想定しうる想定外のこと

 俺たちの結婚式をあとにすると、光がまた流れて、それに運ばれた。いつの間にか手にしていた傘を開くと、やはり俺はゆっくりな雨になった。

 これが、黄泉比良坂。きっと、人によって、そのときによって、その姿は違うのだろう。

 咲耶の声はここまでは届かない。これは、俺の心の奥にある、死の認識なのだろうから。

 いつか、サヤがテレビを観ながら言っていたことがあった。

 ──死を認識するということと生を認識するということは、とても似ているのかもしれない。

 死が近くなればなるほど生もまた近くに感じることができ、死というものがどういうものかを認識することでそこに向かってゆく生を知ることができる。そんなことを、言っていた。

 そのときの俺には難しいことは分からず、さすがサヤは頭がいいなと言って終わったが、今なら何となく分かる気がする。

 言ってみれば、あのときサヤがなんとなく呟いた言葉が俺にこの比良坂を見せているようなものだ。


 ふたつめの目印を見つけ、俺は傘を閉じて降り立った。それは、アメリカのゼリービーンズみたいに真っ青な色をした空の日だった。

 閑静な住宅街。そのうちの一軒。庭付き。庭にまわり込み、室内を窺うと、窓が閉められて声は聞こえないはずなのに、サヤとサヤのお母さんの声がした。

「どうしたの、急に髪型なんて気にして」

「うーん、自分に似合う髪型ってどんなのかなと思って」

「あ、またいい人できたんだ」

「そんなんじゃないって」

 俺の知らない風景だ。だから、黙って室内を見守った。

「今までの人みたいに、すぐ破局なんてことにならなければいいけどね」

「大きなお世話です」

「それで、どんな人?同じ学校の人?」

 言われて、サヤはちょっと考えるような素振りを見せた。

「なんだろう。とても、変わった人」

「わが麗しのサヤちゃんは、ついに変人に手を出したのね」

「おかあさん。嫌な言い方しないで」

 サヤは何かを思い出すように眼をあげ、くすりと笑い、

「やっぱり、変な人」

 と言った。俺のことだろう。

「でもね、なんだか、とても気になる。昨日はじめて会った人だし、どこに住んでるのかも知らないけれど、とても素敵な人だった」

「あなたがそう言うなら、よっぽどのイケメンだったのね」

「まさか。そんなわけないじゃない」

 サヤとお母さんが笑う。俺は、なんだかよく分からない種類の笑みを口の端からこぼして、俺の方を見てきょとんとしているサヤの家の犬の方に眼を逃がした。


「それで、付き合ってくれって?」

「ううん、なんとなく話して、連絡先だけ交換して、バイトだからって急いで行っちゃった」

「じゃあ、あなたの方からアタックするのね。珍しい。今まで、付き合ってくれって言われてなんとなくオッケーしてなんとなく別れるタイプだったじゃない。母親ながら心配だったわ」

 どうやら、サヤにとってのお母さんとは、よき相談相手でもあるらしい。いつも仲がいいとは思っていたけれど、こういう姿を見るのははじめてだ。

「あなたの方から熱を出すなら、安心ね」

「どういうこと?」

「馬鹿ね。あなたは熱しにくく冷めにくいから、そういう人と出会えたのなら是が非でもモノにしなさいって言ってるのよ」

「そうかなあ」

「お母さんは、応援するわ」

 サヤは八重歯を見せながら嬉しそうに笑った。


 きっとこれは、俺たちがはじめて出会った直後のこと。俺の知らないところで、こんなやりとりがあったなんて。

 俺ははじめからサヤに何か強く感じることがあったけれど、サヤもそうだったらしい。俺のことがすごく気になり、髪型を気にしたりして。

 サヤのお母さんはわが娘が好きだと思える人に出会ったことを喜び、まだ俺がどんな男なのかお母さんもサヤもよく知らないというのに応援している。


「上手くいくといいわね」

 と笑う様は母親というより女子仲間だ。サヤもすっかりその気になっている。そして、スマホを取り出して何か文章を入力し始めた。

 そうか、と思った。連絡先を交換した翌日くらいに、いきなりサヤからメッセージが来て驚いたのを思い出した。

「何て送ったの?」

「昨日は、ありがとうございました。またバイトの時間が空いているときがあれば、教えてください」

「あら、控え目ね」

「いや、むしろ肉食でしょ。空いてる時間を聞いてどうするんだ、って保科さん思うわよ」

「これからの女性は、肉食でいいの。それくらいアピールした方が、話が早いわよ」

 サヤのお母さんといえばいつもにこにこしていて優しくて、こういう一面があるのは意外な気がする。だけど、サヤが時折見せる淡白なところや驚くほどの馬力は母譲りだったんだと思うと納得だ。


