海、そこからの帰還

 俺は座席に包まれて、やわらかな振動に身を任せていた。乗客は、俺一人。どこにも行くべき場所のない者など、そういないのだろう。だが、そんな俺を乗せるために、このバスは走っている。

 運転席には顔の見えない男が座っていて、無言でハンドルを握っている。

 俺は、後悔することはなかった。というより、座席の暖かさが気持ちよくて、眠ってしまいそうになっていた。

 重力に負けようとする瞼の裏に、さまざまなものが映る。


 親父とお袋に連れられて行った海。そこでクラゲに刺されて大泣きした記憶。正月に親戚の家に遊びに行って、調子に乗って餅を食べすぎて腹を壊した記憶。友達の夏休みの自由研究の工作を壊してしまって、こっそり直そうとも思ったけど正直に謝って二人で直した記憶。

 中学生のときに出会った音楽。ギター。歌。曲を作ること。はじめて組んだバンド。高校のときにできたはじめての彼女。一年下の後輩でリエちゃんという名だった。ささいなことで喧嘩をして半年くらいで別れてしまって、そのあとにできた別の彼女。

 サヤと出会う前の記憶。まだ、世界にサヤがいなかったときの記憶。それが、俺を通り過ぎてゆく。瞼の裏にも窓の外にも隣の席にも、サヤはいない。だけど、ほんとうに何かを通り越してどうにでもなれと思えてしまうくらい心地よくて、それがとても怖いことのように思えて、だけど逆らうことはできなくて、俺は沈むように眠った。

 サヤ。夢の中でさえ、会うことはできないのか。いや、俺はこのまま何もないところに溶けて消えてしまうのだから、もう会うことはできないんだろう。そうなったら、俺はそれを寂しいとか悲しいと感じることすらできなくなるのだろうか。

 何も無いということは、俺という存在も無いというわけで、もちろん俺にとっての全てであるサヤも、俺の中には無くなってしまう。それがどういう状態なのかも分からないけれど、とにかくそれは死ぬことよりも恐ろしい。

 恐ろしいのに、逆らえない。死とは、そういうものなんだろう。逆らうことができるのは死んでいない間のことだけで、それは逆らっているように見えて、実は生きているっていうことで、やっぱり死んでしまった者に死に逆らう力なんてないのだろう。

 げんに、俺は、眠ってしまうのをどうすることもできない。支配されるようにしてそこに落ちてゆくのを感じるのみだった。


 ゆるやかな振動。バスが停まった気配がして、俺は目を覚ました。どうやら、夜になっているらしい。

 ドアが開き、エンジンが停まり、車内の明かりも消えた。運転手の姿もいつの間にか消えていて、仕方がないからそのバスから降り、外に出てみた。

 不思議と、怖いとは思わなかった。スニーカーに伝わるのは砂の感触で、さざ波のような音が満ちているから、海なのだと思った。

 来てしまった。何もしないまま。ここが、死。これが、無。天国でも地獄でもないところ。この海に溶け、消えてしまえば、きっとこの海すらも消えるんだろう。

 月もないのに闇は濡れたアスファルトのようにきらきらと光っていて、それが波なんだということが分かるまで、俺はぼうっとそれを見つめていた。

 サヤ。

 生きているときはもちろん、死んでしまってからも何もすることができなかった。俺は、変わることができなかった。サヤがありのままの俺を愛してくれればくれるほど、俺はそれに応えて成長してゆくはずだった。だけど、俺はサヤに甘え、サヤを消費し、いつだって自分の都合のいいようにしか生きてこなかった。


 サヤの最後の言葉。

 ――耕太郎。ごめんね。いっぱい心配させてるね。ごめんね。元気になれなくて、ごめんね。

「謝らなくちゃいけないのは、俺なのに」

 呟きさえ、波の音に消えた。ここに、すでに俺はいないのだろうか。

「サヤが死んでしまって、何もする気になれなくて。でも、それは俺が駄目な男のままでしかサヤを見送れなかったのを、サヤのせいにするためだったのかもしれない」

 こんなに自分は打ちひしがれて、悲しんで。だから、駄目でも許される。サヤを失った悲しみが、彼女に何もしてやれなかった悔しさが、いつしかそういう逃げ道に変わっていた。

