また、同じ雨へ

 サヤとの日常は、生きていた頃と変わらない。俺の収入が上がってからはサヤは専業主婦をしていたから、家事は全部やってくれる。

 俺一人になると、まるで駄目だった。何もする気にならず、部屋はただただ散らかってゆくのみ。サヤはせっせと汚れきった俺達の部屋を蘇らせた。


 幽霊でも、物には触れられるらしい。今も鼻歌混じりに味噌を溶いている。

 人に見えず、触れられないのは、サヤが現世に存在する上での関わり合いが無いからだろう。道具というのはそもそも物質だから、サヤ側からの関わりがある。動物も同じだ。散歩中に出会う犬なんかは間違いなくサヤのことが見えているし、サヤが触れても生命を奪われるような様子もない。

 人間の中では、俺だけが、サヤとの関わりを最も求めている俺だけが、サヤに触れることができ、触れれば生命を奪い取られてしまう。


 俺はサヤから、出来上がった味噌汁の椀を直接受け取ることもできない。指先ひとつでも触れれば、俺のいのちは即吸い取られてしまう。それは当たり前のことのようで、ひどく理不尽であるようにも思えた。

 サヤとの日常は、生きていた頃と変わらない。あれほどべったりとくっついて過ごしていた俺たちが、つとめて互いに触れないようにしている以外は。


 出会った日。付き合いはじめたクリスマス。そしてはじめてのデート。俺は、サヤとの日々を順番に追体験しているようだ。もしそうなら、次は何の日だろう。

 結婚式にはまだ早い。付き合っているときも、色んな思い出がある。俺たちの歴史を追うみたいで、なんだか楽しい。

 サヤが戻ってくる前、藤代神社で不思議な体験と共に過去の俺たちを見たという話をしたとき、サヤは神様の力だと言った。だけど、藤代神社の神様の力なんてなくても、俺たちは初めてのデートを追体験することができた。さらに、俺たちの思うようにアップデートすることすらできた。

 俺は、やはりサヤと一緒なら、何にでもなれる。


 次の思い出は、何だろう。いい思い出しかないから、どんな思い出がやって来てもさらに楽しく塗り替えられる。そういう根拠のない自信は、案外大事なものだ。というより、根拠のない自信だけが俺を支えてきたと言ってもいいくらいだ。

 そうしないと、俺は何かに押し潰されて駄目になってしまう。

 もし、俺たちの思い出を追いかけるのが神様の意思なんだとしたら、それを全て辿りきってサヤが死んでしまう日まで来たときに、俺も死ぬのかもしれない。一緒に死んで、一緒に黄泉に行けるならこんなに嬉しいことはない。そう上手くいくとは、思えないけれど。

 俺がそれを心底望んでいるのなら、俺は死を心待ちにしているということになる。死んでしまうということがどういうことなのか、死んだことがないだけによく分からない。だけど、サヤと一緒なら平気だ。

 一人で、お好み焼きにすらなれず、何でもないものになり、ただ消えてしまうのはごめんだ。そうなれば、サヤは悲しむ。だけど、サヤはすでに死んでしまっていていない。お好み焼きになればサヤという存在は一旦消え、また鉄板の上で調理されるのを待つだけになる。

 そうなれば、俺が消えたとしても、世界には何の関わりもないということになる。それは、少し寂しい気がする。前にも同じことを思ったような気がするけれど、誰かが今すぐ消えたとしても東京行きの電車は変わらずホームに来るし、外の雨は窓を叩くのをやめず、紫陽花は当たり前のような顔をして咲く。そういうものだと割り切ってしまうには、それはあまりにも悲しいことのように思う。

 それは、俺にとっての世界が、俺だけのものだから。だから、世界に対して片思いをするような一方通行の感情を抱いているということが虚しく、寂しく、恥ずかしいのかもしれない。そういう気持ちが、なぜか腹立たしさに変わって自分の血管の中をマラソンのコースのように決まった順路で駆け回るのは、俺だけじゃないはずだと思いたい。


 神様の力かどうかは分からないが、そんなどうでもいいことをただぼんやりと考える雨が続く日、それはまたやって来た。

 俺たちはスーパーで買い物を済ませ、二人並んで歩いていた。影は、買い物袋を提げる俺のひとつだけ。

「あれ」

 前方からやって来る人影が俺を認め、声をかけてきた。

「保科くん」

 本屋の村上だった。この前ばったり再会したとき案外盛り上がったから、その笑顔は親密なものだった。

「奥さんとのデート、成功した?」

 サヤが、訝しい顔を向けてくる。別にそんな顔をされるようなことは何もないが、妙な誤解が生まれる前にどうにかしておかなければならない。

「ああ、お前が働いてる店で買ったあのガイドブックを一緒に見て、色々選んだよ。しかしびっくりした。あんなところで、ばったり同級生に会うなんてな」

 妙に説明臭くなったが、おかげでサヤから滲み出かけている殺気は収まった。

「ほんと、びっくりした」

 俺は背中に大汗をかきながら、早くこの場を立ち去りたいと願った。しかし、村上はやはり俺を容易に解放しようとしない。

「でも、嬉しかった。またいつか話したいと思ってたから」

 俺は、死を覚悟した。あれほど死に恬淡とした自分がいるというようなことを語っておきながら、それを恐怖した。隣で貼り付けたような微笑を浮かべているサヤが、ゆっくりこちらを見たからだ。

