その先の話

 サヤが行きたいと示したのは、遊園地だった。俺たちがはじめてまともにデートをした思い出の場所だから、ということでそこに行きたいらしい。ありきたりで少しがっかりする思いもあったが、俺は快諾した。


「付き合いたての頃、なかなか時間取れなくて、一日一緒に過ごすなんてほとんどなかったもんね」

 楽しそうに着替えながら、思い出話をするサヤ。たしかに、あの頃はサヤも学生で俺はバイト漬けの日々で、たいていサヤの学校が終わってから、俺のバイトの合間の時間があれば会うというような具合だった。なんでもかんでも得ようとする俺の強欲がそうさせたと言われれば言い返すことはできない。それくらい、サヤには迷惑をかけた。ほんとうは、もっと周りのカップルみたいにゆっくり休日を過ごしたり、あちこち遊びに行ったりしたかっただろう。

 学校の友達と、そういう話になったこともあっただろう。

「サヤちゃんの彼氏って、どんな人?」

 そういうとき、サヤは何て言ったんだろう。

「わたしの彼氏は優しくて、わたしのために時間をたくさん作ってくれて、お金も出してくれて、いっつもわたししか見ないで片時も離れずに――」

 なんて言う友達の話を、どんな顔をして聞いていたんだろう。


 俺だって、いつまでもわがままに過ごしていたわけじゃない。ちょうどその頃は、サヤのことがあるから、メンバーとも相談し合っていっこうに芽の出ないバンド活動にも区切りを付け、みんなそれぞれ就職したり実家に帰ったりして、俺はちょっと手持ち無沙汰だった。ふと、このままいつまでも永久にバイトをし続けて歳を取っていくのかと思うとこめかみが寒くなり、どうにか手に職が付かないかとあちこちにアプローチを始めた頃だった。


「そういえば、あの日も雨だったね」

 俺たちは、とことん雨に降られる。はじめて出会った日も付き合い始めた日もはじめてのまともなデートもはじめての旅行も、全部雨。結婚式のときは雨は降らなくて奇跡だと騒いだのを昨日のことのように覚えている。

 サヤの葬式のときも、雨だった。あの雨の冷たさは、きっと一生忘れられない。

「で、今日も雨。記念すべき、サヤが死んでからはじめてのデートだ」

「なにそれ、ひどい」

 こうして笑っていると、ほんとうにサヤは死んだのだろうかと思うくらいだ。眼鏡の向こうの目が糸みたいになるくらいくしゃくしゃにして、頬に名前のない線を浮かび上がらせて大口を開ける笑い方は、昔と何も変わっていない。

 でも、俺の腕にあるサヤのくれた時計は、止まったままだ。

 そういう気持ちに駆られ、あわてて楽しいことを考えて振り切ろうとする。

「どうせなら、もっと大きい遊園地でもよかったんだけどな」

「ううん、あの遊園地がいいの」

 近場の、今にも潰れそうな小さな遊園地。古いコーヒーカップや音楽と同じくらいの音量で軋みを上げるメリーゴーランド、起伏とスピードの足りないジェットコースターくらいしか見所がなく、たまに戦隊ヒーローのイベントなどで家族連れが集まる以外は、どうしてこの世に存在しているのかまるで分からない。

 あの頃はお互いお金もなく、こういう近場の安いスポットをあれこれ巡ったもんだ、と思うと感慨深いから、あの遊園地は俺たちの思い出に救われているとも言える。


 バス停で、バスを待つ。ちゃんと、駅の方に向かうバスが来た。比良坂ゆきのバスは、もうご免だ。俺はほっとした思いでサヤに続いてバスに乗り込み、一人席に座る。その脇に立つサヤのことが見える者は、いない。停留所に着くたび、たしかにそこにいるはずのサヤを人は通り過ぎて降りてゆく。俺を見て歯を横並びにして苦笑するサヤに笑い返すと、子連れの母親が俺を変質者でも見るようにして睨み、足早に通り過ぎてゆく。

 駅に着いても、切符は一人分。バスのことがあったから、俺も初めから座席には座らず、外の景色が見える位置に立つことにした。


 サヤは、よくお年寄りや子連れの人なんかに席を譲っていた。さりげなく、

「ここ、よかったら」

 とだけ言い、相手に遠慮してしまう隙すらも与えずに席を立ってしまうのだ。その譲りっぷりがなんともクールで惚れ惚れしたものだが、今はこの車両にいながらにして誰にも認知されることはない。

 そういえば、俺以外の人間は、サヤと接触しても平気らしい。今だって車両の中でサヤの存在に気付かずに多くの人がサヤを通り過ぎている。藤代神社の連中は俺のいのちを原動力にしてサヤは現世で活動していると言ったが、動力源以外の人間には全く影響がないらしい。


 よく、テレビなんかで、霊に取り憑かれた、なんて言う。幽霊が自分に干渉を持つことで体調を崩したり病気になったり死んでしまったりというような類の話だ。藤代神社の二人は気を使って原動力、なんて言葉を使ったが、今の俺はサヤに取り憑かれている状態以外の何でもないんだろう。

