止まった時計
洗濯機が止まり、世界は無音になった。時折窓の外を通り過ぎるエンジンの音が、かえってそれを際立たせる。
視界には、お守り。
あれは、何だったんだろう。
正直、雑誌の記事なんて信じていない。絵馬に書いてお守りを受け取ったくらいで願いが叶うなら、世の中の全ての人が大金持ちになっているだろう。
しかし、気のせいと言うにしては、あの日の雨は、あの日の二人は立体的で、生々しかった。
あの頃はフリーターをしながらどうにか音楽で身を立てようとして、今みたいなサウンドクリエーターじゃなく、バンドの方に打ち込んでた。だけど静岡の親の反対を押し切って飛び出してきて生活のことを頼らずにいたもんだから、バイトが大変すぎて結局バンド活動にも十分な時間をかけられず、中途半端な時期だった。
そういう境遇に引け目を感じていた頃だから、サヤの前ではつい背伸びをしてしまったんだろう。
サヤは、俺のライブを何度か見に来てくれるようになった。ライブなんていうのはサヤにとって初めての体験で、はじめは音の大きさに驚いていたみたいだったけど、そのうち気にならなくなったようだった。
「すごい才能。あなたの音楽が聴けて、嬉しい」
あるとき、ライブが終わったあと、そう言って笑った。相変わらず、好みでもなんでもない笑顔だった。
ライブとかは関係なく、バイトの合間を縫って出かけたりするようになった。適当な格好をしたまま会っていたから、サヤは俺と一緒に歩くのが恥ずかしかっただろう。
少しずつ、少しずつ。
サヤを知って、俺も変わった。
サヤは、俺には必ず才能があるとしきりに言った。音楽のことなんか何も分からないけれど、あなたの音楽を聴いて少なくともわたしは感動したと。
俺がそれで飯を食いたがっている──というより、それ以外に何もないことを見かねたのだろうか──から、色んなオーディションや音楽がらみの就職についての情報を調べてきてくれたりもした。
正直、いつまでもバンドだけでやって行ける気がしなくなっていったから、俺も積極的にあちこちに応募したりするようになった。
どうやって付き合ったんだっけ、なんて思い出すまでもない。知り合った翌年のクリスマスイブだった。
今日見たあの日の雨みたいに、もう一度その日に行けるなら。
いつの間にかオレンジになって浮かぶ部屋の中、同じ色をした写真の中のサヤに向かって少しだけ笑いかけ、カップ麺を調理するため湯を沸かす。
行ってどうするのか、見当もつかない。俺はあの日の雨の中にいながらそれに打たれることはなかったように、きっとあのクリスマスイブに行っても何もできやしない。
共にあるべきものはとっくに腹の中に過ぎ去っているくせに口の中に居座るラーメンのネギを感じながら、見もしないテレビが眠りに連れて行ってくれるのを待った。
こんな暮らしでも、インターネットくらいは見る。朝起きてすぐに調べたのは、藤代神社のこと。なんだかよく分からないが水の神様が祀られていて、結構古いらしい。
水は、鏡にもなる。あの巫女の言葉が蘇る。
昨日目にしたのは、俺の心の中にあるあの日の俺たちが鏡になって映ったもの。そんな馬鹿なことがあるわけはないが、そう思うと妙な信憑性があるように思える。きっと、都市伝説の類なんていうのはこういう風にして生まれるんだろう。
藤代神社についての記事がまとめられているサイトを見つけ、その中に入ってゆく。
あまり、いい記事はなかった。オカルト系の人気ライターがこの神社のことを調べはじめてしばらくして自殺したとか、この神社がきっかけで意中の人と結ばれることになったが、その代わりに顔に一生消えない傷が残ったとか、ありがちな記事だった。
なにか、求めれば相応の代償を支払わなければならないような、そんな印象を受けた。だとすれば、俺がサヤにもう一度会いたいと願ったことが叶うとして、一体何を代償に取られるんだろう。
何を代償に取られても、構わない。気付いたとき、俺は服を着替え、バスに乗っていた。お守りを、握り締めながら。
バスの中の連中はほんとうに生きているのかと思うほど静まり返っていて、みんなスマホの画面か窓の外かを虚ろな目で見つめていた。運転手も、自動音声みたいに停留所の名前を言うだけで、ほんとうにハンドルを握っているのかどうかも怪しいと思えるほどだった。
別に、バスの中の連中が変なんじゃない。俺が、そう感じているんだ。
鳥居前というバス停を降りると、その名前のまま大きな鳥居があって、そこから商店街が続いている。インターネットの記事には、これが一の鳥居で、この向こうは時間の流れが歪んでいるというようなものもあった。
