水の鏡
「君、学生さん?」
「ええ。宝甲大学です」
「まじで。めちゃくちゃ賢いとこじゃん」
「あなたは?」
「俺?ただのフリーター」
俺は、まるで学校に通っていないことが誇りでもあるかのように堂々と言った。ほんとうは、一流大学の名前を出されてそれを引け目に思ったからだ。
「大学で、どんな勉強してるの?」
「生き物のことを、色々」
「へえ。生き物が好きなんだ」
子供みたいなことを言う。あのときは夢中で話を合わせようと必死だったけど、こうしてあの雨の中の俺を見ていると、なんだかとても馬鹿らしい。サヤはドン引きだろうか。
「あなた、名前は?」
そういえば、サヤの方から俺の名を訊ねてきたんだった。今見ると、サヤの視線はすでにちょっと熱っぽくなっている。お互い、一目惚れだったのかもしれない。
「俺は、
「
「いいね、ナルセサヤ。ヨーロッパかどっかの音楽家みたいだ」
「音楽が、好きなの?」
「うん、ちょっとね」
「音楽家だなんて、はじめて言われた」
地味なサヤが、眼鏡の奥の目をくしゃくしゃにして笑う。
「俺は、『欲しいな、買うたろう』さ。覚えやすいだろ」
そうだった。サヤと出会うまで、女の子っていうのはもっとおしとやかに笑うもんだと思っていた。こんな風に奥歯が見えるまで口を開いて笑うなんて、ちょっと驚いたもんだ。
そう思ったら、急にサヤのことが可愛く思えたのを覚えてる。ほら、ビニール傘の下の俺も、急に照れちゃってさ。
「なにか、アルバイトしてるの?」
「色々。コンビニとファミレスがメインで、引っ越し屋のヘルプとか色々」
「すごい。掛け持ち?」
「そうさ。週六さ」
「へえ、すごい。わたしなんて、バイトしたことないのに」
「まあ、フリーターって言うとなんか微妙な感じするけど、みんなが大学で勉強してる時間も働いて稼げるから」
サヤが何か言う度に、俺は自分のことばかりを話していた。正直、空回りっていうのはこういうのを言うんだろう。もっとサヤのことを訊いてやればいいものを、ずっと下らない自分の話ばっかりぺらぺらと喋り続けてる。
思えば、それはこのときだけじゃない。付き合ってからも結婚してからも、俺はいつも自分のことばかり。サヤはいつもそれを楽しそうに聞いていたけれど、退屈じゃなかっただろうか。
サヤがたまに理系の知識を披露して冗談混じりに得意顔をするときも、もっと喜んでやればよかった。
もっと、サヤのことを聞いてやればよかった。
俺は、サヤの何を知っていたんだろう。サヤは、俺の全てを知ってくれていたのに。
ビニール傘が二つ並ぶ雨と、それが濡らすアスファルト。俺たちのはじまりはその先にもずっと続いていたはずなのに。
あの日の俺たちは、さまざまな話をしながら同じ雨を踏んだ。たいした内容じゃない。サヤが、昨日隣の家で飼っている猫がリビングに乱入してきて大変だったと言いながら左腕に走った引っ掻き傷を見せてきたり、俺が自分のバンドのライブのスケジュールを教えたりする程度だった。
駅に着いた。どうして着いちゃうんだよ、と思ったっけ。今思い返すと、ひどく恥ずかしい。
ビニール傘が畳まれ、二人の姿が改札の前に。流れてゆく人から取り残されたみたいにして、何も言わずに立っていた。
「ねえ」
同時に、声を発した。
「あ、どうぞ」
「いえいえ、そちらこそ」
大御所の芸人みたいなやり取りを繰り返したあと、俺たちは連絡先を交換した。
「ありがとう。じゃあ、俺、バイトだから」
「電車に乗るんじゃなかったの?」
「いや、乗らない。今からファミレスのバイトなんだ」
「じゃあ、なんで駅まで」
サヤと話したかったからに決まってる。偶然のこの出会いに、俺は何かとてつもないものを感じていたんだ。
正直、全然タイプじゃなかった。当時俺はモデル出身のある女優のファンで、ツンとしたオーラと長い足が綺麗で出演するドラマなんかは必ずチェックしていたけれど、サヤは正直それとは正反対のタイプだった。髪型は全然今風じゃないし、あえてでも何でもないただの黒。背は低いし眼鏡だし、そりゃブスじゃあないけど、あんまりパッとしなかった。
だけど、俺はサヤにたまたま出会い、どうしてかちょっとでも長く話さなきゃならないような気がして、いや、ちょっとでもたくさん話したいと思って、わざわざファミレスとは反対の駅の方まで一緒に歩いたんだ。
連絡先を交換して、改札の向こうで手を振るサヤに手を振り返し、それが見えなくなったあと、俺がガッツポーズをする。
そして花火みたいにビニール傘を開いて、また雨の中へ。
駅に来たときとは比べ物にならないくらい速く、高く、水飛沫を蹴り上げて。
このあと、バイトに遅刻して店長にめちゃくちゃ怒られたっけ。
心と心が、擦れ合うような。
いや、玉砂利が鳴った音。
「笑っておられるのですね」
サヤとは違う、女の声。はっとして意識を引き寄せると、俺はまだ藤代神社の境内にいた。
さっきの巫女が、目を細めて笑っている。
「とてもよい思い出に浸るときのような笑顔ですね」
「今のは――」
