第四章 黄泉比良坂

ひとつめの目印

 傘は、俺をそこへと運んだ。ゆっくり漂うようにして、それでいて確かな目的を持って。

 もう手を離しても大丈夫だと思えたのは、アスファルトに足がついたから。そして、雨は降らず陽射しが覗いていたから。

 ひとつめの目印。忘れるはずがない。これは、俺たちの結婚式。

 そんなに豪勢な式ではなかったけれど、お互いの親や親戚や友達は呼べた。サヤはべつに式はなくてもいいって言っていたけれど、今思えばやっぱりあれは気を使っていたんだ。

 足を踏み入れる。まだ招待客のいない式場ではスタッフが気忙しく行き交っているが、俺に気付く者はない。

 こんなに複雑な構造だったかと思うくらい、控え室は遠い。きっとあのときは俺も舞い上がっていたから、そう感じなかったんだろう。


 一階は受付。二階が式場。三階が控え室。エレベーター前に掲示された案内を見て、そうだったと記憶をたどりながらボタンを押す。

 エレベーターを降りて続く絨毯敷きの廊下の奥、突き当たり。その片開きのドアの向こうに、俺たちはいる。

 ドアの向こうから、漏れ聞こえる声。楽しそうだ。

 ──いよいよだな。

 ──今、九時半か。十一時から式なんだから、もうちょっとゆっくりしていてもよかったのにね。

 ──花嫁がなに言ってんだよ。

 まだ、扉の向こうの俺たちは私服でいるらしい。このあとスタッフの人が来てそれぞれ別室で着替えるんだったと思い出していると、やってきたスタッフが俺を通り越してノックをした。

「保科様、お着替えのご案内を致します」

 はーい、と宅配便でも来たときのように呑気なサヤの返事が聴こえて、それを待ってスタッフが開いた扉の向こうに、にこにこと笑うサヤの顔がちらりと見えた。

 俺はタキシードを着るだけだからたいして時間はかからないけれど、サヤはドレスの着付けとメイクがあるから時間がかかる。

 スタッフに伴われて別室に向かったサヤを見送った俺は一人になった。

 その隣に、座ってみた。


 そわそわしている。携帯を取り出してSNSを立ち上げ、今着替え待ち、と意味のない報告をアップしてみる。祝いのメッセージやいいねがすぐに飛んでくる。タバコに火をつけ、ゆっくり煙を吐く。このときはまだ禁煙前だったか。結婚式のあと引っ越す二人の部屋が汚れるのは嫌だし、子供ができたりしたときのこともあるから、といって頑張って禁煙したんだった。

 備え付けられている水を一口。俺は、どう見ても落ち着かない様子だ。

 ──そんなに構えんなよ。サヤを、たくさん幸せにするって決めた。それでいいじゃないか。

 話しかけてみるが、もちろん俺は答えない。俺はそりゃそうだと一人呟き、やけに座り心地のいい椅子に腰掛ける俺と同じ姿勢で天井を眺めた。

 ノック。サヤかと思ったけれど、俺の両親だった。そういや、親族は招待客より早く来ることになっていたんだった。

「耕太郎、おめでとう」

 お袋が嬉しそうに笑い、姉貴と弟は着飾っている。その後ろの親父は、気まずそうに目をそらし、おう、とだけ言った。静岡の実家から新幹線で来たらしい。たぶん、乗り継ぎもあるから二時間くらいはかかったんだろう。

 親父と会うのは、数年ぶりだった。俺は高校を出たときほとんど家を飛び出したような形でこっちに来て、それ以来実家に寄り付かなかった。式はサヤの実家のあるこの街ですることに決めていたけれど、自分の家族をまさか呼ばないわけにはいかないと思い、連絡した。


 そのとき、俺は実家に電話するのをいつまでもためらっていた。サヤが、お父さんもお母さんもきっと喜ぶよ、と言ってくれなければ、発信ボタンを押せずにいたかもしれない。

 嬉しそうなお袋と姉貴と弟を見て、俺が思うほど俺のことを憎んではいないんだと思った。

「まあ、なんだ。元気そうじゃないか」

 と下手くそながらコミュニケーションを試みる親父を見て、二度と会いたくないと思っていたのは俺だけだったんだと思った。

「サヤさんは、支度中かしら?」

 お袋は、やはり息子の嫁に興味があるらしい。俺は長男だけどまさか実家なんか継ぐわけないが、気になるものは気になるらしい。

「ドレスを着たら戻ってくる。まあ、適当に座ってろよ」

 そういえば、俺は家族に対してはこんな風にぶっきらぼうな物言いしかしなかった。みんな、控え室のテーブルを囲むようにして座った。

 なんとなく、俺が何の仕事をしているのかとか実家は最近どうだとかそういう話になった。姉貴にも彼氏がいて、そのうち結婚するかもしれないそうだ。弟は次の春から京都の大学に行くらしい。

