振り返る

 ただ過去を振り返るだけなのに、なぜ実際にあったことと違うことばかり起きるのか。そもそも、サヤはカフェでバイトなんてしていたか。それすら、あやふやに思える。ただ、ひどく現実味のある夢を見ているようで、現実味があるならそれは現実なのではないかと思って、俺は混乱した。


「サヤさ、あの彼氏と順調?」

「うん、まあ」

 仲良く二人、同じ帰り道である。シフトが重なると、どうやらいつも一緒に帰っているらしい。

 幸せでしかなかった俺の記憶が、過去が、見たくもないものによって塗り潰されてゆく。

 いや、俺にそれを嘆く資格なんてない。俺ほど身勝手な男だったら、とっくに愛想をつかされていてもおかしくはなかったんだから。もしかすると、俺が知らないだけで、サヤは俺を見限ろうとしたことがあるのかもしれない。そう思うと、いくらか思い当たる節がある。


 瞬きをひとつしただけなのに、景色は変わっていた。ここは、カラオケボックスか。俺たちが、いつも使うところだ。しかし、サヤの隣でマイクを握っているのは、俺じゃない。

 もう、それが誰なのかも分からない。いや、誰でもいい。とにかく俺ではない男と一緒にいて、楽しそうに過ごしている。

「食べる?」

 フライドポテトを差し出し、男が口を開ける。サヤは笑って自分の手でそこにポテトを運んだ。

「歌わないの?サヤ」

「うーん、音痴だからな」

「彼氏、バンドやってたんでしょ?」

「うん、まあ」

 なぜ俺の話になると苦笑いをするのか分からない。

「彼氏に教えてもらえばいいのに」

「いや、でも──」

 男の表情が、変わった。それがどういう意味なのか、同じ男として分かりすぎるほど分かる。

「どした?あんまり上手くいってない?ごめんな、嫌なこと聞いちゃった?」

 こういうとき馬鹿に優しい男にはロクな奴がいない、ということを知らないのだろうか。サヤは、そのままうなだれてしまった。

「大丈夫、大丈夫。きっと、うまくいくから」

 やめろ。叫んでも、ここに俺はいないのだから、聞こえるはずがない。男は俺より大きい手をサヤの頭にあてがい、軽く叩いた。

 こんなので落ちる女がいるなんて。ましてや、それがサヤだなんて。サヤは、わっと泣き出し、男の胸に顔を埋めた。

「自信ないの。一緒にいても、あの人にはしたいことがあって、進みたい道があって。わたしは、その邪魔にならないようにしなくちゃいけなくて。それでもいい。好きだから、それでもいい。だけど、ときどき、わたしをお人形さんみたいにしか見てないような気がして」

 男は、そっとサヤを抱き締めた。震えて熱くなっているであろう背を、ゆっくりと撫でている。

 不意に、サヤが顔を上げる。間近で、男と眼を合わせる。あとは、神様が俺たちをそう作ったとおり、キスをした。

 はじめ、そっと。遠慮するように。次第にそれは激しくなり、何かが弾けてしまったのが傍目から見ても分かるくらい、互いの息が荒くなる。

 布が擦れる音。ん、と鼻を鳴らすようにして漏れるサヤの声。

 これは現実か、夢か、過去か。あるいは、俺に言わなかった、サヤの秘密か。


 声はだんだん高く、大きくなってゆく。やがてサヤが身体を激しく縮め、脱力した。紅潮した顔で目を半分だけ開けて、男の耳元でなにごとかを囁く。

 サヤは、確かに俺に対しても積極的だった。俺以外にも何人も付き合っていた男がいるのも知っていたし、はじめてのときもびっくりするくらい手慣れていた。それを思えば、不思議なことじゃないのかもしれない。


 俺は、何を見ているんだ。瞬きをする度に、違う場所で違う相手の前で俺には見せない顔を見せるサヤがいた。その度ごとに俺は叫び声を上げていたが、そのうちに疲れ、ただその光景を見ている方が楽なことに気付いた。

