一人前のオムライス

 最後に来たときよりも、さらに遊園地は古びていた。俺の記憶の中のこの場所にも、実際は相応の時間が流れているんだと突きつけられているような気がしないでもないが、サヤとの思い出の場所だから思い切り楽しむ以外にない。

 話題は、否応なしにはじめてのデートのときのことに。


「耕太郎くん」

 と、当時はまだ俺を呼んでいた。それが耕太郎、と呼ぶようになったのはいつだったろうか。

 ファッション雑誌を見もせず、オシャレという大義によって塗り潰されることのない綺麗な黒髪に眼鏡の地味な女の子を、いかにもフリーターという具合の俺が連れ回すというのに一種の背徳感のようなものもあったかもしれない。

「そのコート、似合ってる」

 サヤは、顔を真っ赤にした。デートだから気合の入った格好をしているが、首から上はいつも通りだから着せ替え人形みたいで微笑ましかった。俺とデートに行くということにそうして気合を入れてくれているのが分かって、嬉しかった。

「ほんと?この前、お母さんと買い物に行ったときに買ったの」

 ライトグレーのチェスターコートは、見るからに新品だった。その下に着る茶色のチェックのワンピースにショートブーツというセンスも悪くない。

「雨だね」

 と、今さらのようにサヤは言う。間がもたなかったのかもしれない。

「雨でも乗れる乗り物だってあるさ。行こう」


 二人は、一つのビニール傘にくるまれて、遊園地の中に。

 大型遊園地や新しいテーマパークと違い、屋内アトラクションなんてない。コーヒーカップもジェットコースターも、霧吹きで吹いたみたいな小雨に濡れて、辛うじて動いていた。

 正月休みも大詰めというときなのに、他の客もきわめて少ない。

「なんだか、貸し切りみたい」

「潰れかけの遊園地だ。晴れてても、貸し切りみたいなもんだろ」

 あまりに殺風景な初デートをどうにか盛り上げようと気を使うサヤに対して、俺はムードも何もないことを言う。サヤはがっかりしただろう。

「バイト、休んじゃって大丈夫?」

「うん、大丈夫。今日は完全にオフにするって決めたんだ」

「でも、疲れてるのに出かけちゃって。ごめんね」

「何言ってんだ」

 思っていたデートと違ったのかもしれない。もっと華やかで、楽しくて、俺がどんどんリードして、というような初デートを期待していたのだろうが、実際は小雨が降って肌寒く、俺もロクなことを言わない。サヤは気まずくなっていたのだろう。

「俺は、今日、サヤに会いたいと思って一日空けたんだ。付き合いだして、普通に年越しちゃって、結局どこにも行かずじまいだろ。俺だって遊園地とか水族館とか動物園とか行きたいよ」

 俺が早口でまくし立てる調子に合わせて、サヤはだんだん笑顔になった。

 結局、キイキイうるさいメリーゴーランドに乗って、雨で煙ってなにも見えない展望台に登って、あとは園内を散歩して遊園地デートは終わった。


「だから、今日は、何か乗り物に乗りたい」

 俺は、あのときちゃんとデートをリードできずに終わったことを正直に詫び、リベンジを申し入れた。あれから、六年。メリーゴーランドは錆びが浮き、コーヒーカップはほんとうに乗って大丈夫かというような劣化を見せている。

「じゃあ、ジェットコースター」

 サヤ自身は初デートがパッとしないまま終わったことは大して気にしていないようだが、俺の提案に乗っかって、スリルとはほど遠い退屈そうなジェットコースターを指差した。

 係員が、男一人でジェットコースターに乗る俺に妙な視線を向けながら、安全バーを降ろす。もう事故が起きたのかと思うくらいの振動と軋みを上げ、車両が進む。

 係員にとっては俺一人のために動かすジェットコースターでも、俺の隣にはちゃんとサヤが乗り込んでいる。

 二人を乗せ、上がり、急降下。見上げているだけなら、これの何が怖いのかと思うほど退屈なコースだったが、いざ乗ってみると急すぎず緩すぎず、ちょうどいい。サヤも両手を挙げて楽しげに声を上げ、コースターに身を委ねている。

「すごいね。楽しい」

 他の遊園地にはもっとスリリングなものがたくさんあるが、サヤは絶叫系は苦手だと言ってあまり乗りたがらない。もしかすると、はじめてのジェットコースターだったのかもしれない。

「次、あれ」

 だんだん、サヤは乗ってきた。吹っ飛ばされそうなほどコーヒーカップを回して高笑いをし、座った椅子が遠心力で急旋回する乗り物にも乗り、一通りのアトラクションは楽しんだ。