そして、二の鳥居。昨日息を切らせたあの石段が、その向こうに続いている。
俺にしては早い時間である。それだけ、気が急いているんだろうか。
一段、一段と踏みしめるように上る。
そして上りきったとき、あの巫女はいた。
「おはようございます」
竹箒を止め、にっこりと笑って会釈をする。どうしてか、すごく怖いような気がして、やっぱりちょっと後ずさりをする。
「今朝も、お詣りですか」
「ええ、まあ」
曖昧に返事をするが、お詣りに来たわけではない。昨日の続きを、見にきたのだ。どうすればそれが見られるのか分からないが、ここに来ないことには始まらないと思ったんだ。
「また、鏡を覗きに来られたのですね」
巫女は、俺の頭の中を見透かしたようなことを言う。なぜか、ちょっと悲しげに笑っていた。
「昨日、俺はここで幻を見た。幻なのかどうかは分からないけど、確かにサヤと俺がいた」
巫女は少し俯き、また眼を上げると、本殿の方を掌で指した。俺は砂利を鳴らして駆け、乱暴に拍手を打って手を合わせ、心の中で念じる。
――サヤに、会いたい。もう一度。俺たちの始まりの、雨の中へ。
ぽつり、ぽつり、と雨が砂利を濡らす。そしてまた、あの匂い。
その雨は少しずつ強くなってゆき、世界の色を淡くしてゆく。
「折角のクリスマスなのに、降ってきちゃったね」
「ホワイトクリスマスってわけにはいかないか」
「クリスマスに買うものが、ビニール傘なんて」
楽しげな、男女の声。弾かれるように振り返ると、そこには俺たちがいた。
昨日見た雨の日と同じ、二つ並んだ新しいビニール傘。
俺には、これがいつのことなのか、すぐ分かった。
出会ってから一年以上が経っているけど、俺たちは付き合ったりはせずいわゆる友達以上恋人未満というような間柄でいた。食事にもカラオケにも行くけど、手を繋いだりはしない。だから、ビニール傘も二つ。
この日までは、そうだったんだ。
「お腹もいっぱいだし、たくさん遊んだし、すごく満足」
「そうかよ。バイト休んだ甲斐があった」
「ほんと、どこ行っても学生さんばっかりだったね。しかも、みんなカップル」
そのときサヤがちょっと頬を膨らませたのが栗鼠みたいで、それをすごく可愛いと思った。
「まあ、学生さんにとっちゃ冬休みってのは天国だろうからな。そのぶん、俺たちフリーターはしっかり稼がせてもらってるのさ」
「すごいなあ。やっぱり」
「まあな。そうしなきゃ暮らしていけないし、バンドもお金がかかるからな」
まだ、俺は背伸びをしている。大学生が冬休みに遊んでいられるのは受験という関門をクリアするための努力を高校時代にしたからであって、決して怠けてそうしているわけではないと分かっている。むしろ、自分の方が受験が面倒に感じて、音楽をするというのを理由にして逃げたような気がしていた。
サヤが無邪気に俺を褒め称えるほど俺は居辛くなり、どうにかして水面から首を出して息をしようと、また背伸びをするのだった。
「よし。もう時間も遅いし、帰る?駅まで送ってくよ」
「うん」
サヤが少し顔を曇らせたのに、俺は気付かないふりをした。どうしてその顔をするのか分かっていたし、俺も同じ気持ちだったからだ。
ビニール傘は並んで歩き、駅に着いた。そしてそれらは向かい合い、駅からの逆光で影になる俺たちの姿が見えた。
「耕太郎くん」
「ん」
「今日、渡そうと思ってて、なかなか渡せなくて」
「え、何」
こうして見ると、我ながら見え透いたことを、と歯の奥が痒くなる。サヤは、プレゼントを用意していたんだ。それをいつ渡そうかいつ渡そうかと思ううち、クリスマスデートは終わってしまった。
だから仕方なく、ここで。勇気を出して。それを、俺はまるで気付かないようなふりをして、とことん意気地がなくてずるい男だと思う。
「うそ。まじで、俺に?」
白々しく驚く俺が受け取ったのは、綺麗なスエードみたいな箱に入った腕時計。シンプルな文字盤だけど大きすぎず小さすぎずで、一目見てとても気に入った。
傘を首と肩の隙間に挟み、早速腕に付けてみる俺。すごく嬉しそうにしている。それを見て、はじめてサヤは強張っていた顔を緩め、いつものくしゃくしゃの笑顔に戻った。
「気に入らなかったらどうしようと思って。よかった」
「気に入らないわけないじゃないか。すごく嬉しい」
俺は、後悔していた。プレゼントなんて何にも用意していなかったし、この前の月に新しいギターを買ってしまったからそんな金もなかった。