 もう、駄目だ。疲れたし、眠いし、寒い。それでいて、下痢が治りきらないときのように腹の下に違和感がある。

 ふと思った。これが、地獄なんじゃないかと。いや、これを地獄と言わなければ、小さい頃婆ちゃんが言っていた地獄なんて生ぬるいもんだとすら思える。

 生きることは辛いこととよく言うけれど、死んでしまうよりはマシだろう。しかし、死よりも辛く悲しく腹立たしいものがあるとするなら、それは地獄しかない。

 だから、俺はこれを地獄だと思うことにした。そうすると、目の前で繰り広げられている光景なんて大したことがないと思えるようになった。


 ――振り返ってしまったのですね。

 はっとして見回す。名前も顔すらもない男と仲良くするサヤを悲しげに見つめながら、咲耶が立っていた。

「おい、なんだよ、これ。一体、何がどうなってるんだ」

 俺は寝覚めの悪い朝のような気持ちで詰め寄った。

「あなたは、振り返った。決して振り返らぬようにと忠告したにもかかわらず」

 首や体を回して後ろを向くこと。過去のことを思い返すこと。どちらも、人が自然に行うことではないか。なぜ、今さらそんなことを禁じられなければならないのか納得がいかず、声を荒くして咲耶に迫った。

「あなたは、何を求めてここに至りましたか」

 サヤに決まっている。サヤを追って、比良坂に来たんだ。分かりきったことを聞くな、と言ってやろうかと思ったが、このわけのわからない世界について知識を持っているのは咲耶だけだから、機嫌を損ねるわけにはいかない。

「残念ながら、わたしはわたしではありません。わたしは、あなたの体のそばにいます」

「じゃあ、お前は何なんだよ」

「言ったはずです。鏡であると」

 それが、比良坂。ここで起きていることも、そして目の前の咲耶も、全て俺の心が作り出した幻想なのか。

「サヤさんも、比良坂を通った。そして、振り返ってしまった。ほんとうなら、そうすれば黄泉にはゆけず、延々と目印を求めて彷徨うだけの存在になってしまうのです」

 じゃあ、どうして。それを訊こうとして、俺はポケットの中のものに気付いた。

「そうです。あなたは、願った。祈った。あなたの願いや祈りに、サヤさんは気付くことができた。だから、あなたを目印に現世に戻った」

 じゃあ、振り返るべきでないところで振り返ってしまった俺は。俺に何かを願ってくれるはずのサヤはもう死んでしまっていない。幽霊として戻ってきたサヤも、もう比良坂を越えてしまっているかもしれない。

 ポケットの中のお守りを握り締めたまま、俺は立ち尽くした。どうしていいのか分からないとは、このことだ。

「あなたがすべきことは、過ぎ去った日を省み、懐かしむことではない。それが人に歩む力を与えてくれることもあります。しかし、あれほど息を巻いていても、あなたがしたのは、過去に縋り、見なければならぬものから目を背けること」

 言い返す言葉がない。俺は俯き、歯を噛んだ。

「あなたもサヤさんも、過去にはいないのです。未来にも、もちろん。あなたは、今このときにしかいないのです。そして、そこから進んでゆかねばならないのです」

「俺は、どうすれば――」

「さあ」

 咲耶が、薄く笑う。俺を苦しめた地獄のような光景は知らぬ間に消え、またあの何もない空間に立っていた。

 頭を洗っているときにふと感じるような気配がして、後ろを向いた。

 手。

 無数のそれが、伸びてくる。

「わたしは、あなたの心にある、鏡映しのあなた。あなたが何をすべきなのかは、あなたが知っているはず」

 やめろ、とどれだけ叫んでも、無数の手は俺を捉えて放さない。抗いようのない力で引きずられ、前も後ろも上も下も分からないようになった。

 そしてまた聴こえる、波の音。

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