冷たいファーストキス

増黒 豊

サヤのこと

 あれから、一日三回泣いた。ということは、千と九十五回泣いたことになる。どれだけ泣こうが喚こうが、サヤが戻ることはない。どうして死んでしまったのかと声を荒げても、写真の中で変わらない笑顔を向けてくるだけ。

 新幹線に乗ってUSJに行ったときのも、近いけれどなかなか行く機会のなかったディズニーランドに行ったときのも、五稜郭に行ったときのも、いつ見ても同じ笑顔。結婚式のときのも、毎日変わらない笑顔。

 どうして同じなんだろうと、見るたび思う。俺が約束したことを破ったときはすごく怒ったし、三年前にプロポーズしたときは顔をくしゃくしゃにして笑いながら大泣きして、店員さんや周りのお客さんをびっくりさせた。六年前のクリスマスに付き合ってくれって言ったときは、どうしようかなあ、なんて意地悪な顔を見せて、そのあと、嘘、嬉しい。って言って恥ずかしそうにマフラーに顔を埋めた。



 今度の旅行は、どこに行く?


 いつか、海外にも行きたいね。


 子供は、女の子かな。男の子でもいいけどね。ねえ、なんて名前にしようか。


 そうそう、明日さ、駅の方行くでしょ?帰りでいいから、トイレットペーパー買ってきてくれない?


 自分で汚したんだから、自分で掃除くらいしてよね。


 わたしは、あなたのお母さんじゃありません。


 ごめん、イライラしちゃった。耕太郎のお母さんじゃないけど、耕太郎の奥さんなの。大事にされたいの。あなたのこと頼れる、カッコいい、っていつまでも思ってたいの。


 ほんとう?美味しい?嬉しい。


 ねえ、今日の夕飯ね、ほんとに美味しかった?気を使って、嘘ついてない?だって、白ワインとお酢間違えて入れちゃったんだもん。


 親戚の巨人、新刊出てたよ!──うそ、あなたも買ってきたの?


 どこにも行かない?生まれ変わっても、またわたしの前に現れる?


 じゃあ、来世は巨乳のスレンダー美女になってあなたを誘惑してあげる。だから、今世はこんな感じで我慢してね。


 ねえねえ、これ美味しいよ。


 ねえねえ、耕太郎の好きな芸人さんが出てたから、録画しといたよ。


 ねえねえ、これ、耕太郎に似合うと思って買ったの。


 ねえねえ、耕太郎。


 ねえねえ、わたし、幸せよ。耕太郎も?


 耕太郎、好きよ。


 耕太郎、大好き。


 耕太郎、愛してる。


 耕太郎、ずっと一緒だよ。



 サヤが何か言うときは、ちょっと上目遣いになることが多い。それでも、何か言う度に、違う顔を見せた。

 なのに、今のサヤは、ずっと同じ顔のまま、平べったい紙の中で笑っている。

 それを見て、毎日。

 毎日、俺は泣いてしまう。今の俺をサヤが見たら悲しむかもしれないけど、サヤはどうしたって今の俺を見ることはない。


 その病気を宣告されたときも、サヤは笑っていた。

「ヤモリが壁に貼り付くの、あるじゃない?」

「何のこと?」

「あれ、ファンデルワールス力っていうの。それにちょっと似た名前の病気ね」

 そう言って、くすくすと声を立てた。さすが、大学で生物の研究をしていただけあって、そんなときでもその調子だった。もしかすると、俺があまりにショックを受けた顔をして固まっていたから、勇気付けようと冗談を言ったのかもしれない。


 闘病生活なんて、なかった。

 ベッドの上のサヤは見る見る痩せていき、ぷっくりしていた頬は焼く前の粘土みたいな色になっていた。

 音楽を作る仕事をしていたから、毎日ずっと病院にいることができた。あれから、曲なんて作ったことない。

 それ以外に能なんてなかったから、二十二歳のときに音楽の仕事をもらえたときはすごく嬉しかった。だけど、それ以上に喜んでいたのは、サヤだった。ひととおり喜んだあと、

「耕太郎の才能と努力を認めない人なんて、いるわけない。当然の結果よ」

 と胸を張るのがとても可愛くて、死ぬほど笑った。

 あの頃、まだ大学生で、眼鏡をしていたっけ。だけど、笑うとその奥で糸くずみたいに細くなる目は、ずっと変わらないままだった。サヤの子供の頃の写真を見せてもらったときもやっぱり同じ顔だったから、お婆ちゃんになっても変わらないんだろうと思った。

 

 だけど、

「耕太郎。ごめんね。いっぱい心配させてるね。ごめんね。元気になれなくて、ごめんね」

 と言ったきり、

 あっけないほど。

 拍子抜けするほど。

 ほんとうのことだと信じられないほど、すぐに。

 サヤは死んでしまった。俺のお袋も親父も、サヤのお母さんやお父さんまで俺を気遣ってしまうくらい、俺は泣いた。葬式のときにサヤがもう二度と目覚めることがないんだと改めて知って、これからどうしたらいいのかほんとうに分からなくなった。

 たとえば、夜の海を渡る人が星を見上げて自分の位置を知るように。

 たとえば、カレンダーにある日付を見て、はじめて人は今日が何日なのか知ることができるように。

 サヤがいなければ、俺なんてどこにもいないのと同じなんだ。

 そう思ったのは、サヤが死んで、初七日が終わった頃だった。いくら法事でお坊さんが有り難いお経を唱えても。いくら親戚連中がサヤちゃんは耕太郎くんと一緒になれて幸せだったはずよ、なんて言ったとしても。わざわざサヤのことを思うのに黒いスーツを着なきゃいけないような間柄になってしまったら、何の意味もない。


 なあ、サヤ。

 俺で、よかったのか?

 俺は、お前にあまりにも頼りきりじゃなかったか?

 お前を俺のお袋みたいにじゃなく、俺の奥さんとして大切にできていたか?

 俺はお前と出会って以来、プロダクションに送ったデモテープが落ちたときも、ゲーム会社のサウンドクリエイターの選考に落ちたときも、爺ちゃんが死んだときも、幸せじゃない日なんてなかった。研究が忙しいときも、できるだけ時間を作ってバイトばっかの俺のそばに少しでもいられるようにって。爺ちゃんが死んで泣いてる俺の手を、ずっと握ってくれていて。こんなの応募してみたらどう?って選考の記事を調べてくれたりして。今日、何食べたい?って俺の好きなものを作ろうとしてくれて。俺がレンコンが嫌いでサヤが好きで、できるだけ同じものを食べたいからって俺の好きな味付けを工夫してくれたりして。

 俺は、一日だって、幸せじゃない日はなかった。

 お前は、どうだった?

 俺は、お前が俺にしてくれたように、お前を幸せにしていただろうか?

 写真の中のお前は、いつだって笑ってる。だから、幸せでいてくれたと思いたい。


 もう一度、会いたい。抱きしめたい。

 最後にキスしたのは、病院のベッドの上だったっけ。ファーストキスのときみたいに恥ずかしそうにしていたのを今朝のことみたいに覚えてる。ファーストキスのときはマフラーに顔を埋めていたけど、最後のキスのときは、消毒臭い布団に顔を埋めていたな。


 あれから、ちょうど一年。

 俺は、千と九十五回泣いた。

 千九十六回目の涙は、奇跡が起きた嬉し涙だった。

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