秒針

 見送る。咲耶と爺さんは、サヤを見送ると言った。どこに見送るのか。どうして、サヤは行ってしまうのか。

 俺は畳と一体化してしまいそうになりながら、それに抵抗するように必死で足りない頭を回転させた。

 もう、答えは分かっている。そして、あらゆることに答えなんてなく、ただ自分がどうするかということに尽きるということも分かっている。最後の最後まで、分かっていながら何もできなかった俺は、知らずに間違いを犯すよりもずっと駄目な奴だと思えた。


 何分経ったんだろう。あるいは、一時間くらいか。もしかすると、一時間半くらいは経っているのかもしれない。

 時計の秒針が俺を通り過ぎてゆく音だけがして、そこに眼を向けることさえできずに、俺はずっと同じ姿勢で寝転んでいた。

 玄関の扉が開く音。古い廊下が軋む音。ぼそぼそとした話し声。二人が、帰ってきた。俺は最後の望みをかけて、そこにサヤも伴われているということに期待した。帰るとは言ったが結局帰れずに戻ってきて、ばつが悪そうに笑うサヤがいることに。

「お加減は、いかがですかな」

 開かれた襖から降ってくる錆びた声。眼だけでそれを追うと、爺さんと咲耶の姿だけがあった。

 俺の期待は、叶わなかった。サヤが都合よく戻ってくることなんて、なかった。何にかは分からないけれど無性に腹が立ってきて、それを跳ね返したくてどうにか起き上がろうとする。

「あまり、ご無理をなさらない方が」

 駆け寄り、屈み込んで俺の背に手をあてがう咲耶は、俺の味方なのか敵なのか。俺の望みを叶える手伝いをしてくれるようであり、俺を望みから遠ざけるようでもある。顔はびっくりするくらい可愛いしスタイルもいい気配がするが、どうしてこんなに恐ろしい気がするのだろう。

 ふわりと、花のような香り。遅れて、水の匂い。そんな香水、聞いたこともない。たとえば雨の季節に紫陽花の有名な寺に観光に行ったときのような、そんな匂いだと思った。


「サヤさんのこと、訊かないのですね」

 俺をその匂いから解放したのは、咲耶が発した言葉だった。背骨に電気を流されたような気が一瞬したが、すぐに消えた。

「俺のいのちは、あとどれくらい残っているんだろう」

 別に咲耶に訊ねたわけではない。なんとなく、口の中で呟いただけだ。

「よほど強く干渉されたのだと思います。こんなに速く、弱ってしまわれるなんて」

 当たり前だ。サヤを力いっぱい抱きしめて、放さなかったんだから。

 いや、放してしまった。どうして、放してしまったのか。放したから俺はあのよく分からない海に行ってしまって、サヤはそれを追いかけてきて、結果俺の前から去った。

「放してしまった。さいごのさいごまで、抱きしめていたかった」

 また、呟いた。俺の頭の中に切れかけた蛍光灯みたいにして明滅するものを、ただ口にするしかなかった。

「あなたは」

 咲耶は、それをいちいち拾い上げる。嫌がらせなのか親切なのか、そういう性格なのか。

「放さなかったのです。最後まで。だから、あなたはいちど死んだ」

 どういうことだろうと思い、俺は顔を上げた。その辺のアイドルよりもよほど可愛らしい顔がすぐ近くにあったが、それにどうこう思えるほどタフじゃない。

「あなたは、サヤさんを抱きしめたのですね。とても強く。そのことが、あなたから急速にいのちを奪った」

「俺は、やっぱりいちど死んだのか」

「ええ、たしかに、あなたは死んだ。覚えているかどうか分かりませんが、お守りがあなたと咲耶さんを繋ぎ――」

 そのお守りに、サヤは自分たちをあるべきところへ帰してほしいと願った。だから俺は戻ることができ、サヤは本来あるべきところ――黄泉比良坂――へと帰った。

 さっきも聞いたけれど、こうして畳の上でこのよく分からない二人を前にしていると、ほんとうにそうなったんだということが痛いほど分かった。


 どうしようもなかったのか。

 どうにもならなかったのか。

 何ができただろう。

 考えるにはあまりにも強い疲労に支配された頭をせめて回すことくらいはしていないと、自分が生きていることが情けなくなる。それは、せっかくこの生を繋いでくれたサヤに申し訳なさすぎる。