 せっかく戻ってきたサヤの前ですら、俺は俺だった。

 サヤにいのちを吸い取られたのが、せめてもの救いだ。

 だけど、サヤは死んでからもなお俺のことで悲しむだろう。今ごろ、藤代神社で泣いているかもしれない。それだけが、心残りだ。

 ごめん、サヤ。俺は、どうしても俺のままだった。咲耶の、言う通りだった。神様に祈ったって、結局自分の願いを叶えるのは、自分なんだ。それを、サヤが生きている間に気付いておくべきだった。

 海に向かって、歩いてゆく。そこに、行かなければ。

 きらきらと光る海。俺の姿を映すことは、決してない。

 また咲耶の言葉が、頭をよぎる。

 願い。

 はっとして、ポケットに手を入れる。そこには、咲耶にもらったお守りがあった。


 この海に、入るわけにはいかない。お守りを握りしめ、俺はそう思った。俺は、消えてしまうわけにはいかない。人間だからいつかは死ぬんだろうけど、それと消えてしまうのは違うと思った。

 俺は、俺の中のサヤを消してはいけない。サヤが死んでも、もう二度と会えなくても、俺の中のサヤを消してしまえば、俺が消えてしまえば、サヤはほんとうにどこにもいなくなる。

 俺がいつもそう言っていたように、俺もまたサヤの全てなのだから。

 握ったお守りが、熱い。俺の手の熱が、それを温めている。

 水の、匂い。目の前の海の匂いではない。この匂いを、俺は覚えていた。

 そう、これは、あの日の雨の匂い。


 ――耕太郎!

 サヤの声が、蘇る。サヤは、色んな温度と色の声で、俺の名を呼ぶ。だけど、どうしてこんなに悲しそうな声を思い出すのだろう。

 ――耕太郎!

 悲しそうだと思ったが、少し違う。熱っぽくて、力のある声だ。

 ――耕太郎!

 俺を、呼んでいる?

「耕太郎!」

 なにかが破れるような音がして、はっとした。眼を上げると、正面の海を切り裂き、サヤが俺の前にあらわれた。ずっと延々と続く海が広がっているとばかり思っていたら、それは映画のスクリーンのようなものであったらしい。俺は一体、何を見ているんだろう。死んだあとの世界のことなんて知るはずもないから、何が起きても不思議ではないけれど、それでも俺の前にサヤがいるのは奇跡だと思った。

「なにしてるんだ」

 よりにもよって、こんな間の抜けた一言。そう思ったが、吐いた言葉はどうにもならない。

「耕太郎、ここから出よう。今すぐ」

 そう言って、サヤは俺の手を取った。いのちが吸い取られることはなく、暖かくも冷たくもなかった。どちらも死んでいるから、そうなのだろう。


「やっと、通じた。よかった」

 サヤが作った裂け目から真っ暗な夜の空のようなところに飛び出し、俺たちは地面のないところを駆けた。頭上にも星。足元にも星。何が起きているのかは分からないが、とにかくサヤに手を引かれ、俺は必死で駆けた。

