第一章 奇跡
あの日の二人
部屋はカップ麺の空き容器だらけ。ときどき、コンビニのスパゲティの容器も混じってる。服は臭くなるまで同じものを着て、いつものコンビニのお姉さんが険しい顔でレジに立つようになったら洗濯機にぶち込む。何日か部屋の中にぶら下げたままにして、気が向いたらパリパリに乾いたそれを着る。
パソコンの電源は、何日入れていないだろう。仕事をしようなんて気には、とてもなれない。サヤがまだ生きていた頃に思いもかけず大きな仕事が入ったから、まだ貯金はある。二人で入ったサヤの生命保険金もある。まさか俺がそれを受け取ることがあるなんて、と思った。
貯金が無くなれば、どうしたらいいんだろう。
それを考えることが、なにかとても恐ろしいことであるような気がして、俺の思考はいつもそこで途切れてしまう。そして気付けば、また朝になっている。
起きている時間はもちろん、眠りさえも、無駄に消費している。そして、それについて何かを思うこともない。そういう状態だった。
眠りというのは、不思議なものだ。夢を見るときなんかは、特にそうだと思う。今まで何度夢を見たかは分からないけれど、いい夢でも悪い夢でも、決まって思う通りにならない。ときには、体を動かすことすら困難であることもあり、世の中の人が言うほど、夢っていうのは良いものじゃないと俺は思っている。
サヤがいなくなってからは、だいたいサヤの夢。出会ったときのこと。お葬式の日のこと。なんでもない、日常を切り取ったようなもの。そのどれにおいても、俺はろくに満足な振る舞いができず、歯痒い思いをする。
いや、それは、なにも夢に限ったことじゃない。起きている間も、だいたいそうだった。俺は、とことん駄目な奴だと思う。
サヤがいない世界になんてしがみついていても仕方がないと思うけれど、サヤがいなくても腹は減る。そのうち脱水症状を起こして死んでしまうんじゃないかと思うほど泣いてるけれど、コーラとビールは欠かせない。
浅ましいとも思わない。ただ同じ日を繰り返すように毎日を過ごしているだけなんだから。昨日と今日が違う日だって分かる唯一のことは、鏡に映る俺のやつれた顔にへばり付いている髭が、俺のことなんてお構いなしに伸びていくことだ。
今日は、寒い。今日は、暖かい。雨だ。雪が降った。雲ひとつない。地震があった。台風が来た。世界がどれだけ変化しようと、俺はあの日で止まったまま。
芸能人のスキャンダル。政治家の汚職。選挙。海外の経済情勢。戦争。そんなのも、古い絵本の中の物語みたいに感じる。
サヤは、美人で有名なアナウンサーに似てると言われることがあった。その人がいつも出ていた夜のニュース番組も別の人に変わって、最近はフリーになってバラエティなんかによく出てる。
時計は嫌でも時間を刻み、俺は世界から取り残されている。
そのことはもうどうしようもないけど、サヤのことはいつまでも納得できない。
せめて、会いたい。できれば、抱きしめたい。キスしたい。頭を撫でたい。
どうしても、会いたい。
その日も、飯と缶ビールを補充するため重い足を向けたコンビニで何となく立ち読みをした雑誌の記事に目を止めた。
必ず願いの叶うパワースポット。うちから、そう遠くない。よく乗るバスの路線沿いに、記事になるほどの人気スポットなあるとは知らなかった。
そこは古い神社で、お詣りをして絵馬に願いを書けば願いが叶うらしい。そして、巫女さんにお守りをもらうといいという。SNSを中心に話題になり、今では東京からも人々が集まってくるらしい。
だけど、死んだ人間に会いたいなんて言ったって、叶うはずはない。
そう思って、雑誌を棚に戻した。
そのはずなのに、コンビニから出た俺の足は、そのままバス停に向かっていた。藁にもすがるとか、そういう気持ちじゃない。暇だからとか、何となく気分転換にとか、その程度のことだ。
バスに揺られ、俺と同じように無気力な表情をした人々と同じように、窓の外を意味もなく見つめたり、なんとなく携帯が鳴ったような気がして確認してみたりする。もちろん、俺の携帯を鳴らす奴なんているはずもないから、気のせいだ。
携帯ニュースは、騒がしい。世界情勢。国内の政治。芸能人のスキャンダル。株価。異常気象。日々、それらは目まぐるしく変化していて、人々に息つく暇すら与えない。
俺は、それを見て、自分の時間が止まったまま、世の中がどんどん自分を追い越してゆくのを感じるだけ。
サヤがいないのに、世の中は動いている。サヤがいないのに、時間通りにバスは来る。サヤがいないのに、コンビニの食材は絶えず補充される。サヤがいないのに、俺は生きている。その全てが腹立たしく、悲しく、そして虚しい。
バスは、目指した鳥居前というバス停まで俺を運んだ。確かな目的をもって乗り込んだわけでもなく、ただ冬眠する蜥蜴のようにじっとして生きているのかどうかも分からないような状態でここに来たんだから、運んだと言うのが正しいだろう。
古びた大鳥居の周りには、なるほどそれを撮影してネットに掲載しようという人がちらほらと見える。
彼らが、人とのつながりを持つために、どうしてこれほど精力的に活動できるのか分からない。ネット上で投げ込まれるハートのマークの質量を過大評価しているのか、あるいはそれがひどく欠乏しているのか。どちらにしろ、今の俺よりはずっと健康的な行いだと思う。
細い道の先はくたびれた商店街だけど、半分以上はシャッターが閉まっていてもの寂しい。俺は視線を迷わせることなく、まっすぐにただ歩いた。
――藤代神社。