 親戚も、みんな変わりない。いとこのアキちゃんのところに子供ができたくらいだ。あとは実家近くの商店街の駄菓子屋の世話焼き婆さんが去年倒れて亡くなったとか、その息子が店を閉めてカフェをはじめて、それがなかなか好評だなどという他愛もない話になった。

 気付けば、俺は、笑っていた。この数年の間ずっと感じていた気まずさも後ろめたさも、何もない。出ていくとき親父とは大喧嘩したけれど、思い返せばそんなの今まで何百回も繰り返してきた。親父はときどき俺に眼をやって、俺はそれに気付いて苦笑いを返した。


 ノック。サヤが、スタッフと共に戻ってきた。

「あ」

 と声を上げ、部屋の中にいるのが俺の家族だと認め、ヒールを鳴らして駆け寄る。

「はじめまして。成瀬沙耶です。本来なら、こちらからあらかじめご挨拶をしに行かなければならないところ、申し訳ありません」

 サヤもサヤの両親も、結婚式の前にお互いの親同士、顔を合わせておいた方がいいと言ったのに、俺がそれを固辞した。今サヤが丁寧に頭を下げているのは、言わば俺の尻拭いだ。

 こうしてみると、なんてことはなかったんだ。後先が妙になったけれど、悪い光景じゃない。俺はというと、やりとりをするサヤと俺の家族から一歩退がったところで曖昧に笑っているだけだ。

 ──よかったな。お前の奥さんは、お前が勝手に無くしたと思っていた家族を取り戻してくれたぞ。

 聞こえやしないと分かりながら、俺は俺の肩に手をやり、笑いかけた。


 そのあと俺もタキシードを着て、定刻どおり式は始まった。俺はチャペルで列席者の後ろ、空いたベンチに腰掛け、入場を待った。自分の結婚式に参列するなんて妙な気分だけど、案外悪くない。

 開式を告げる司会のスピーチ。合図とともに拍手に包まれ、先に入場してくる俺。鳴り響く生演奏のオルガン。開かれる大きな扉と、それを狙いすますスポットライト。サヤが、サヤのお父さんに連れられて入場してくる。

 こうして見ると、サヤは、ほんとうに綺麗だ。はじめて出会った頃はそうは思わなかったし、俺の好みとは違うと思っていた。だけど、いつの間にか、サヤは世界でいちばん美しい女性になっていた。

 髪型を変えてコンタクトにしてからは人気の美人アナウンサーに似ていると言われることもあったけれど、そういう問題じゃない。

 サヤがそこにいて、スポットライトを浴びながら恥ずかしそうに笑っている。大勢の祝福を受けながら、一歩ずつ歩んでいる。それが、何より美しいと思った。

 サヤの女友達は皆、目元にハンカチをあてがい、目を真っ赤にしている。それでも笑い、ありったけの祝福を投げかけている。ぱっと見、怖そうに見えるサヤの親戚のお爺さんも、俺のいとこのみんなも、誰もかれもが、同じ顔をしていた。もちろん、祝福の後ろに座る俺も。


 俺がサヤのお父さんからサヤの手を引き継いで祭壇の前までエスコートし、ヴェールをめくる。サヤがはにかんで笑う顔は、目に焼き付いている。

 俺は俺で頭が真っ白になっていたから、こうして改めて見ると、自分の結婚式とはこういうものだったのかという思いがある。神父さんの言葉なんて、何を言っていたかひとつも覚えていない。

 俺が覚えているのは、このくだりだけだ。

「汝、耕太郎は、病めるときも健やかなるときも──」

 俺は席を立ち、俺の隣に並んだ。

 ──誓います。

 そのとき、俺のことは見えるはずがないサヤがちらりと俺の方を見、笑った気がした。

 そのあとサヤも同じように誓いの言葉を済ませて、口づけを。

 事前に、口にキスするのは恥ずかしいから頬にしてくれと言われていたが、俺は急に意地悪な気持ちになり、目を閉じるサヤの唇に思いきりキスをした。サヤがそれで笑って吹き出してしまって、会場は大歓声と拍手に包まれた。


 親も、姉弟も、親戚も、友達も。そして、神様も。この世の全てに祝福を受け、俺たちは夫婦になった。

 忘れたことなんてない。だけど、俺は何かを思い出した。

 これが、ひとつめの目印。俺はとても満たされた気持ちで、列席者に混じってそっと式場をあとにした。

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