 庭でにやにやしている俺の視界を、コートを着た男性が通り過ぎた。

 サヤのお父さんだ。

「あら、やけに早かったじゃない」

「有給が溜まってるって会社がうるさくてさ。午後だけ半休にして帰ってきた。参ったよ、有給だけじゃなく仕事もいっぱい溜まってるのにさ」

「ブラック企業に勤めて過労死されるより、ずっといいじゃない。ねえ、お母さん?」

 サヤはお父さんとも仲がいい。俺もこんな家庭を作れればよかったと素直に思う。

「おー、サヤ、お父さんを気にかけてくれるのか。お父さんが早く帰ってきたら嬉しいか。そうかそうか」

「やめてよ。今流行りの過労死なんてされちゃ困るっていうだけ」

「つれないなあ、ほんとうはお父さんのことが大好きなくせに」

「それ以上近付いたら家庭裁判所に行って接近禁止命令出させてやるから」

「おいおい、待てよ。母さん、何とか言ってくれ」

「こんな時代だもの。自分の身を守る術を知っているのはいいことだわ」

 これがサヤの家庭じゃなければとんだ茶番だと笑ってしまうところだけれど、サヤは両親にとって愛すべき自慢の娘で、その中で俺の話題が出ていることが単純に嬉しかった。


 こういう目印をいくつもたどっていけば、サヤのいるところにたどり着く。俺の比良坂は、そういうものなんだろう。どんな試練が待ち受けているのかと思い、それでも行かなくてはと飛び出したわけだが、そういう意味では拍子抜けする気持ちがなくもない。

 俺と出会ったことをサヤは喜び、サヤの両親も喜んでいる。結婚式のときだけじゃなく、はじめからそうだった。それが分かり、俺は嬉しくなった。

 次の目印は、どんなものだろう。俺は半分期待するような気持ちでサヤの家をあとにした。


 家の敷地を一歩出ると、また光と色が流れる風景だった。酔いそうになるけれど、少し慣れた。傘をまた開いて身体を宙に預け、次の目印に目当てを付ける。

 蝉が泣きわめく季節。それが泣き止んだ夜。昼間思い切り泣いた涙が空にへばりついたような星。都会の薄い夜のそこここに、それが光っている。

 きっと、これは結婚前の年の、花火大会だろうか。目印は時系列のとおりに並んでいるわけではなく、空の星のように散らばっているらしい。

 花火大会はいい思い出だ。俺はうきうきしながら気合を入れて新品の浴衣を着てきたサヤと、いつもと変わらない無地の半袖シャツの俺の後ろに降り立った。

 二人で屋台を回って、俺が焼きそばを気道に入れてしまって悲惨なことになって二人で大笑いして、サヤの新品の浴衣には手に持ったフランクフルトからケチャップが垂れてそれでも大笑いして、花火が上がると二人で口を開けてそれを見上げて、終わってからは立ち去る人の流れを遮る岩のようにいつまでも河原に留まってキスをした。

 俺の中の記憶は、楽しく幸せなものだった。

 俺は、この目印は二人の記憶の追体験だと思っていた。

 試練なんてないと思っていた。

 だけど、それは違った。試練と呼ぶべきかどうかは分からないが、実際の俺の記憶とはまるで違う出来事が起きた。


 咲耶は、俺に言った。水とは鏡であると。

 俺は、さっき思った。比良坂とは心の中の深いところにある、自分だけの領域なのだと。

 どちらも、その通りであるなら。

 そして、咲耶は言った。俺は、生きているのだと。

 はっとして俺は、腕時計を確かめた。花火大会の日は確か夕方の五時に待ち合わせたはずで、今、陽は暮れていてもまだ花火が始まっていないということは七時くらいだろう。それなのに、俺の腕時計は、三時過ぎを指している。

 これが、実際の俺に流れている時間。

 時間が経てば、俺の身体は、どうなってしまうんだろう。ここにいる状態で身体が死ねば、どうなるんだろう。そういう不安が、ふとよぎった。俺は生きているからこそここに来ているわけで、ここにいながらにして死んでしまうようなことがあれば、もしかすると、俺はまたあの何もない海に閉じ込められてしまうのかもしれないと思ったんだ。

 急がなきゃ。確信をもって、そう思った。それなのに、浴衣姿のサヤと味気も何もない格好の俺の前に、男二人が立ちはだかった。

 こんなの、俺の記憶にはない。俺は、焦った。

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