだはずの自分がここにいるということについて実感がないようだったが、絵馬やお守りがきっかけになったのならお礼参りにゆきたいと言い出したのだ。


 藤代神社には明日行くことにし、今日はひたすらこの奇跡を喜び合った。何か食べるかと言っても、幽霊のサヤは何もいらないと言う。どうも、死んでから喉も渇かないしお腹も空かないらしい。

 とりあえず俺はまたお湯を沸かしてカップ麺。

「うわ、そんなの食べてる。不健康」

 サヤが冷やかすような声を上げる。

「仕方ないじゃないか。とても自炊どころじゃなかったんだ」

「仕事はどうしたの?」

「――してない。依頼も受ける気になれなくて」

 サヤは、そう、とまた悲しげな顔をした。自分がいなくなってしまって変わり果てた俺を見て、やはりこういう顔をさせてしまったと思った。


 夜も、サヤは一緒には眠ってくれなかった。幽霊だから、眠くならないのだと言う。こうしてるから眠って、と二人で使うために買ったはずのベッドの脇に椅子を持ってきて腰掛け、読書を始めた。

 戻ってきてくれたのは嬉しいけれど、やはり触れられないのは寂しい。現金なもので、もう残念な気持ちが顔を出しはじめている。

 しかし人間の本能である眠気に勝てるはずもなく、サヤが戻ってきた安堵と喜びも相まって凄まじい勢いのそれに押し流され、翌朝。

 俺はちゃんと髭を剃り、髪にもワックスを付けて歯を磨き、サヤが選んでくれたシャツとちょっといいジーンズとブーツを穿き、サヤと共にバスを乗り継ぎ、鳥居前に。また一の鳥居をくぐり、くたびれた商店街をゆく。サヤは、最後のデートのときに着ていた服を選んだ。

「こんなところに、こんな商店街。知らなかった」

「そうだろ。俺も、一昨日はじめて来てびっくりした。なんだか、時間が止まってるみたいだ」

 最近は雑誌やネットの影響か、藤代神社を目当てに訪れる若者が多いらしい。商店街は俺たちの他にちらほらと見受けられるそれらに向けた施策をしてどうにか活性化を図ろうとかそういう気もないらしく、八百屋や荒物屋、クリーニング屋や肉屋なんかがただ並んでいる。

「あ、美味しそうなコロッケ」

「ほんとだ。食べる?あ、食べられないのか」

「わたしの代わりに、食べていいよ」

 そう言って肉屋を覗き込む俺たちに、店主が話しかけてくる。

「おや、お姉さん、ダイエット中か?うちのコロッケは芋にもこだわってるんだ。一口かじれば、罪の意識も吹っ飛ぶよ」

「ほんと、美味しそうですね。でもごめんなさい、お腹、空いてなくて」

「なんだよ。じゃあ、一つサービスしてやるからさ。彼氏と二人で食べてくれよ」

 そこまで言われると断るわけにはいかない。俺は五十円というこの令和の時代には考えられない価格のコロッケを買い、それを二つ頬張ることになった。

「ほんとだ、美味い。サヤも食べられたらよかったのに。ごめんな、俺だけ」

「ううん、耕太郎、美味しいもの食べてるときほんとに幸せそうな顔するから。わたしまでお腹いっぱいになる気がする」

「そう?でも、やっぱり悪いな」

「いいのいいの、さ、行こう」

 歩きながら食べるというのも行儀が悪い。一人ならともかく、サヤはわりあいそういうことを気にするから、どこか腰を落ち着けられるところでもないかと見回していると、後ろで聞き覚えのある声がする。

「すいません、コロッケふたつくださいな」

 はっとして振り返る。

 あの巫女だ。こちらに気付き、にっこり笑って会釈をする。

 誰?というサヤのつららのような視線に冷や汗をかきながら、あれが神社の巫女だということを早口で説明する。サヤの目がようやくいつもの色に戻るころ、巫女はコロッケを受け取り、近付いてきた。

「今日も、お詣りですか」

「ええ。願いが叶ったんです。その、どう言えばいいのか」

 いくらあの神社の巫女でも、死んだ人間が幽霊になって戻ってくるなんていう話を信じるはずがない。だからサヤをどう紹介すればいいのか迷って口をもごもごさせていると、巫女はサヤを見てうっすらと笑んだ。

「そうですか。あなたが、サヤさん」

 どうして分かったのか。なぜか、巫女はサヤが既に死んでしまっていることを見抜いているかのようなことを言っていた。そのはずなのに、今こうして一緒に歩いている人間を見て、どうしてそれがサヤだと思うのか。