「あなたのいのちがどれくらい残っているのか、わたしには分かりません」

「しかし」

 爺さんが、錆び枯れた声で継いだ。

「それは、もとより誰にも分からぬこと。いつ死ぬか分かっていれば、もう少しましな生を送っていた。誰もがそう思うものです。自分に対しても、大切な人に対しても。そうでしょう、耕太郎さん」

 爺さんの言う通りだ。サヤがいつ死ぬか分かっていれば、俺ももう少しましな人間として彼女のそばにいることができたかもしれない。

「だから、あなたのいのちがあとどれくらい残っているのかを語っても、仕様がないのです。あなたにできることは、自分のいのちを数えることではない。ちがいますか」

 なぜ、この爺さんが偉そうにそんなことを言うのだろう。腹は立つが、ばかに説得力がある。俺がどれだけ駄目な奴でも、正しいこととそうでないことの見分けくらいは付く。

「俺に、できること――」

 部屋の中なのに、襖は閉まっているのに、なぜか風が流れるのを感じた。


 流れる。風。水。時間。思考。行動。

 何もかもが、流れてゆく。今この一瞬という点を置き去りにして。

 今。今、何時なんだろう。俺は重い腕に巻きついた時計を見た。一年経っても、その時計がサヤの死んだ日から動いていないことに慣れていない。

 この時計が止まっても、俺が歩むのをやめても、流れるものは流れてゆく。

 当たり前だけど、受け入れるのが難しくて、つい言い訳をしてしまって、自分が置き去りにされているような気がしてしまって、それが恥ずかしくて、辛くて。

「あっ」

 と声を上げるサヤの手を振り払い、俺は無理やり立ち上がった。

 こんなところで、寝てはいられない。

「耕太郎さん。一体、何を」

「おじいさん。あんたの言う通りだ。俺にできることは、俺の寿命の心配なんかじゃない」

「駄目、耕太郎さん」

 制止を聞かず、俺は襖を開き、壁を伝いながら玄関へ。

 外は、昼だった。この季節だから、空は今にも泣きそうだった。

 だが、俺は泣いてなんかいられない。寝てなんかいられない。

 俺が求めるものは、ただ一つ。


「俺を、もう一度あの雨の日に。あの雨の日の、コンビニの前に」

 俺はお守りを天高く掲げ、目眩を振り切って思い切り叫んだ。

「どうした。早くしろ。俺を、あそこへ連れていけ」

 神様がどこにいるのかは知らないが、この俺の叫びを聞かないのなら偽者だ。俺の願いを聞き、サヤを呼び戻したのなら、俺を連れていくことだってできるはずだ。げんに、一度はあの雨の日のことを俺に見せたじゃないか。

「やり直すことは、できません」

 咲耶の声。いつ家から出てきたのだろう。すぐ後ろにいた。

「流れた水があったところには、また水。しかし、その水は流れた水とはまた異なる水。水は水の流れる方に流れてゆきますが、その流れを無かったものとすることは決してできないのです」

 また、わけの分からないことを言う。そして、あの目だ。

 もう、いい。

「いい加減にしてくれ」

 俺は、お守りを握り締めたまま言った。

「そんなこと、どうでもいい。俺は、進みたいんだ。サヤのいるところに、俺を連れていけ。サヤのことが大好きで、死んでしまうなんてあんまりだと思うのは、悪いことかよ。せめて、謝りたい。せめて、あの日のまま止まってしまうのではなく、一歩でも、少しでも前に進んでゆく姿を見せたい。そう決めたと言いたい。バスがなんだ。黄泉がなんだ。そんなの、知ったことじゃない」

 バス。そういえば、俺たちが付き合った頃にはまだ、旧型のバスが走っていたっけ。

 俺は、はっとした。俺たちがはじめて出会ったあのコンビニの前にはバス停があり、サヤは確か雨宿りをする前、あのバスから降りてきたんだ。あまりに小さな記憶すぎて、そんなこと、すっかり忘れていた。だけどあの比良坂ゆきと書かれたバスを見たときの妙な感覚は、それを頭のどこかで思い出していたからなんだと思った。


