一人で過ごす二人の暮らし

 俺たちの奇妙な夫婦生活は、こうして始まった。一緒に暮らしてはいるけれど、一緒にはいない。料理は作ってくれるけど、一緒には食べない。寝るときも、サヤは椅子に座ってテレビを見ながら眠る俺を見守るだけ。こんな夫婦、聞いたこともないけれど、とにかく俺はサヤがいると感じられるだけで幸せだった。


 カップ麺以外のものを口にし、伸びっぱなしの髪を切り、服もちゃんとしたものを着ると、なんだか俺の方が生き返ったみたいな気持ちがした。サヤは、

「わたしがいないと、駄目ね」

 と呆れたような顔をするが、それもまた嬉しい。

 外に散歩に出たり、食材を買いにスーパーに行ったり。普通の人にサヤは見えないから、俺はでかい声で独り言を言って笑うヤバい人に映っているんだろう。

 そんなの、関係ない。世の人がどう見ようが、俺にはサヤがいる。俺がそれをやめてしまえば、サヤはいったいどうなるんだ。

 残された時間がどれくらいあるのかは分からないけれど、二人で生きるんだ。そう思い定めると、仕事なんてしなくても焦ることもない。

 人間、いつかは、どうせ死ぬんだ。思うように生きて、ただサヤと楽しく過ごしていたい。そう思うことは、悪いことじゃないはずだ。


「ねえ、耕太郎」

 サヤが戻ってきたときは毎年必ず来るはずの春を通り越してやってきた早すぎる夏みたいな名前のない季節で、空気を読んだ蝉がいつ鳴けばいいのかと出番を窺っていたが、それが鳴き始める前に必ずやってくるはずの雨の季節がやっと顔を覗かせた頃、サヤはぽつりと言った。

「楽しい?」

 俺は、即答した。

「楽しい。明日は、どこに行こうか。そうだ、どっか温泉でも行く?宿泊費は一人分だけで済むし、いいんじゃない」

 サヤは、なぜか悲しそうに笑った。

「耕太郎、貯金は?」

「貯金?まだあるけど」

 俺のもっぱらの生活費は、仕事の報酬から貯めたわずかな貯金と、サヤの死亡保険金。それを切り崩して生きているが、いつまでも続くわけはない。だけど、サヤにいのちをくれてやって早死にするのなら、お金にこだわる必要もない。

「冬だったら、カニが食べたいけどな。やっぱ肉かな」

 俺の頭の中はもう温泉とグルメのことで一杯だった。サヤがいなければ近所のコンビニに行くのも億劫だと感じていたものが、大した進歩だと思った。だけど、サヤは、やけに真面目な顔だ。

「ねえ、耕太郎。仕事しないんだったら、節約しないと」

「何だよ、急に」

「毎日一緒に過ごすのはいいけど、仕事せずに贅沢してたらお金どんどん減っていっちゃうよ。だから、ちょっとは節約しないと」

 なぜサヤがそんなことを気にするのか、俺には分からない。どうせ死ぬんだ。節約したって、どうなるわけでもない。だけどサヤの悲しそうな顔を見ると自分の意見を言い出せず、俯いて黙るしかなかった。


 それから、サヤは俺が眠るときはテレビを点けずに読書をするようになった。電気代を節約するつもりらしい。スーパーに行っても俺が不必要にカゴに放り込むものを選び分け、ちゃんと献立に沿った最小限のものだけを買うようにした。

「ごめんね、耕太郎。せっかく選んでくれたけど、腐らせちゃうから」

 その度、そう言って申し訳なさそうにした。できた妻というのはサヤのことだが、サヤがそうやって幽霊になってまで俺の世話をしなければならないというのはあまりにも悲しいことだと思うくらいの良心は俺にもあるから、ただただ申し訳ない。

 どうしてサヤがそんなに倹約家になったのか、よく分からない。生きていた頃は俺が大きな仕事をしてまとまったお金が入ったら旅行に行き、季節の度に新しい服を買い足し、正直言って二人して節約とはほど遠い生活だった。確かに、結婚前で俺にお金がなかった頃はサヤが頑張って節約してくれて、バイトにも出てくれて、おかげで結婚資金を貯めることができたんだけど、今お金の心配をするというのがどうにもしっくり来ない。違和感はあってもそれを口に出すとなぜか喧嘩になりそうな気がして、俺はその度に曖昧に返事をして誤魔化して過ごした。