「すごく高かったんじゃない。大丈夫だった?」
「わわ、値段のことは聞かないで」
高かったという意味なのか安物だという意味なのか、そのときは分からなかった。あとになってこっそり調べて、三万円もする時計だと知った。バイトもしていない大学生が出すには、大金すぎるだろう。
「じゃあ、これで」
サヤは気恥ずかしそうに、駅の中に足を向けた。
「なあ、サヤ」
離れかけたビニール傘が、止まる。
「ごめん。俺、何にも用意してなくて」
ぱっと振り返り、笑うサヤ。
「ううん。わたしが、勝手に用意したんだから。気にしないで。喜んでくれて、よかった」
「今年は」
ん?という具合に、サヤが小首を傾げる。
「今年は、何も用意できなかった。だけど、来年からは――」
頑張れ、俺。叫んだところで聴こえるはずもないが、思わず俺は叫んでしまっていた。
「来年からは、毎年、一緒にクリスマスを祝おう」
サヤが、固まる。俺の言ったことの意味を、頭の中で紐解いているらしい。
「駄目かな」
サヤは呆けたみたいにしていた顔をものすごく意地悪なものに変え、
「どうしようかなあ」
と笑った。そのあとすぐ、
「嘘。嬉しい」
と言って、俺との距離を縮めた。ビニール傘が触れ合うと自分の握るそれを手放し、俺の傘の中に入ってきた。そして背伸びをし、キスをした。
これが、俺たちのファーストキス。冷たい雨の中だから、サヤの唇を余計に暖かいと思ったのを覚えている。
アスファルトの上にひっくり返って雨に打たれる傘。キスをする俺たちを横目で見ながら通り過ぎる人々。線路を叩く電車の音。
サヤは唇を離すと、真っ赤になった顔をマフラーに埋めた。
「じゃあ、家に着いたら連絡するね」
「わかった」
今も、この腕であのときの時計は時間を刻んでいる。
「むかしを顧みるのにその時計を見ても、その時計はあなたの時間が進んでゆくのを知らせるのみ、ですか」
巫女の声で、はっとした。やはり、ここは六年前のクリスマスイブではなく、夏が来そうな小高い丘。時計に眼を落とすと、九時五十分。巫女が言うとおり、秒針が一つ動くたび、止まってしまったサヤを俺が置いていってしまうような気がする。
「会いたいといくら思っても、この時計の針を逆回しにしても、会えるわけない」
「人は亡くなると、黄泉の国にゆくと言います」
いきなり何の話だ、と思った。それに、この巫女にはサヤが死んだとは言っていないはずだ。やはり、ちょっと怖いように思えて、背中が冷たくなった、
「そこに至る道は
「何が、言いたい」
ポケットの中が、カイロでも入れているみたいに熱い。
お守りだ。
「会いたい。強く願い、会えるとしたら、会いますか?」
後ずさり。砂利が鳴るのにも、背骨がびくりと縮む。
「あなたは、願っている」
会いたいと。たしかに、願っている。
「あなたの渇きを、癒しましょう」
真っ青に晴れている空から、雨。これは、ほんとうの雨だ。それが、世界を瞬く間に包んでゆく。丘の向こうは雨は降っていないのか、ビルの群れが遠くに霞んでいて、虹が見える。濃い緑の葉が濡れるのも、玉砂利が濡れて黒くなるのも、とても美しいはずなのに、どうしてかすごく恐ろしく、あり得ぬことが起きているような気がした。
逃げ出すようにして石段を駆け下り、ずぶ濡れのままバスに飛び乗る。乗客はちらりとこちらを見ただけで、あとはまた無機物のように手元に視線を落とす。
バスは、俺を運んだ。俺の知らない世界へ。
いや、俺が知り、唯一のものだと思った世界へ。
サヤが死んでから今までの俺がいた世界の方が、間違っている。そう思える世界へ。
アパートの鍵を開け、まずタオルを求め、洗面所へ。
あるはずのところにそれはなく、洗濯機の中かと思って洗ったまま干しもしていない洗濯物をまさぐる。そのとき、腕にしていた時計が、九時五十分のまま止まってしまっていることに気付いた。雨に濡れたくらいで壊れるはずはない。妙だなと思ったが、とりあえず洗濯機の中でタオルを探訪する。
「あなたの探し物は、こちらですね」
半分洗濯機の中に頭を突っ込んだ俺の視界の端に差し出されるタオル。
いつものやり取りだ。こういうとき、俺は必ずこう返してやる。
「おお、さすがは、名探偵さん」
あまりに自然なことで、あまりに自然に応対した。そして振り返るのも、俺にとってはあまりに自然なことだった。
俺は、言葉を失った。
「おかえり。ずぶ濡れじゃない」
サヤが、目の前で笑っていた。
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