 あの日の俺たちがこれを見ていれば、いくらか勇気付けられたかもしれない。初デートは不発でも、お前らちゃんと結婚するぞ、と高らかに言ってやりたい。

 正月の雨のデートはすぐに終わり、手持ち無沙汰になった俺たちは、そのあと俺の部屋に移動した。

「うち、来る?」

 と夕方から言い出すなんて、我ながらナンセンスだ。サヤの提案でスーパーに立ち寄り、食材を買い、俺がまともに使ったことのないキッチンでサヤが料理をしてくれた。

 俺の好みに合わせて焼き飯だとか豚肉の味噌炒めだとかをたらふく食い、テレビを見て、そのあとクリスマスイブ以来のキスをした。照れ屋だとばかり思っていたサヤは案外ぐいぐい来て、そのあとは自然な流れで俺たちのはじめてのセックスになった。

 てっきり男性経験なんてないとばかり思っていたが、それは俺の勝手な思い込みだった。いつも引っ込み思案にもじもじしているサヤが、むしろ俺をリードした。そういうことに長けているということに一瞬ショックを受けたが、俺は一体サヤに何を期待していたんだ、大学生なんだからそりゃこういう経験くらいはあるに決まってると思い直すと、それがかえって背中が痺れるほど快いものに変わった。


 ドラマや映画で見るみたいなロマンチックなデートなんかなかった。あの日のメインイベントは、遊園地よりもむしろ俺の家での料理と初セックスだった。あとは、そのあと終電の時間が迫っていることに気付き、二人で駅まで全力疾走したことか。

 今こうしてサヤと改めて過ごすと、つくづく思う。サヤは俺をひたすら支え、俺が心穏やかに日々を過ごせるためにあらゆる努力をし、研究者の道を諦めて大学院には行かずに卒業し、好きな料理はさらに腕を磨き、地味だった髪型を変えてコンタクトにし、ファッション誌をチェックして流行の服を取り入れた。

 俺が音楽で仕事ができるようにと色々なコンテストやオーディション、企業の募集なんかを調べてくれたり、出来上がった作品を郵送するのを手伝ってくれたりした。

 次はあれ、と俺の先に立って楽しそうに笑うサヤを見て、俺は情けなくなってきた。やっぱり、俺はサヤに何もしてやれていない。何もかも忘れて思い切り楽しむんだと息巻いて提案したのは俺なのに、サヤがかえって俺を元気付けている。


 遊園地の中に設置されたカフェテラスと呼ぶにはあまりに爺臭い食堂でオムライスを頬張りながら、俺はサヤに正直に打ち明けた。

「サヤ。色々ごめん」

「なにが?」

 サヤは目を栗鼠みたいにして俺を見上げた。

「俺、サヤに助けてもらってばっかりだった。初デートでこの遊園地に来たときからずっと、サヤをリードして過ごすことなんてなかった」

「なにそれ、急に」

 サヤは冗談だと思っているのか、茶化すような色を声に織り込んでいる。

「聞いてくれ、サヤ」

 俺は、スプーンを置いた。それを見てはじめて、サヤは俺に向き合って話を聴く姿勢を取った。

「サヤが死んでしまってから気付くなんて、遅すぎる。俺はサヤがいるのに自分のしたいようにして、過ごしたいように過ごして、サヤにばかり負担をかけていたと思う」

「そうね――」

 サヤが色々なことを思い返すような仕草を見せ、やがて視線をぎらりと俺に向けた。

「いつも言ってたでしょ。わたしはあなたのお母さんじゃないって。お母さんならあなたのお世話をしてくれて当たり前かもしれないけど、わたしは奥さんなの。脱いだものはそのまま、ふだん、わたしがあなたの料理を作ってあげるのは全然構わないけど、わたしが風邪を引いたときはあなたが代わってくれるわけでもなくコンビニ飯。たまに気を利かせて洗い物をしてくれても、どこか俺は協力的にしてやってるんだ、っていうような空気が抜けない。わたしたちのことを、自分たちのことと思わずに過ごしていたでしょ」

 思いもかけない槍の雨に、俺は言葉も出ない。やっぱり、サヤは俺のために苦労ばかりしていたんだ。分かっていたけど、改めてそれを本人の口から聞くと落ち込む。だけど、槍の雨は急に止んだ。

