第三章 帰る

行き先のないバス

 どれだけ呼んでも、答えはない。公園も、コンビニも、喫茶店も。思えば、サヤが死んでから、ずっとそうだった。どれだけ名前を呼んでも、サヤはずっと薄っぺらい紙の中で変わらぬ笑顔を貼り付かせているだけだった。

 サヤは、死んだんだ。だから、呼んでも答えるはずがないんだ。

 俺は、やっぱり、サヤがどこに行ったのか見当をつけることすらできなくて、それでもサヤが決して俺の見えないところに消えてしまったということだけが分かって、ただアスファルトの上に膝をつくしかなかった。


 雨から俺を守るビニール傘が、視界の中に転がっている。それを見つめるうち、俺の衣服も濡れていく。ビニール傘のすぐ脇には、水たまり。情けなくうなだれた男の像が、雨に打たれて歪んで映っている。

 水は、鏡。巫女の咲耶の言葉が、雨音に混じって蘇った。

 離れる。俺から、遠ざかる。サヤが選んだのは、そういうことだ。だとすれば、サヤが帰るのは俺たちの家ではなく、黄泉への道。


 俺は、駆けていた。傘も置き去りにして、飛沫だけを残すようにして駆けていた。そしてバスに飛び乗っていた。

 バスの乗客はやはり俺を一瞬怪訝な顔で見ただけで、自分の世界であるブルーライトの光の中に戻っていった。

 思い出の追体験。そこで俺が見たものはサヤが生きていた頃の幸せな記憶と、情けない俺自身の姿。俺の記憶が鏡になり、俺は、俺を見た。

 サヤ。俺のすべて。そう思っていた。だけど、俺は心からサヤを愛しながら、結局自分の都合のいいようにしか愛せていなかった。

 今なら、まだ間に合う。サヤは死んでしまったが、たしかに俺の前にまた現れたのだ。誰がなんと言おうと、その奇跡という名の事実は、神様が俺に与えた最後のチャンスなのかもしれない。


 バスは俺を苛立たせるには十分なゆっくりとした速さで雨を掻き分け、鳥居前のバス停で俺を吐き出した。

 俺は、古ぼけた商店街を抜け、石段を鳴らしながら駆け上がり、濡れた砂利を踏んだ。小高い丘の上にあるこの神社まで来ると、雨が止んだ。

「いらしたのですね」

 なかったはずの声が、突然降ってきた。俺は例によって体をびくつかせ、振り向いた。

「咲耶さん」

「追って来られても知らないと言うように、と言われているのですが」

「サヤは、やっぱりここに来たんですね」

「ええ」

「来て、どこに」

 咲耶は、悲しげに微笑み、首を横に振った。

「言えよ。俺には、サヤしかないんだ。こんな形で別れてしまったきり二度と会えないなんて、あんまりじゃないか」

「あなたは」

 咲耶の真っ黒な瞳が、人形のように虚ろな輝きを宿した。この目が、苦手だと思った。これほど可愛らしい顔立ちをしているのに、どうしてこれほど恐ろしいものであるような気がするのだろうと思っていたが、ひとつにはこの目のことがあるのかもしれない。

「あなたは、追いかけて、どうするおつもりですか?」

「決まってるだろ。連れ戻す」

「どこに?」

「俺のところに」

「サヤさんは」

 風が吹いた。雨とは違う、水の匂いも。

「あなたが追いかけても決して届かぬところに、もともといたのです」

「そんなことない。一年前まで、サヤは確かに俺と一緒にいた。死んでしまったけど、また俺のところに戻ってきた」

「そして、あなたの勝手でまた手放した」

 俺は、言葉に詰まった。実際、その通りだ。これまでも、サヤが戻ってからも、俺は一体どれだけサヤのことを考えて生きてきただろう。

「いつも、自分の勝手。あなたがサヤさんを側に置いておきたいのは、あなたを助けてくれるから。あなたが、何もしなくてもよくなるから。あなたは、同じだけサヤさんを想いましたか。無償の愛の上にあぐらをかき、寝そべってはいませんでしたか」

「うるさい」

 そうとしか言えない自分が、悔しかった。こんな若い子に言われなくても、自分が一番よく分かっている。だから、追いかけてきた。

「求めるなら、応えなければ。応えるために、求めなければ。願わなければ。そして、叶えなければ。あなたの願いを叶えるのは神や仏ではありません。ましてや、サヤさんでもありません」

