鏡の中の世界の中の合わせ鏡

 ──さん。

 誰かが、俺を呼んでいる。

 ──耕太郎さん。

 それは、俺の名だ。

 ──耕太郎さん。

 はっとして、眼を開けた。開けると、自分が目を閉じていたのだということに気付いた。

「耕太郎さん」

 何もない空間だった。地面すらもなく、でも俺は確かにここにいて、二本の足で立っている。

「耕太郎さん。わたしの声が、聴こえますか」

 咲耶の声だ。それを認めると、目の前に咲耶の姿があらわれた。

「ここは?」

「あなたの、心と身体の狭間。わたしは今、あなたの身体に向かって語りかけています」

「どういうことだよ。サヤにせっかく会えたのに、いきなりものすごい風が吹いて、気がついたらこんなところに」

「あなたの身体が、あなたの心を呼び戻しているのです」

「どういうことだ。分かるように、言ってくれ」

「あなたの心はひととき身体から離れ、サヤさんと同じような存在になりました。しかし、あなたの身体はまだ生きている。その身体に満たすべきものを欲し、あなたの心を引き寄せている」

 俺は我慢のきかない子供のように、何もない地面を踏んだ。

「あんまりだ。せっかく、サヤのところに行けたのに。どうしても、俺の求めることは叶わないのか」

「あなたが求めることは、叶います。あなたが、叶えるならば。だけど、あなたの身体は、生きようとしている。心が切り離されても、なお」

 そんなことを言われても、どうにもならない。もともと、人の力でどうにかなるようなことでもない。だから、余計に悔しい。

「あなたは、死ぬべきではないのです。死なぬかぎり、比良坂には留まれぬのです」

「じゃあ、どうしたらいい。あんたの前に俺の身体があるなら、今すぐそれを殺してくれよ。俺には、やらなくちゃならないことがあるんだ」

「まだ、お分かりではないようですね」

 咲耶は呆れたように眉を下げ、髪を撫で付けた。

「あなたは、生きているのですよ」

「そんなこと、分かっている」

「あなたは、死を願いましたか。あなたの望みとは、死ぬことですか。いのちあるものである限り、それを望むことはありません」

 そんなことない。サヤが死んでから俺は何度も生きている意味が分からなくなったことがあるし、実際世界中で毎日多くの人が自らの生命を閉ざしている。そう願っている人も、多くいる。

「あなたは今、心になっている。だから、死んだあとでも何かができるというような気になっている。しかし、違うのです」

 なにが、どう違うのか。俺が見出した答えは、間違いだったのか。

「いいえ」

 咲耶は、俺の心の中──いや、咲耶いわく今の俺の存在そのものが心だということだが──が覗けるのだろうか。言いもしないことに、勝手に答えた。

「あなたは、生きているのです。生きているならば、生きなければ。何をどうしても、そのことを覆すことはできないのです」

 当たり前だ。しかし、どうにもならないほど悔しい。俺は紛れもなく生きていて、サヤは一年前に死んでしまっている。それは、神様ですら動かせぬ絶対の事実なんだ。そう改めて突き付けられると、肺をえぐられたように思う。


「あなたが思った、サヤさんへの想い。あなた自身への想い。それもまた、神様ですら手をいれ入れられぬもの」

 地面すらない地面に膝をついて黙るしかない俺に、咲耶は再び語りかけた。

「あなたの心はあなたにしか変えることができないように、あなたの生は、あなたにしか生きられないのです」

 それも、当たり前のことだ。しかし、なぜか目から鱗が落ちたような気がしないでもない。

「神様とあなたたちが言うものは、結局、あなたたちの心のこと。御神体と呼ばれるものに鏡が多いのは、それに向かい合うとき、己がそこにあるのを感じるため。己と、向かい合うため」

 藤代神社は、水の神様だという話を思い出した。そして、水は人を映す鏡にもなるということも。

「いかに激しい風で水面が乱れようとも。星すらもない闇であろうとも。それを覗き込むあなたは、たしかにそこにいるのです。神様に向かって祈り、手を伸ばすというのは、己に向かってそれをするのと同じなのです」

 なんとなく、だんだん、この咲耶という巫女がなにものであるのか分かってきたような気がした。しかしそれは言葉になるもっと前のどろどろとした始原のところにある感覚で、うまく表せない。

「そして、サヤさんも、あなたの鏡としてあなたを映している。あなたもまた、サヤさんを映している」

「他人は自分を映す鏡、なんてよく言うけど」

「そう言うこともありますね。だけど、もっと簡単なこと。サヤさんの瞳にはいつもあなたが映っていて、あなたの瞳にはいつもサヤさんが映っていた。その無限の合わせ鏡こそ、あなたたちの世界」