 一方で、サヤは自分がいなかった一年間に起きた出来事についてのニュースなどにとても興味があるらしく、

「え、あの俳優さん離婚しちゃったの?」

 とか、

「こんな大きな事故があったんだね」

 などとテレビに向かって呟いている。サヤの服は全部捨てずに取っておいてあったから、着るものに困る様子はない。死んだから眼鏡はいらないはずなのにいつも眼鏡をしているが、それはサヤが思う自分の姿なのだろう。俺にとっても、なぜか眼鏡をかけたサヤというのはしっくり来るものだった。

 あれからの数週間、一度もサヤに触れてはいない。触れればどうなるか身をもって味わったわけだから、触れようとは思わない。それでも、朝起きてサヤが着替えている後姿を見たりすると堪えかねるものがあるが、下手なことをしてもう二度とサヤと一緒に過ごせなくなってしまえば元も子もないから、ひたすら我慢するしかない。俺のそういう視線に気付いたら、サヤはやっぱり悲しそうに笑って俺の視界からそっと外れる。

 夫婦なのに。そう思うと歯がゆいけれど、仕方ないと自分に言い聞かせるしかない。


 思えば、戻ってきて以来、サヤは悲しそうに笑ってばかりであるような気がする。たまに生きていた頃みたいに顔をくしゃくしゃにして笑うこともあるけれど、そういうときは本当にほっとする。

 あの神社にまた行ってみようという気にはなれない。何か新しいことが分かるかも、とサヤはたまに言うが、行けばどうせまたサヤは悲しい顔になるに決まっている。

 それよりも、どうこの生活を楽しむか。そういう方向に頭を使う方が、建設的だと思う。俺は本屋に行って、近場で色々楽しめるところがないかガイドブックに目を通してみることにした。


「夏、間近!夏はやっぱりお化け屋敷」

 遊園地なんて悪くないかもと思ったが、幽霊のサヤと一緒にお化け屋敷っていうのも妙な話だと思い直し、別の選択肢を探す。

「日帰りで行く箱根の大人旅」

「今、小田原のグルメがアツい」

「もう一度行きたい、鎌倉」

 どれも、ありきたりだ。ちょっと足を運んで熱海や富士山というのも悪くないが、どうせならサヤの行きたいところに行く方がいいと思い、複数の旅行雑誌を手に取った。

 そこで、ふと思った。サヤの行きたいところは、どこなんだろうと。

 生き物についての研究をしていたから、水族館や動物園。案外歴史好きなところもあるから、旧跡巡り。そうやって想像することはできるけれど、サヤならきっとこう考えるはずだという明確な答えが何一つとして浮かばない。

 俺は、自分で思っているより、サヤのことを知らないのかもしれない。そう思うと、ちょっと落ち込む。

 だけど、どこか気晴らしに出かけて二人で楽しく笑い合えば俺のつまらない落胆もサヤの不安もきっと吹き飛ぶ。そう思い直し、レジに向かう。


 本屋の店員というのはどうしてこう地味なんだろうなどと漠然と思いながら言われた金額を支払い、ポイントカードは要りませんと断り、雑誌を受け取る。受け取るとき、その店員と目が合った。

「――保科くん?」

 どうして俺の名前を知っているんだろうと思い記憶の検索エンジンをフル稼働させると、有力な候補に行き当たった。

「もしかして、村上?」

 同じ静岡が地元の、高校のときの同級生だった。昔から本が好きな地味な女の子で、本屋の店員がよく似合う。東京にほど近いこの街に出てきて、好きな本屋に就職したのだろうか。

 当時は口数が少なくて、幽霊とかいうあだ名であんまり女子のグループには馴染めないようだった。ただ意外にも陸上部で、体育祭なんかの短距離走のときは誰もが唖然とする速さでグラウンドを駆け抜けていたのを思い出した。

 あと、この村上と共有できる記憶といえば、彼女が趣味で書いていた小説を雑誌に投稿したという話がどこかで広まって、それまで彼女を幽霊と呼んでいた女子たちが、センセイ、と呼んでからかっていたというような、ろくでもない内容だけだろう。

「すごい。久しぶり。結婚したって聞いたけど」

 こういうタイプは、苦手だ。距離感というものが分かっていない。店員として俺に接していたときはほんとうに生きているのかと疑わしくなるくらいに声も小さく、気配も薄いくせに、いざ知り合いだとなると俺がちょっと引いているのにも気付かず興奮ぎみに早口でまくし立ててくる。