「耕太郎が行ってしまったあと、大慌てで藤代神社に戻って、咲耶さんに助けを求めたの。おじいさんにも協力してもらって、倒れたままのあなたを運んで」

「俺の身体は、まだあるの?」

「眠っている。おじいさんは、普通ならもう目覚めることはないって」

「普通なら?」

 どれだけ駆けても、息が切れることはない。身体が神社にあるのなら、当然だろう。

「あなたが、消えてしまう前なら、まだ間に合うって。そこで、あなたがお守りに願いをかければ、わたしはそれを頼りにあなたを探し当てられるって」

 お守りに、そんな力があるとは思えない。だけど、実際にサヤは来た。これ自体が夢なのかもしれないけれど、とにかくそのことだけはほんとうだと思えて、嬉しかった。

「お守り、ほんとに効くんだ」

「咲耶さんはね、お守りっていうのはただの物だから、それ自体に効果や神秘性なんてないって言ってた」

「どういうこと?」

「あくまで、お守りっていうのはアンテナみたいなものだそうよ。人が願いをかけるとき、その拠り代になるもの、って言ってた」

 そのアンテナから発せられた俺の願いが、サヤに俺の居場所を特定させた。よく分からないが、GPSみたいなものなのだろう。

「わたしも、お守りをもらったわ。お互いに願い合えば、きっと繋がるって。咲耶さんもおじいさんもこんなことは初めてだと言っていたけど、きっと大丈夫って。わたし、耕太郎の名前を何度も呼びながら、いっぱい祈ったんだから」

「ありがとう」

「戻りましょう、あなたは、死んでしまっては駄目」

 サヤに導かれるうちに月のようなものが見えてきて、でもそれは月ではなくて、この夜に空いた穴だった。そこを目指し、たどり着いて飛び込み、狭いけれど光の溢れるところを通り抜け、俺たちは夜の空を抜けた。

 もしかすると、産まれるときというのもこんな感じなのかもしれない。そう思ったけれど、産まれたときの記憶なんてあるわけないから、分からない。

 ただ、俺の産声は、こうだった。


「サヤ」

 俺の喉から発せられる、俺の声だった。産まれたその瞬間から、この名前を呼ぶために俺は息を始めたんだと思えた。

「ああ、よかった。耕太郎、よかった」

 サヤの声のする方を向いて、目を開く。ぼんやりと霞む視界の中に、サヤがいた。あと二つの姿は、咲耶とその祖父だろう。

 背骨が痺れ、足はり、咳は止まらず、その度に肋骨が折れそうなほど痛い。頭もふらふらするし、吐き気もひどい。だけど、俺は身体を渾身の力で起こした。

「サヤ。戻ったよ」

「おかえり」

 俺の声は掠れている。サヤも同じような声になっているのは、泣いているからだ。俺は自分のために千回泣いたけれど、サヤは俺のためにしか涙を流すことはない。

「ごめんな」

「ううん、いいの。よかった」

 咲耶と爺さんは、どうして黙っているのだろうと思った。サヤが俺を連れ戻すのに協力したのなら、よかった、とか何とか声を発してもいいはずだ。

 そう思ったとき、爺さんの錆びた声がした。

「さあ、サヤさん。もう、行かねば」

 爺さんが立ち上がり、咲耶もそれに続く。サヤは俺を見て困ったように笑い、言った。

「ごめんね。でも、行かなきゃ」

「ちょっと待てよ。どういうことだよ」

「サヤさんは、願ったのです」

 咲耶が襖を開き、言う。

「あなたを、あるべきところに戻したいと」

「それが、何だって言うんだ」

「あなたをあるべきところに戻すということは、サヤさんもあるべきところに戻るということ。あなた達は、二人で一人なのですから」

 何を言っているのか、分からない。せっかく、戻れたんだ。いのちを吸い取られて死んでしまったはずが、こうして身体を起こして言葉も発していられるんだ。

 俺は、生きているんだ。

 それなのに、何を言っているんだ。

「あなた方は、とても歪んでいました。生きるべきあなたは生を全うせず、死を迎えたサヤさんはあなたを思い舞い戻った。それは、あなた方が共に、その歪みを望んだから。だけど、サヤさんは、願ったのです」

 わたしたちを、あるべきところに帰して、と。

 それが、俺をあの無に繋がる海から呼び戻した。

 サヤは、行ってしまうんだ。あのバスに乗って。

「耕太郎。ごめんね」

 黄泉へと。そこで、生まれ変わりを待つ。サヤは、死んだのだから。

 生きている俺は、どうしたらいいんだろう。

「待ってくれ――」

 ごめんね、とサヤはもう一度言い、立ち上がろうとしてそれすらできずに畳の上に転がった俺を少し気遣い、そして部屋から出ていった。

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