あの日ではなく、今

 石段も、濡れている。あれだけの大見栄を切ったにもかかわらず、俺は絶え絶えの息でかろうじて手すりにしがみつきぬがら、それを降りた。

 格好いいとかどうとか、なり振りなんて構っていられない。俺は、行かなくてはならない。

 なぜ、あのバスなのか。そのことが分かったら、それこそ自分の寿命がどうとかいうようなことはどうでもよくなった。


 あとどれくらい生きられるのか。自分に、何ができるのか。それが分かれば、苦労はない。爺さんの言う通りだ。

 俺にできるのは、今というこの一点において自分の行動を決定付けることだけ。その点が自分の後ろに流れ去っても、またそのときの今という一点を見定め、そこに自分の全精力を傾ける。そうしていれば、自分の望む自分でいられる。

 過去を変えることは、できない。未来を覗き見ることも、できない。だけど、俺が生きている今この瞬間は、すべてが俺の自由だ。

 無限に続くそれを重ね、進んでいかなければならない。当たり前のことだけれど、俺は何も分かっていなかった。サヤのことを想うというのは、必ずしもその死に打ちひしがれて自分の時間を止めてしまうということじゃない。サヤが生きていようが死んでいようが、サヤの全ては俺で、そしていつだってサヤは俺により良く生きていてほしいと願っていた。


 バンドが上手くいかなくても、全てが終わったわけじゃない。音楽で仕事を得ようとしてもはじめ箸にも棒にもかからなかったけれど、それで終わりじゃない。それは、サヤが俺にそう思わせてくれたからだ。だから俺は進み、サヤと共に生きるということを選べたんだ。

 駄目な奴でも自分を呪わずに過ごして来れたのは、俺の全存在をサヤが力いっぱい認め、許してくれていたからだ。

 そして、俺もまた、サヤの全存在をそのまま愛していた。


 自責すること。そこから生じる謝罪を口にすること。あのときああすれば、と顧みること。自分を投げ出して、サヤに尽くそうという陳腐な姿勢で自分を庇うこと。

 そうじゃない。俺に唯一できるのは、そうじゃない。

 応えること。求めること。そこに向かって、進むこと。与えること。与え合うことを、喜ぶこと。俺のことを知る人と、時間を、物を、いのちを。


 一人でなんて生きていけない、なんていう歌は掃いて捨てるほどある。俺も、そんな歌をいくつも作ってきた。

 だけど、そうじゃない。はじめから、一人でなんて生きていない。

 あの日から。サヤと出会った、あの日から。それ以前にも俺には親があり兄弟があり友達があり仲間があった。自分で自分を、波すら立たない水の上に浮かぶ小島だと定義付けるのは、俺が俺のことを知る人に応えられる自信がなかったからだ。

 失敗したら、どうしよう。失望させたら、どうしよう。嫌われたら、離れて行かれたら、どうしよう。だから俺は孤独だと自分を定義づけ、無能だと自分に言い聞かせ、それを責める姿勢を人に見せて自分を庇っていたんだ。

 だけど、違う。サヤにとって、俺はただ俺であることこそが答えであり、俺はサヤの前で俺としてサヤの方を向いて、応えればよかったんだ。

 あの日から、ずっとそうだったんだ。サヤが生きていようが死んでいようが、俺にとってのサヤとは、サヤにとっての俺とは、そういう存在だったんだ。


 求め合う。だから、答え合う。分かち合う。決してひとつになれないもどかしさを、言葉と態度と行動でならし合う。そうして、二人で生きていたんだ。

 俺は、確信している。サヤは、あそこにいる。俺の中のサヤは、まだあそこで俺を待っている。

 サヤが乗って行ったであろうバスが、やって来た。やはりそれは古びていて、薄汚かった。俺は目を凝らして行先表示を確認した。

 比良坂ゆき。

 咲耶の言うとおり、そのバスは来た。俺が鉛みたいに重くなって雷みたいに痛む体に鞭を打っていなければ、乗り逃していたかもしれない。そうしたら、おそらく、このバスはもう来ることはない。なぜなら、俺が乗るべきなのは今この瞬間だから。過去でも未来でもない、今この瞬間に俺がこのバスに乗ることに意味があるから。


 お守りを、握り締めた。バスが停まり、俺に向かって扉を開いた。俺はステップに足をかけながら少し振り返って仰ぎ、藤代神社のある丘に眼をやった。

 雨は、まだ降っている。だけど、空は晴れていた。雨に濡れた薄青色がきらきらと輝き、七色の弧をコンクリートに突き刺していた。

 そうだ。

 このあと、びっくりするくらい雨が強くなるんだ。俺はコンビニの中でマンガ雑誌を立ち読みしていて、サヤはこのバスから降りてきて。そうして、俺たちは出会ったんだ。

 早く。早く。俺は、運転手を怒鳴りつけてやりたいくらいの気持ちになっている。急いでもどうなるわけでもないけれど、とにかく早く。早く、早く、早く。


 停留所。バスを、飛び降りた。

 そうすると、俺に重なって、俺を通り抜けて、サヤがコンビニのひさしの下に駆け込んでいった。

 空の雲は切れている。雨宿りをするつもりなんだろう。

 俺は、サヤになってバスに乗っていたんだと思った。だとすれば、俺は。

 俺がバイトまでの時間潰しに読んでいた漫画雑誌を棚に戻し、コンビニから出てきた。そして、雨が降るとは思っていなかったような様子で、サヤが見上げる空を半分隠す庇の下に。