「ああ、まあな」

 と、俺は早くこの会話を切り抜けるための糸口を探るしかない。

「そっか、奥さんと旅行?」

 俺が旅行雑誌を複数購入しているのを指し、くすくすと笑った。奥さんを喜ばせるために旅行先についてひそかに研究するいい旦那に映ったかもしれない。

「わたし、同窓会にも行ってないから。卒業以来ね」

 確かに村上は同窓会に呼ばれても行くようなタイプではないだろうが、俺も当時は金髪の長髪バンドマンで髪を切れとしょっちゅう生徒指導室に呼ばれていて正直浮いてしまっていたから、校内でさほど仲のいい友人もできず、同窓会の案内すら来ない。

 そのことを言うと、村上は声を上げて笑った。

「そうだった。保科くん、誰ともつるまずにいつも一人で過ごしてて。ちょっと怖かったもん」

「いや、ただ友達がいなかっただけだけど」

「なにそれ。笑える」

 高校のときは根暗で取っ付きにくい奴と思って必要が無い限りは会話もしなかったが、こうして久しぶりに話すと案外話せるものだ。そもそもこの一年、まともに人間と会話をすることすらなかったから、なんだか新鮮な気持ちだった。

 会話が途切れ、ようやく解放されるのかと思ったとき、村上がぽつりと言った。

「あのとき、助けてくれて、ありがとう」

「なにが」

「保科くんにとっては、何でもないことなんだろうけど」

 俺は、訝しい顔をした。昔から顔によく出るタイプだと言われるけれど、ほんとうに何を言っているのか分からないから仕方ないと思う。

「わたしが小説のことでみんなにからかわれたとき、保科くん、助けてくれたんだよ」

「そんなこと、あったかな」

 覚えていない。センセイ、センセイ、と面白がってからかわれ、顔を真っ赤にして俯いていたのは覚えているけれど、俺が助けたというような記憶は消し去られていた。

「あったの。わたしの隣の席にいきなり座って、いいじゃん、先生。って。それからわたしを取り囲む子たちを見回して、小説を書いて投稿するなんて、とても俺たちにはできることじゃない。なあ、こん中で、一人でも小説書いて雑誌に投稿した奴いるのかよ、って。そしたら、女の子たち、唖然としちゃって。おかしかった。自分のしていることを、信じていいんだって思えた。誰に笑われたって、自分が信じられることができるということは幸せなんだって思えた」

 そういえば、そんなことがあったかもしれない。たぶん、俺のことだから、バンドのライブに全然客も集まらず、同じように自分の才能を努力という砥石でもって磨こうとする創作者を、何もしないくせに指差してあれこれ言う連中が気に食わなかっただけだったんだろうと思う。

 あとは、べつにレコード会社に音源を送るとか大きなコンテストに応募するとかいうことをせず、静岡の小さなライブハウスの中で小鳥みたいに吠えることしかしない自分よりも、この村上の方が遥かに目標に向かって具体的な行動をしているということにコンプレックスを感じたのかもしれない。


「じゃあ、いい旅行先見つけて、奥さんを楽しませてあげて」

 さすがに喋りすぎだと思ったのか、村上は顔を赤くして話を終えた。

「そう言うお前は、彼氏ナシだろ」

「ひどい。でも正解」

 冗談を言って笑い、きっと奥さんは喜んでくれるよ、という言葉に励まされ、俺は軽い足取りで本屋を出た。思わぬところで地元の匂いを運んで来られると、嫌が応にも嬉しくなるものだ。


 アパートに戻ると、隣の部屋の女子大生が俺を見つけ、さっと目を逸らして部屋に入っていった。最近、俺の部屋から話し声がするから、俺がでかい声で独り言を言っているとでも思っているのかもしれない。二人で過ごしているけれど、一人。やっぱり、妙な感じがする。

「サヤ。見て」

 家に入った俺は本屋で再会した村上のことも部屋の前で浴びた視線のことも忘れ、洗濯物に勤しむサヤにさっそく旅行雑誌を広げて見せた。

「どっか行こう。戻ってきてから、暗い顔をしてばっかりじゃないか」

「嬉しいけど、でも――」

「いいのいいの。節約も大事かもしれないけど、たまには気分転換も必要だろ?二人で思い切り楽しんで、それから、今後どうするかゆっくり考えよう」

 サヤは旅行雑誌のページをぱらぱらとめくり、

「うん」

 と笑った。急に始まったサヤの倹約家に勝ったような気がして、やっぱり、サヤの笑顔はこうでなくちゃ、と俺は胸を張りたい気分だった。旅行に行っても、世の人からすれば男の一人旅。それでもいい。間違いなく、俺にはサヤがいる。

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