 見ず知らずの地縛霊なんかに取り憑かれれればたまったもんじゃないが、そこはサヤだから気にならない。


「よかったら、どうぞ」

 線路の弾みの上に立つ俺にそう声がかかり、思考はぼんやりと遊ばせていた窓の外から目の前の席にゆく。

 見下ろした先には、年老いた女性がいて、席を立って譲る仕草をしていた。

「いえ、結構です」

 こんな老婆に席を譲られるほど、弱ってはいない。俺は苦笑いをしながら両手をひらひらさせて固辞した。

「でも、あなた、大変でしょう?」

 女性の視線が、サヤの方にゆく。

「見えるんですか」

 サヤが思わず問いかけるが、女性はにこにこと微笑みを抱いたままである。

「彼女が、見えるんですか」

 俺が、代わりに訊いてやる。

「いいえ、見えはしないけれど、うっすらと感じるの。おじいさんが亡くなったとき、同じだったから」

 電車がたまにする、カーブに差し掛かるときのひっそりとしたいななきとちょうど同じくらいの声量で、女性は言う。

「一緒にいるのは、あなたの奥さん?」

「ええ、そうです」

「そう。まだお若いでしょうに。大変ね」

「おじいさんが亡くなったとき、同じだったって?」

 サヤが、俺に通訳を求める。

「おじいさんが亡くなられたとき、やはり?」

「ええ。少しの間、一緒に過ごすことができたわ。わたし、そのときちょうど腰を悪くしていたから。おじいさん、自分は癌で亡くなったくせに、お葬式から一週間後、わたしの腰が心配だって言って戻って来てしまったの。ほら、息子もずっと海外だし」

 一人になってしまう妻を気遣い、現世に戻ったのだろうか。戻る人というのは、やはり何かしら現世に後ろ髪を引かれるものがあるのだろう。

 だとすれば、サヤは堕落して無気力に過ごす俺を見かねて戻ってきたというわけだから、なんだか情けない。

「わたし、言ったの。振り返っちゃだめだって。わたしのおばあさんが、そう言い聞かせたものよ。だけど、おじいさんたら、それを知っていたくせに、わざと振り返って。わたし、とても怒ったわ。だけど、とても嬉しかった」

「おじいさんは、そのあと?」

 俺が気になるのは、そこである。俺たちが、この先どうなるのか。

「どうして戻ってきたの、って怒りはしたけれど。はじめ、とても楽しく過ごしたわ。だけど、やっぱりわたしの負担になると知って、これ以上一緒にいるべきじゃないと自ら旅立ってしまったわ」

「そう、ですか」

 サヤが、深く息をする。何か思うところがあるのかもしれない。

「お婆さん、寂しくなかったんですか」

「ええ、そりゃあもう。だけど、亡くなった人が生き返ることはないの。あの人が、わたしにできるだけ長く、健やかに生きてと願ってくれたから、わたしはこうして今生きていられる」

 俺は、そう思えるのだろうか。サヤのいない世界にしがみついて生きていく意味を見出すことが、できるのだろうか。

「ほんのわずかな間だったけれど、おじいさんが戻ってきて、ほんとうに嬉しかった。あなたを見て、今日もおじいさんのことを思い出したわ。ありがとう。おかげで、今日はいい日。あしたも、きっといい日になると思って、過ごすことができる」

 女性は俺にはとてもできそうにないやり方で笑顔を残し、自分が降りるべき駅で降りていった。


 遊園地の駅まで、無言。お互い、何かを考えている。だけど霧の中を手探りというような具合だから、口には出さない。二人とも黙るというのは、俺たちの場合、そういうことだ。

 だけど、電車は、俺たちが何を考えて何をしようとも俺たちを遊園地に運んでゆく。自ら選んで切符を買い、乗車したのだから当たり前だ。

 遊園地に着けば、遊ぶしかない。遊ぶなら、楽しむしかない。

 お互いに思うところはあっても、この世界の中にサヤは存在しないのだとしても、さっきの女性のようにサヤを感じることができる人は必ずいる。

 そして、何より、サヤは俺の隣にいる。今は、それだけでいい。それしかない。あの女性のように何かを見出し、あんな表情で笑うことができなくても、構わない。

 開園時間にはまだ少し早いらしく、係員の姿はあるが門は閉ざされている。

 俺はちらりと止まったままの腕時計に眼を落とした。そうしてから、その行為に意味がないことをまた知った。


 しばらくして、門が開かれた。

「さあ、サヤ。行こう」

 サヤにもやはり女性の言ったことに何か気にする部分があるらしく、わずかに顔を曇らせている。

「行こう。思いきり、楽しもう」

 俺は周囲の人がまた危ない人を見る目になるのにも構わず精一杯の声を出し、駆け出した。

「──うん」

 サヤも笑って、俺のあとに続いた。

 いくら潰れかけの遊園地だと言っても、俺たち以外にも客はいる。カップルもいるし、きっと昔からここに来ているんだろうというような熟年夫婦の姿もある。子連れもいれば、一人で来ている人もいる。

 それぞれ、何かの理由と動機があって、ここに来ている。

 アトラクションは、少ない。魅力的でもない。すぐに遊び尽くしてしまうだろう。だけど、ここにいる人は、日本一の高低差を誇るジェットコースターや最新技術を駆使したデジタル制御の乗り物を目的にするのではなく、この場所に来て時間を過ごすということ自体に意味があると思う人たちばかりなんだろう。

 俺たちは、少なくともそうだ。

 その先の話は、今の俺たちには語れない。ならば、今という瞬間を有効に過ごすしかない。こんなくたびれた遊園地だけど、それにはうってつけの場所だと思えた。

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