 ついこの前も、同じ光景を見た。それなのに、全く違う光景のように感じた。俺はくすぐったくて、嬉しくて、つい笑ってしまった。

 傘を買うのがもったいなくて雨が止むのを待っていたなんて、大嘘だ。俺は、サヤに声をかけようかどうしようか迷っている俺の隣に立ってみた。立って、同じようにしらじらしく空を見上げてみた。

「すごい雨だ」

 俺が言うのに合わせて、俺は言った。サヤはちょっと驚いたようにこちらを見て、そして笑った。

「待ってたよ、耕太郎」

 俺は、ちょっとびっくりした。だけど、やっぱり、ここにいるのは、あの日の俺たちではなく、今の俺たちなんだ。サヤは死んでしまっているから今のサヤと言えるのかどうかは分からないけれど、少なくとも俺たちはあの日からずっと続く今日にいる俺たちなんだと思えた。


「どうして、来ちゃったの。自分が何をしているか、分かっているの」

 サヤが困ったように笑った。

「大丈夫なの。動けるの」

 そして、俺を責めることなく、俺の体を気遣った。

「バスに乗ってから、体が軽くて痛みもない。きっと、ここが現世じゃなく、サヤがいる方の世界だからだ」

 体はあっても、それは体じゃない。だから重いはずもなく、痛みもない。そういうところに、俺はいる。

「来てほしくなかった。だけど、来てくれてうれしい」

 それが、サヤの率直な気持ちなんだろう。俺がここにいるということは、俺はほとんど死んでいるのに近い状態ということだ。そのことはサヤが望むこととは違うが、俺がサヤを追いかけてきたということは、心から喜んでくれるらしい。

「消えかけのいのちで現世にしがみついて、何になる。俺は、自分で考え、自分で決め、自分の体でここに来たんだ。それが、俺にとって前に進むということだから」

「だけど、死んじゃうなんて」

「サヤにいのちを吸い取られて死んだわけじゃない。頭を打ったわけでもない。ただ俺は弱った体で無理して駆けて、その最中でいのちが尽きた。それだけのことだと思う」

 それは半分は当たっていて、半分は間違っている。そんな気がしたけれど、うまく言葉にできないから言うのをやめた。

 ただ俺に言えるのは、

「俺は、自分で求めるからここに来たんだ。サヤと、ずっと一緒だった。俺たちがはじめて出会ったこの日から、俺はサヤと一緒に生きてきたんだ」

 ということだった。サヤは俺がここにいるということをどうにか自分の中で整理づけようとしているらしく、出会った頃の流行りとは程遠い髪をつまんでいる。

「あ、ちょっと待って」

 サヤが、コンビニの中に駆け込んでいく。


 しばらく待つと、傘を買って出てきた。

 低い音を立て、間近で見上げるビニールの花火。それが、俺たちに打ち付ける雨を可視化した。

「これがなくちゃ、はじまらない」

 サヤはちょっとおどけて言い、顔をくしゃくしゃにして笑った。


 俺たちは、歩きはじめた。

 今というこの瞬間を。

 自分たちで決め、進んだ。生きていようがいまいが、そんなことは関係ない。なぜなら、俺にとっての世界は、サヤだからだ。サヤにとっての世界は、俺だからだ。

 ここが、黄泉比良坂。サヤは、このさらに向こうに行かなくてはならない。

 それまで、きっと時間はたっぷりある。話したいことを話し、笑えばいい。素直に、そう思えた。

 生きていないのが心残りじゃないと言えば嘘になる。だけど、やっぱりそのことは問題じゃない。生きるということは、考えることだから。決めることだから。それを共にできる人がいることを喜び、その人にとっての世界になることだから。だから、俺たちは、今までのどの瞬間よりも、今生きていると思えた。


「あ、耕太郎、糸」

 サヤが、俺のシャツの袖から糸が出ているのを見つけた。

「ほんとだ」

 俺はそれを引っ張った。そうすると、それは糸なんかじゃないと気付いた。

 シャツじゃない。その糸のようなものは、俺の体から出ている。

 気付いたとき、その糸が急に凄い力で俺を引っ張った。どうしても抗えないくらいの力で。

「耕太郎!」

 サヤが叫ぶ。

 どうして。

 俺の、俺たちのあるべき場所は、ここじゃなかったのか。サヤは、俺たちをあるべき場所にと願ったんじゃなかったのか。

 この凄い力は、俺をどこに連れていこうとしているのか。

 分からないけれど、俺は台風の日のビニール袋みたいに吹き飛ばされた。吹き飛ばされて、サヤからどんどん遠ざかった。

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