 サヤは、俺の知らない、遠い遠いところへ行ったわけじゃない。

 流れた水は戻らないのかもしれない。だけど、水の流れる先を見通すことはできる。

 サヤは戻ってきたとき、何もないところをひたすら歩いていて、六つ目のお地蔵さんを越えたところに行かなければならないということだけが分かっていて、というような話をした。そして振り返ると悲しみに暮れた見る影もない俺の姿があり、慌てて戻ることにしたと言った。

 サヤの求めるものは、比良坂にはない。だから、何もないところだったんだ。振り返ったところに、サヤの唯一求める俺の姿があったから、俺のところへ戻ってきた。お守りを通じて俺の願いが、一方的に扉を開いたんだろう。

 今は、違う。サヤは戻り、自分が死んだあとの俺をその目で見、言葉を交わし、そしてその上で自らと言った。

 サヤが帰るのは、俺のいない何もない世界じゃない。

 サヤが乗るべきバスは、あのコンビニに通じる、古びたバスなんだ。そこが、サヤのあるべき場所。そこが、サヤの求める場所。

 戻るためではなく、進むために。


「サヤさんは」

 咲耶が、静かに唇を開いた。

「あなたのことを、とても強く想っていました。自分が、あなたのいのちを削り取ることでしか存在できないような、この世にあるべきでないものだと知り、あなたのためにあなたの前から去ると言いました」

「サヤが――」

 俺のために。サヤがいれば、いつまたいのちを吸い取ってしまうかもしれない。今回はこうして戻って来れたけれど、次はほんとうに俺のいのちを吸い尽くしてしまうのかもしれない。

 誰にも見えず、ただ俺にしか見えず、そして誰にも交われず、俺にすら触れられず。そんな状態で自分が俺と一緒にいたいからといって俺にしがみ付くのではなく、俺に少しでも長く生きてほしいと願い、あるべきところに去った。

 泣いた。泣くしかなかった。声を上げて、泣いた。何度も何度も砂利を叩き、転げ回り、さっきまで死にかけていたことすら忘れてしまうくらい、泣いた。

「耕太郎さん」

 そんな俺に、咲耶は語りかける。

「あなたは、サヤさんを盾にして、サヤさんを言い訳にしてきたと自分で考えておられる。しかし、そうでしょうか」

 実際、そうだ。俺はいつも自分のためにしか生きていなかった。

「人と人が繋がり合い、共にあるというのは、どちらかの一方的なものだけでは決して成り立たぬもの。サヤさんが、あなたの言うようにしてあなたを責めるのならまだしも、サヤさんは、あんなにもあなたを想い、あなたのために生き、死してなおあなたのことを考えていたではないですか」

「それは、サヤが――」

 あまりに素晴らしい女性だからだ。サヤみたいな女性は、世界に二人といない。

「いいえ、違います」

 何が、どう違うのか。

「サヤさんが素晴らしいのは、半分。あとの半分は、サヤさんにとって、あなたが素晴らしい人だったからです」

 そんなことが、あるのだろうか。サヤはたしかに俺のことを好きだ好きだと言ってうるさいくらいだったし俺のあらゆるところを認め、褒め、伸ばしてくれようとしていたけれど、それは駄目な俺を励ますためだろう。

「駄目だから、自分は悪。そう思うことは、楽なのかもしれません」

「じゃあ、一体」

「簡単なことです」

 ぱっと笑った。そのまま天を仰ぐのにつられて、俺の視線も雲へと。

 雨。それが頬を打ち、目に入り、砂利を、世界を濡らしてゆく。

「あなたの好きな人のために、精一杯、何かをしてあげることです。あなたの好きな人はもう戻らなくとも、あなたはそれで生きられる。前に進める。人を想い、自分を認め、自分を知ってくれる人のために自分の時間を使うことができるようになる」

 俺は、何も答えられない。ただ雨に打たれるだけの、ひ弱な存在だった。

「耕太郎さん」

 咲耶は、にっこりと笑い、濡れた髪を少し直した。

「バスの時間が、近いようです」

 俺は、時計に眼を落とした。

 三時二十五分。

 俺の眼は、文字盤に釘付けになった。

 あの日以来止まってしまっていたはずの秒針が、動いていた。

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