 その鏡を見失い、俺は自分の居場所が分からなくなった。だが、俺はサヤの瞳の中の存在でしかないというようなことはなく、間違いなくここにこうして存在している。

 そういうことが、言いたいのだろうか。

 なんとなく立ち上がる俺が問うまでもなく、サヤはにっこりと微笑んで頷いた。

「あなたの心は今、あなたの身体に戻ろうとしている。あなたは、それを拒んでいる。あなたが今いるのは、どこでもない、あなたの内なる歪み。あなたの渇きによって生じたひび割れ」

「俺は、どうすれば」

 咲耶は、俺にぐっと歩み寄った。俺はちょっとたじろいで、後ずさった。しかし、咲耶はなお俺に身を寄せる。

「わたしの」

 甘い花のような香りの吐息がかかる。

「瞳を」

 そこに、俺がいた。たいしてイケメンでもなく、三十歳が近付いてきて昔よりだらしない身体になりつつあって、なぜか曖昧に笑みを浮かべる、心細げな俺が。

 サヤの愛した俺が。

 サヤを愛する俺が。死んでしまってもなお強く。

 生きるとか死ぬとか神様とかそんなことは全く関係なく、ただ、サヤのことが好きで好きでたまらない俺が。


「この何もない世界にですら、あなたはいる。では、あなたは、この歪みの中に生まれたこの世界に、なんと名を与えますか?」

 対話。これは、おそらく咲耶とではなく、俺自身との。

 喪失感。

 怒り。

 悲しみ。

 自己否定。

 後悔。

 さまざまな名が、与えられた。そうすると、俺が足を付けていた何もない地面はアスファルトの道になった。

 思い出。

 記憶。

 喜び。

 期待。

 希望。

 そう、空に名を与えた。そうすると、そこには確かに空があり、俺の踏むアスファルトと似たような色の雲で覆われているのが分かった。


「これが、あなたの世界。では、あなたたちを繋ぐものは?」

 俺は、この世界に立っていた。俺自身の足で。それを、俺自身が感じていた。

 俺が、鏡。鏡の中の世界への、入口。きっと、サヤもそこにいる。俺と同じ世界に。それは生きていても死んでいても、関係ない。俺たちは、同じ世界にいつもいる。だから、俺が死ぬことではどうやってもサヤのところには行けなかったんだ。俺の知るサヤは、生きている俺たちの世界の中に、はじめからいたんだから。

 黄泉比良坂だとか幽霊だとか神様だとか、そういうものもまた、ただの名前であり形でしかない。それもまた、俺の世界の中にある。


「さいごに、あなたの心に、今ここにいるあなたの心に、名前を与えてあげて。色を塗って、花のように咲かせてあげて」

 俺は、自分の手を曇天にかざした。その手は雲と同じ灰色をしていたが、すぐに色付いた。俺の世界の歪みの中の俺は、色すらも失っていたらしい。

「伺ってもよろしいですか」

 咲耶が、笑う。

「あなたは、あなたの心に、なんと名を与えられたのですか」

 そんなの、決まっている。あまりに明確だから言葉にするのは躊躇われるような気もしたが、だけど、思いっきり叫んだ。

「愛」

 と。

「素敵です」

 咲耶が笑った瞬間、世界には雨が降り始めた。彼女が放つ水の匂いは、この匂い。彼女が放つ花の香りは、俺が咲いたときの香り。

 咲耶は、ビニール傘を俺に差し出した。

「あなたに、必要なものです」

 それを俺に渡し、アスファルトの道の先を指差した。見ると、道はそこで途切れていて、滝のようになって景色が、色が、雨が、光が流れ落ちていた。

「これから、あなたは六つの目印を通り過ぎます。それらを全て越えた先に、あなたのゆくべき場所がある。ただし、ひとつだけ」

 ぴんと立てられた咲耶の人差し指に、注目した。

「決して、振り返られませんよう。道の半ばで振り返れば、大変なことになります」

 俺は深く掘り下げようと思ったが、話は終わったとばかりに差し出された傘を受け取り、とにかく全力で駆けた。それを、咲耶は手を振って見送った。

「よいお詣りに、なりますように」


 駆けた。駆けて、駆けて、駆けて、そこを目指した。全てが流れ落ちてゆく滝に至って、ためらわずに俺はアスファルトを蹴った。

 宙に。雨と同じになって。

 握り締めたビニール傘を、開いた。アニメみたいだけれど、傘がパラシュートみたいになって俺を運び、俺は色に、景色に、雨に、世界に追い越された。

 漂ううち、見えた。

 あれが、ひとつめの目印。すぐに、そう思うことができた。

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