「保科くんが結婚したっていうのは噂で聞いてたけど。どんな奥さんなのかな、ってすごく気になってた。あんまり学生時代は話したことがなかったけど、やっぱりすごく印象に残っていて。わたしに似てる、って思ってたのかも」

 何を言っているんだ、と思うが、何を言えばいいのか分からない。波に打ち上げられて陸に置き去りにされた蟹みたいに、ただ泡を吹くしかない。

「今日は、奥さんは?」

「え、ああ、まあ」

「じゃあ、もう少しだけ、いい?」

 サヤが、ぱっと駆け出した。何か勘違いをして怒ってしまった。村上をとりあえず適当にいなして、俺は慌ててサヤを追った。


 サヤは、公園のブランコを揺らしていた。誰も座っていないのにブランコが勝手に揺れているように見えるだろうから、子供が見たら泣くかもしれない。買い物袋と傘を持ったままだったから出足が遅れたが、追いつけてまずはよかったと思うべきだろう。

「サヤ。勘違いしないでくれ」

「同級生なのね」

「そう。高校のときの同級生でさ。村上っていうんだけど、こないだ本屋でばったり再会してさ」

「ふうん。で、可愛くなった同級生にデレデレしてるのね」

 まさか、そんなことはない。それははっきりと否定しておかなければならない。

「何言ってんだ。あんな地味な女。たまたま同級生じゃなかったら、誰が」

「わたしも、はじめは地味っ子だったわよ」

 どんどん俺の旗色が悪くなっていく。これが三国志のゲームなら、リセットしてもいいくらいの状況だ。

「興味がないなら、はっきりとあの子にそう言えばいいじゃない。どうして、思わせぶりな態度を取るの?」

 思わせぶりな態度を取ったような自覚はないし、村上がただ俺に妙な親近感を持っているだけだ。それを、どうやって理解してもらえばいいのだろう。


 そこで、思い出した。

 これもまた、俺たちの思い出だ。

 俺たちがまだ付き合っているとき、同じようなことがあった。そのとき複数人でつるんでいた中の一人の女の子に、交際を迫られたことがあった。

 もちろんサヤがいたからその子とは何もなかったけど、心のどこかで異性に興味を持たれていい気になっている自分がいた。

 興味を持つのは向こうの勝手、俺は別に何とも思ってない、と説く俺に、サヤは言った。

 ──女の子はね、目の前にいる男の人が自分に興味があるかどうかを見分けて接するの。高身長でも高学歴でも流行りの顔でもない耕太郎にその子が興味を持つのはどうしてだと思う?

 俺は、答えた。

 ──話が、面白いとか?

 サヤは怒りながら吹き出し、言い切った。

 ──その子には、耕太郎が自分に興味を持っていると思えているからよ。

 その真偽のほどは分からない。ただ、

 サヤの説くところは、こうだった。

 ──自覚して。わたしの彼氏だって。わたしには、耕太郎以外の誰もいないの。だから、不安にさせないで。別に友達と過ごすのを悪いとは思わないけど、心の中での線引きをしっかり持って、誰にでも向き合って。

 自分の社会的価値は、他者を通してしか測れない。だから、他者に認められていい気分になるのは人間として当然のこと。だけど、それをわたしに知られては駄目。わたしが、あなたを世界一の人だと一番思っているの。それだけじゃ不満だって言われてるみたいで、とても傷付く。

 そういうようなことを、サヤは言った。いつも、彼女は正直で率直で、真っ直ぐだった。それがまぶしくて、俺はいつも逃げるようなことをしてきた。

 いや、それもただの自己弁護だ。


 はっきり言って、忘れていた。サヤとの思い出は、楽しいものばかりだと思っていた。だけど、こんなこともあったんだ。

 忘れていたというのも、サヤにしてみれば減点対象だろう。自分が心から願ったことを俺は忘れ、同じ不安を与えたのだから、俺の罪は深い。

 偶然なのか神様の力なのかは分からない。だけど、俺はあのときから何も成長しないまま、今ここにいる。


 サヤは、言う。目に涙をいっぱい溜めながら。

「わたしは、死んでいるの。何をどうしたって、あの子に勝てない。わたしは、耕太郎に触れることすらできない。あの子を突き飛ばすことも。わたしは、もう死んでいるのよ」

 そのまま、俺たちは会話もなく家に戻った。スーパーで買ったものを無言で冷蔵庫に片付け、腰を落ち着けた。

 ドアの音。

 俺は、弾かれたように玄関に眼をやった。

 念のため、狭い室内も。

 サヤの姿が、無い。

 どこかに出て行ってしまったらしい。

 俺はまた雨の中、ビニール傘を開いた。ずっと、雨が続いている。俺たちの思い出は、いつも雨の中のこと。

 それを追いかけるようにして、俺は必死で駆けた。

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