 あなたの願いを叶えるのは、あなたなのです。

 咲耶がそう言い、人形の瞳を向けてきた。俺には、それに強く反発するような心が芽生えていた。

「どれだけ祈っても、拝んでも、サヤが生き返ることはない。だけど、俺はこの奇跡を、俺だけのものにしたくはない」

 そう言うと、咲耶はまた困ったように笑う顔に戻った。同時に、水の匂いも消え、世界はただの雨上がりの神社に戻った。

 咲耶が、石段の下を指す。

「あなたが降りてきたバス停。そこで、サヤさんはバスを待っています。自らが乗るべきバスを」


 俺は振り返ることなくまた駆け出し、石段を降りた。そしてまた来た道を戻り、鳥居前のバス停へ。

「サヤ!」

 雨は上がったのに開いたままのビニール傘に向かって、呼びかけた。それは一瞬びくりと動いて静止したが、やがてゆっくりと振り返った。

「耕太郎」

 俺の姿を見た瞬間、サヤの瞳には涙が浮かんだ。そして、クラクションの音。

 あのバスが、来てしまった。

「どうして、来たの」

「来るさ。このままお別れなんて、ありえない」

「来ちゃ、駄目なのに」

 何が駄目なもんか、と言ってやりたいところだったが、サヤの目からぽろぽろとこぼれる雨を見ると、ただ柔らかく笑うしかなかった。

「わたしは、ここにいちゃ駄目なのに」

「そんなことない」

 俺は、俺たちを隔てるわずかな距離を詰めた。そして力いっぱいサヤを引き寄せ、抱きしめた。

 バスが、来た。乗車ドアを開き、サヤが乗るのを待っている。

「駄目。やめて、耕太郎。あなたのいのちが」

「やめない。これまで俺は、お前のために俺の時間や労力を何一つとして使ってこなかった。お前が、俺と一緒にいるだけで幸せと言ってくれていることに満足し、甘えていた」

 どうにか俺を放そうと、サヤは力いっぱい抵抗をした。俺はどれだけサヤの腕に俺を遠ざけようとする力が加わろうとも、決して放さなかった。

「全部俺の勝手だった。戻ってきてほしいというのも、全部。幽霊になってまで、俺はお前に俺の保護者であることを求めていた」

「耕太郎――」

 サヤの力が、弱まってゆく。

「勝手ついでだ。自分のことしか考えずに家で仕事しているくせに家事もしないで散らかしてばかりで、気が向いたときだけ仲良くしようとして、お前が死んでしまったら俺の側にお前がいなくなってしまうことが嫌で泣き喚いて、お前が見つけてくれた俺の生きる道も手に付かず仕事もしないで放り出して毎日食って寝るだけの生活をして、お前に戻ってきてくれと神様に願って戻ってきたらきたでまた同じことを繰り返して」

 バスが、じっと待っている。サヤを。いや、俺たちを。

「どこまでもクズでしかない俺だけど、お前のことが好きで好きでたまらないっていうことだけは確かなことなんだ。これからの人生でお前を幸せにして、何かを取り戻すことなんてできないけど、でも、今、これまでの俺を見つめて、その上でお前を抱きしめることはできる」

「耕太郎」

 サヤが、俺の背に腕を回した。そして、昔みたいに、そっと俺を包んだ。

 なんて冷たい腕なんだろうと思った。雨に濡れていてもなおそう感じるくらい、サヤは冷たかった。

「サヤ。もういちど、言わせてくれ。愛してる」

 はっと気付いた。

 これは、俺が言ったプロポーズの言葉だ。


 レストランを予約し、食事をした。サヤはもちろん俺がそこで何をしようとしているのか感付いていたが、俺はやはり勇気が出ずに食事が終わってもまだもじもじしていた。

「耕太郎、わたしのこと、愛してる?」

 サヤは少し困ったように笑い、そう言った。

「もちろん、愛してる」

「そう」

 サヤは、黙って待った。だけど、俺はどうしても鞄の中に入れていた指輪のケースを取り出すことができず、さらに時間が経った。

「耕太郎、ごめんね。終電に間に合わなくなるといけないから」

 サヤが悲しげにそう言い、席を立ったとき。俺は、言った。

「サヤ。もういちど、言わせてくれ。愛してる。お前と出会って、俺は駄目な自分でも頑張って生きていけばいいんだと思えるようになった。バンドがだめでも、何もできなくても、お前を守ることならできると思えるようになった。だから、結婚してくれ。俺の人生の全てを使って、幸せにさせてくれ」

 ありきたりな言葉だった。それでもサヤは見る見る涙を浮かべ、やがて声を上げて大泣きをし、店の人や周りの客を驚かせた。

 そのとき、鼻水を垂らしながらサヤの言った返答は、こうだった。

「駄目でもいいよ。できなくてもいいよ。耕太郎なら、きっとわたしたちのために色んなことに向き合って、成長していってくれると思うから。そして、自分で自分のことを駄目だと思わなくてもいいような人になって、わたしとあなた自身を守れる人になれるから。わたしは、今もそのときもその後も、あなたのそばにいたいの。それだけが、わたしの望み」


「耕太郎、わたしのために死んじゃ駄目。こんな風にして死ねば、あなたはもう生まれ変わることすらできなくなるってあのお爺さんが」

 サヤがそう言った瞬間、俺の身体が浮かび上がった。俺の名を呼ぶサヤから手が離れて、空気そのものになったように、ゆったりと。そしてそのまま、口を開いたバスに吸い込まれてしまった。

「耕太郎!」

 サヤは俺を追いかけようとしたが、すぐさまバスの扉は閉まり、発車してしまったから、一緒に乗ることはできなかった。

 必死で俺を呼ぶサヤ。

 それを容赦なく置き去りにするバス。

 俺は、行き先を確かめた。駅方面でも俺たちの家方面でもサヤが向かうべき比良坂ゆきでもなく、行き先表示はなかった。そういう、名前のないところにこのバスは俺を運ぼうとしている。

 サヤに触れ、抱きしめることで、俺のいのちは尽きたのかもしれない。

 そうならば、もう俺は戻れない。生まれ変わりを待つことすらできず、ただ混沌ですらない無の中に漬け込まれ、それと同じものになり、消えてしまうんだ。

 バスの座席は見た目の古さによらず、とても座り心地がいい。そして、あたたかい。それが、俺の体から、雨に濡れ、サヤに触れた冷たさを奪っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る