古ぼけた石に、擦り切れた字でそう刻まれていた。縁起書きというのか、神社の由来みたいなものが書かれた看板もあったけど、散歩程度の気持ちで立ち寄ったし特に興味があるわけでもないから見ない。
小高い丘に石段がずっと続いていて、それを見上げた瞬間に来たことを後悔した。これを昇ってまで祈りたいことなんてない。叶うなら、いくらでも祈るけれど。
運動不足というのは怖いもので、陸上部だった中学の頃の体力が前世のものみたいになっていた。石段を昇りきった頃には、息が切れてしまっている。
小高い丘になっているだけあって、風が通り抜けている。それが、じっとりと背を濡らす汗を撫でてゆくのが、唯一の救い。
遥か遠くに東京のビルの群れが、ちょうど他人を押しのけて我先にと乗り出す人のように居並んでいる。
スニーカーで砂利を鳴らし、雑誌の記事を思い出し、お詣りをする。わざわざ神様の前で願わなくったって、いつだって心の中はサヤにもう一度会いたいってことばかりだ。
それでも日本に生まれて日本で育ったから、つい深々と神様にお辞儀をし、拍手を鳴らして手を合わせ、目を閉じる動作は染み付いている。
――二礼二拍手一礼ってよく言うけど、その決まりを作ったのって伊藤博文だって知ってた?けっこう最近の風習なんだってさ。
伊勢神宮に行ったとき、サヤがそう言って雑学を披露して見せた得意げな顔が蘇った。
目を閉じた真っ黒な世界の中、そのとき吹いたのと同じ色の風が、鼻に匂った。
再び目を開くと、はじめてそうしたみたいに全てが眩しかった。
「よろしければ」
びっくりするほど近くで声がして、思わず飛び上がった。
「絵馬など、いかがですか」
大学生くらいの歳の、巫女装束の女の子だった。この神社の娘さんか、アルバイトか。けっこう可愛い子だから、着たままのダサい格好をしてきたことを後悔した。サヤがいたときは、他の女の子に視線を送っていると耳をよく引っ張られたが、それすらもないのが虚しい。
巫女に誘われるまま売店になっている古臭い建物まで砂利の音を繋げて、五百円払って絵馬を買った。渡されたマジックが背中の寒くなる音を鳴らし、文字を綴ってゆく。
――サヤに、もう一度会いたい。
「サヤさんというのは?」
若い巫女さんには、重い話だろう。ありのままを話したところでどうにもならないから、俺の前からいなくなってしまって、と適当に言い、それをぶら下げる絵馬掛けの前に急いだ。
「大切に、思っておられるのですね」
絵馬を上手く結べなくてまごまごしていて、ようやく結べたと思った瞬間、またすぐ後ろに声。こういうのは苦手だからやめてもらいたいものだが、べつに驚かそうと思ってしたことじゃないだろうから、責めはしない。
何も言っていないのに、大切に思っているなんて、ずいぶん軽率に声をかける巫女だ。距離感というものが分かっていない。物理的にも、心理的にも。そう思うと、少し腹立たしくもある。だけど、真っ黒な髪と同じ輝きの瞳にじっと見つめられ、笑いかけられると、怒る気も失せてしまうもんだ。
「出会ってから、どれくらいになるのですか」
どうして、そんなことを訊くんだろう。不思議だが、若いから人の恋愛話なんかに興味があるのかもしれない。明日、この子の大学での話のタネになるのだろう。
「出会ってから、七年。付き合ってから、六年」
「ご結婚されてからは?」
どきりと心臓が鳴る。なぜサヤが俺の妻だと分かったのかと思ったが、指輪をしたままだからそれを見たのかもしれない。巫女だと思っていたら探偵だったのかもしれないと心の中で少しだけ笑う。
「付き合って四年のときに結婚した。だから、結婚してから二年」
「そうですか。あなたの前から、去ってしまわれたのですね」
「なあ、巫女さん」
はい、という返事の代わりに、巫女は小首を傾げた。
「人のこと、そうやってあれこれ詮索するもんじゃないよ」
「すみません。つい。ご迷惑でしたか」
「いや、迷惑ってわけじゃないけど」
「サヤさんのことを大切に思われるなら、出会ったときのことを、思い返してみられては?」
雨のような。それに、苔が濡れるような。アスファルトが濡れたときの独特の匂いはペトリコールって言うんだ、ってサヤが教えてくれた。
いや、雨だった。ほんとうに雨が降ってきて、砂利のひとつを、揺れる木々の葉を、色あせた紫陽花を、俺を、世界を濡らした。
――雨、止まないな。
――ほんと。
――あんた、傘、ないの?
――すぐ止むかなって思ったけど、結構凄いから。どうしようかなって。
驚いた。心底驚いた。
濡れて鏡のようにきらきらと光る砂利のその向こうに、あの日の俺たちがいた。
コンビニの軒で並ぶ、十九歳の俺たち。傘をわざわざ買うのがもったいないから止むのを待っていたら、隣にたまたまサヤがいた。眼鏡をかけていて、ちょっと地味な大学生だった。音楽をやりながらバイトをしてた俺はあんまり真面目そうに見えなかったから、いきなり声をかけられてびっくりしたかもしれない。
砂利の向こうの俺がいそいそとコンビニの中に戻り、傘を二本買って出てきた。その一本をサヤに手渡すけれど、客観的に見るとこんなに寒いものなのかと苦笑してしまう。
二人は、それを広げ、歩き始めた。二つ並んだビニール傘が、雨に煙って遠くなってゆく。傘二個分だけ空いた二人の距離が、こうして見るとなんだか可愛く思えた。
俺は、思わず手を伸ばしていた。
「待ってくれ」
そして、二人が踏むのと同じ雨の中に駆け出した。
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