幻覚。いや、確かに、この玉砂利の境内の向こうに、あの日の雨が降っていたはずだ。それなのに空は晴れ、今にも蝉が鳴き出しそうな色になって小高い丘から見下ろす街を包んでいる。
巫女は何のことか分からぬと言うような具合に小首を傾げ、懐から小袋を差し出した。
「水とは、鏡にもなるもの。あなたの心が、映されたのやもしれませんね」
何のことかよく分からないし、オカルトは苦手だ。なんだか背筋が寒くなってきたような気がして、俺はちょっと後ずさりをした。
「よいお詣りに、なりますように」
差し出されたまま行き場を失っている小袋を、流されるようにして受け取った。
「お守り?」
雑誌には、お守りを受け取ると願いが叶うというようなことが書かれていた。同時に、あまり良くない記事も。
雑誌の記事曰く、お守りを受け取れば、願いは必ず叶う。しかし、相応の代償を取られる。たとえば、ある女性が想いを寄せる男性に振り向いてほしいと願いをかけた。すると、その女性はその男性の目の前で足を滑らせ、階段から転落し、顔に一生消えぬ傷を負った。そのことに責任を感じた男性が付き添ううち、二人にはめでたく恋が芽生えたというような。
あるいは、ナンバーワンになりたいと願ったホストが、その座を手に入れる代わりに息をつく暇もないほど忙しくなり、親と和解せぬままその死に立ち合えなかったというような。
そういうような話が、面白おかしく飾り立てられていた。
たしか、記事の締めくくりは、オカルト好きにはたまらないような内容だった。
有名なオカルトライターの男がこの神社をしつこく取材し、そして真相に迫らんとしたまさにそのとき、何を思ったか自ら死を選んだという恐ろしい内容だ。
「また、おいで下さい。あなたの心を映す鏡が、またあらわれるやもしれません」
そういう記事を見た後で、このお守りを受け取るのは勇気がいる。
それ以前に、幻覚なんか見たって、俺の願いを叶えたことになんてならない。
幻覚とか幻聴とか、そんなの、間に合ってる。今でもときどき、部屋のどこかからサヤの声がしたような気がして夜中に目が覚めることがある。朝になると、納期は大丈夫なの、と揺り起こされたような気がして飛び起きることがある。風呂に入っているとき、シャワーの音に紛れて。テレビの音に掻き消される、窓の外の声にも。コンビニの店員の後ろ姿に。ショーウィンドウに映る自分の隣に。雑踏の中にある、その一つの声の中に。あらゆるところにサヤがいるような気がして、いや、あらゆるところにサヤを探してしまっていて、その度にサヤはやっぱりいないんだということが痛いほど分かって、辛い。
だから、あの日の俺たちを今さら見たって、どうしようもない。
俺が見たいのは、あの日で止まってしまったサヤと俺の、そのゆくさきのことなんだから。
「水鏡の、静けき心のあらわれて、訪ね彷徨う
和歌のリズム。それは分かるが、何を言っているのかは分からない。
「表れて、と、洗われて、が掛かっているんです。分かります?」
頭に血が上るというのは、こういうことを言うんだろう。完全に、馬鹿にしていやがる。そう思い、なお差し出してくるお守りを引ったくり、砂利を蹴飛ばして石段を駆け下りた。
鳥居をくぐり、バス停が見えたところで、握ったままのお守りをアスファルトに叩きつけようとして腕を振り上げ、自分でも馬鹿なことをしていると思い直し、ポケットにねじ込んだ。迷信に決まっている。俺の願いを、叶えられるはずなんてない。お祈りをしたくらいで叶うなら、どうしてサヤは死んだんだ。
あと十分で来るはずのバスは俺を苛立たせるだけ苛立たせ、結局十七分してから俺を迎えに来て、別にサヤのいるところに連れていってくれるわけでもなく淡々と、その他大勢と同じようにして俺を運び、家まで歩いて帰れるところで降ろした。
とりあえず借り暮らしだから、二年はここに住もう。そう言って二人で借りた1LDKのアパート。そこに帰って、意味もなくテレビをつける。
新しい元号が、発表されたらしい。官房長官だか誰かが、「令和」と墨で書かれたパネルを発表前にチラ見せしてしまっていて、締まりがなかった。
世の中は、お祝いムードで一杯だ。
なにが、令和だ。
元号まで、サヤを置いていくつもりか。
もし、サヤが俺の手のとどかない遠い遠いところで俺を待っているとしたら。
もし、そこに行くことができるとしたら。
俺は何だってする。悪魔に魂をくれてやるのは怖いけど、それでサヤに会えるなら多分大丈夫だ。
会ってどうするかなんて、分からない。
ただ、言いたいことが、聞きたいことが、山ほどあるんだ。
脱ぎ捨てたジーパンが臭ってきているような気がして、忌々しいテレビを消して洗濯でもしようと手に取る。
ポケットから、お守り。まるで俺の前にわざとその姿を見せつけるように、転がった。
なんとなく拾い上げ、洗濯機にジーパンをぶち込み、それが右に左に回るのを待つ間。なんとなく握り締めていた。
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