 やはり、何だか怖いような気がして、背中が冷たくなった。


「あなたの渇きは、癒えましたか」

「渇くとかどうとか、よく分からないんですけど」

「あるはずのものを失う。それは、夜に開いた穴を月と呼ぶようなもの。一面の夜にいきなり穴が開けばそれは驚き、戸惑うでしょうが、それが月だと知ればそういうものかと受け入れるようになる。あるいは月ではなく穴だと思いながら、あるべき姿を思い返して生きるか」

「ちょっと待って、一体何の話ですか」

 巫女はとても可愛らしく、どう見ても大学生くらいの歳にしか見えないのに、なぜか異様な迫力がある。威圧感と言ってもいい。穴だとか月だとか言えば普通ならアニメに感化されすぎだと笑ってしまうところだが、この巫女が言えば意味が分からなくてもなぜか深く耳を澄まし、心を傾けなければならないような気がして、脳が燃えそうになる。

「これ以上を、求めぬことです。求めるべきでないことを求め、開くべきでない扉を開けば」

「開けば?」

「――いいんですか」

 巫女の視線が、ふと逸れた。俺は、苛立った。

「開けば、どうなるんですか。勿体付けないでくれ」

「いえ、そうではなくて。サヤさんが」

 巫女の視線を追って振り返ると、サヤがいない。

「サヤ?」

「バス停の方に、駆けて行かれましたよ」

 なんで、急に。巫女と親しげに話しているから、怒ったのだろうか。こうなると、後が面倒になる。急いで追いかけ、弁解しなければならない。俺はブーツを鳴らし、バス停へ急いだ。


 俺たちが降りたバス停に、サヤはいた。息を切らしながら名前を呼ぶと、サヤは涙をいっぱいに溜めて振り返った。

「バスに、乗らなくちゃ」

「帰るの?お詣りは?」

「もう、バスが来る」

 俺たちの家の方面に向かうバスがやって来るのが、確かに見えている。やはり、怒っているのだ。そう思い、とりあえずバスに乗り、まずあの巫女とは一昨日会ったばかりで、なぜかサヤが死んでしまっていることを知っていて、というようなことを説明しようとした。

「さ、乗ろう」

 到着したバスに乗り、まず腰を落ち着けてから、話をする。家に帰るまでにサヤを納得させらるかが勝負だ。帰ってから持ち込めば、長期戦になる。これまでの俺の経験が、そう告げていた。

 しかし、サヤは涙目のまま、宙を見て言った。

「このバスじゃない」

 このバス停は、俺たちの家の方に向かうか、その逆かのどちらかしかバスは来ず、それ以外の路線はない。だから、このバスじゃないはずがない。

「わたしが乗らないといけないのは、このバスじゃない」

 俺たちが乗車しないと判断し、停まっているバスが扉を閉めて発車する。

 そのあと、別のバスが来た。行き先は、「比良坂」とある。聞いたことのない地名だ。そもそも俺たちが乗ってきたバスの終着点は不動堂というバス停で、比良坂なんていうところに向かう路線なんてない。

 車両も、見たことがない種類のものだった。昭和を再現した映画か何かに出てきそうな、古いデザインのもので、エンジン音もうるさい。それが停車して扉を開くと、サヤが誘われるようにして乗り込もうとする。

 本能。これが、そうなんだろう。

「行くな」

 と、俺は思わずサヤの手を引き、乗車を止めた。何か恐ろしいことが起きそうで、絶対に乗せてはならないと思ったからだ。


 サヤの手は、思わず声を上げてしまいそうなほど冷たかった。俺の体温がそれに少しずつ伝わっていくが、サヤの手に温度が移るほど、俺の手は冷えていった。

「触れてしまったのね」

 バスに乗り込もうとした姿勢のまま、サヤが呟く。

「触れたら駄目って言ったのに」

 そのまま、肩を震わせた。泣いている。

 バスは、行ってしまった。その姿が見えなくなるとなぜかほっとして、俺はようやくサヤの手を放した。

「どうして、触れてしまったの」

「どうして、って。夫婦じゃないか」

「駄目って言ったのに」

「なあ、サヤ。触れたら、どうなるって言うんだよ。なんで、そんなに嫌がるんだ」

 サヤは肩を震わせたまま、答えない。

「それは、わたしからお話ししましょう」

 あるはずのなかった気配と声がいきなり現れて、俺は飛び上がりそうになるのを辛うじてこらえた。つとめて平静を装って振り返ると、あの巫女がすぐ後ろに立っていた。

 風。

 どこからか、水の匂いを運んでいる。

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