「だけどね、耕太郎」

 俺はスプーンに映る歪んだ天井と、その端に辛うじて存在する自分の像から眼を上げた。

「あの雨のコンビニで耕太郎がわたしを見つけてくれて、ほんとうによかったと思ってる。クリスマスのときに付き合ってくれって言ってくれて、そのあとカップルらしいことをしなきゃってデートを企画してくれて、嬉しかった。そのデートがあまりに下手くそで、すごく嬉しかった。ああ、この人は、どこまでいっても自分なんだなと思えて、そうするとわたしも自分でいていいんだ、と思えて、すごく安心した」

 サヤの家は教育が厳しい。お父さんは国家公務員、お母さんは元有名私立高校の教師。お兄さんは世界中に支社のある大会社で課長か何かをしているし、確か親戚に地方議員もいたはずだ。その中でサヤも当たり前のように偏差値の高い有名高校に進み、一流大学に進んだ。

 いつだったか、サヤは冗談混じりに言ったことがある。

 ――わたしは、奉仕精神の塊よ。小さい頃から、そう育てられているの。

 サヤの育った環境は傍目から見ればとても恵まれているが、その中でサヤは自分で何かを考え、決め、必要な行動をするという機会に恵まれずに育ったのかもしれない。もちろん、とても家族仲はいい。俺が傍目から見ていてびっくりするくらい垣根なく心のうちを明かしあうことができていた。

 だけど、俺ほど奔放に生きている人間を見たことなんてないのだろう。

「耕太郎は、ほんとびっくりするような人だった。わたしがそれまで少しの間付き合ったことのある人たちはみんな勉強熱心で、試験があるからわたしとは会えないって言ったり、自分が勉強に追われていないときはわたしの試験前でも呼び出したりして。でも、耕太郎は、ほんとに食べたいときに食べ、眠りたいときに眠り、笑いたいときに笑う人だった。必要なことだと分かっていても、それが面倒なら別の方法を探すことができる自由な人だった」

 わたしも若かったから、そういうところに惹かれちゃったの、と意地悪な視線を向けるが、それがサヤの愛情表現だということは俺の全身が知っている。

「バイトしないと生活していけないのに、それを犠牲にしてまで丸一日時間を作ってくれたり。大学まで迎えに来てくれたり。わたしがバイクに一緒に乗れるようにってわたしの分までヘルメットを買ってくれたり。あのヘルメット、耕太郎が被ってるのよりずっと丈夫そうでいいやつだったよね。わたしを後ろに乗せて、当たり前みたいな顔をしてわたしの実家にまで行って、自分でインターホンを押してお父さんに、お嬢さんを送ってきましたって言ったときは、ほんとにびっくりした」

「だって、サヤを連れ回しておきながら家の前でバイバイなんて、サヤの家族に対してフェアじゃないじゃないか」

 褒められているはずなのに、なぜか俺は口を尖らしてしまった。何を言っても言い訳のようなニュアンスになってしまうのは、俺の悪いところだ。

「ほんとうに、カッコよかった。不器用で下手くそで、普通の人ができることは何もできないくせに、他の誰にもできないことはできる。そんな人、見たことがなかった」

 でも、そのために、サヤは自分の好きなことをやめ、ただ俺のために生きるだけの人生を選んでしまった。俺がそのことを謝りたいと思っていることを分かっているらしく、言葉をさらに継いだ。

「だから、わたしは選んだの。わたしの知らない、わたしの求める世界の扉を開いてくれるこの人と、ずっと一緒にいたいって。わたしの全てを、この人と過ごすことに使いたいって。強制されて仕方なくそうするのと、わたし自身がそうしたいと思ってそうしているのとでは、大きな違いがあるの」

 俺が音楽に打ち込み、それで身を立てようとするように。それを曲げてふつうの会社に就職して安定した収入を得ようとはしなかったように。サヤは、自らの求めるべきこと、求めたいこととして俺と一緒に過ごすことを選んだと言う。


 雨は、止んだらしい。この湿気っぽい食堂の窓にこびりついたままの汚れの向こうから、うっすら陽射し。

 だけど、オムライスの皿がひとつだけ置かれたテーブルには、まだ雨が降っていた。堪えきれない、俺の涙だった。サヤは、よし、よし、と俺の方に手を伸ばし、決して俺には触れず、俺の頬を撫でるような仕草を見せた。

「今日のデートは、成功ね」

 俺は充血しているであろう目で窓の外を眺めて得意げに笑うサヤを見た。

「アトラクションにも乗れたし、二人の思い出をたどって、こういう話もできたし。これは、収穫よ」

 俺は、つられて笑顔になった。

 サヤがいてくれさえすれば、俺は何にでもなれる。

 だけど、テーブルの上のオムライスの皿は、一つだけ。それだけは、どうしようもない。

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