第二章 共生

自ら求めたこと

「ちょっと手を握ったくらいで、耕太郎がこんなになるなんて」

 サヤの泣きそうな声で、うっすら目を覚ます。畳の匂いに包まれている。俺たちの部屋に和室はないから、ここが家ではないということは分かった。鉛みたいになった身体を起こし、心配そうに覗き込むサヤに薄く声をかけてやる。

「すぐに死んでしまうということはない。しかし、お気をつけなされ」

 傍らには、見知らぬ老人。頭はきれいに禿げ上がり、歯も何本かしかなくて八十代後半くらいに見える。

「ここは──」

「わたしたちの自宅です。あなたがお倒れになったとこの咲耶が血相を変えて飛んできたもので、ひとまず運んだのです」

 救急車を呼ぶのではなく、社務所を兼ねた自宅に運び込まれたらしい。普通じゃない。だけど、駆け付けた救急隊員に幽霊に触れていのちを吸い取られたと伝えるわけにはいかないだろうから、仕方ない。

「あなたは、いのちを消費した。薬や何かでは、それはどうにもならんことです」

 老人は、俺の頭の中を見透かしたようなことを言い、静かに笑った。

「わたしのおじいさんです。あなた達の力になってくれることと思います」

 咲耶が老人を紹介する。老人は少し照れ臭そうに目尻の皺を深くし、そして目を細めた。

「サヤさん。落ち着かれましたかな」

「耕太郎が目覚めて、安心しました。ありがとうございます」

「耕太郎さんは──いや、あなたは、知っていた。耕太郎さんに触れれば、どうなるのかを。耕太郎さんを守らなければという無意識の意識のもと、あなたは耕太郎さんとの物理的な接触を拒んでいたのでしょう」

 咲耶の祖父が、何が起きているのかについての見解を述べる。

「本来、魂と肉体とは鏡に映るようなもの。おなじものでありながら、決して重なり合わず、互いに干渉することもないもの。しかし、サヤさんのように特別な状態になれば、本来決して越えることのできぬはずの鏡のその面を越え、鏡の向こう側に手を伸ばすことができるようになるのです」

「その決して交わらぬふたつのものを隔てるものこそが、死?」

 サヤは、頭がいい。老人の言う難しい話を理解し、ついて行っている。俺に分かるのは、サヤに触れたことで俺の身体が鉛のように重くなってしまっているということだけだ。

「そうです。死とは、そのようなものなのでしょう。平面的で、そこに確かにそれが存在していることは誰にでも分かるが、そこに映るものはその前にあるものによって変わり、その実態を知ることは決してできない」

「わたしが鏡ので活動するために、莫大なエネルギーが必要だということね」

「そうです。そして、それはあなたの帰還を願い、求め、あなたに最も近しい存在である耕太郎さんから供給されている。触れずとも、あなたが存在するだけで、耕太郎さんのいのちは縮まってゆく。ましてや、互いに物理的な干渉を持つとなると」

 今のように、急速に生命が吸い取られてしまう。

「半分ずつ、というわけにはいかぬのです。ただでさえ無理なことをしているのです。すぐに、耕太郎さんのいのちの全てを使い尽くしてしまうことでしょう」


 俺が考えるよりも、事態は複雑であるらしい。俺のいのちの半分をサヤにくれてやることで一緒に過ごせるなら、と安易なことを考えていたが、どうやらにはそれほど時間はないらしい。

 だったら、話は早い。

「いいよ、サヤ」

 サヤが眉間に寄せていた皺を緩め、俺を見る。いつ見ても、かわいい。出会った頃は地味で、こんなにかわいいとは思わなかった。大学を出てからはコンタクトにして、家にいるときにしか眼鏡をかけなくなったが、どちらでもかわいことに変わりはない。見た目のことではない何かが、俺にサヤの姿を見せているんだ。

 そういえば、サヤは今眼鏡をしている。死者が着けるコンタクトは無いのだろうが、どちらにしても、死んでも眼は悪いらしい。

 その眼鏡の向こうの瞳は、やはり心細げに揺れている。いつも気丈なサヤがこうして不安がっているときくらい、俺がしっかりしないと。優柔不断でものぐさでだらしなくて馬鹿だけど、いざというときに頼れるということろを見せなくちゃいけない。

「俺のいのちを全部使っても、構わない。それで俺が死ねば、で二人で暮らせるじゃないか」

「耕太郎」

 サヤが自分で自分の手を握った。俺の手を取ろうとしたのだろう。

「それは――」

 咲耶が、申し訳なさそうな声を発する。

「できないと思います。ねえ、お爺さん?」

「うむ。黄泉比良坂というのは、あるべくしていのちを全うした者が次の生まれ変わりを待つところに行くための場所。いわば、鏡面が静かに凪いでいてはじめて至ることができる。それが波立ち、歪みの上で死を越えれば、あなたの魂は未来永劫戻らぬ場所に行ってしまうかもしれません」

 地獄ということだろうか。よく分からないが、それは嫌だと思った。

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 苛立った。可能性の話をするなら、もっと前向きな話を聞きたいものだと思った。できない、できない、ではなく、どうすれば俺とサヤが一緒にいることができるのかを教えてほしいと思った。

「それは――」

 咲耶。こんなに可愛らしいのに、どうしてこれほど圧迫感があるのだろう。

「――あなたが考え、決めること。これは、あなたが求め、選んだことなのですから」

 ここにきて、無責任な。思わず頭に血が上る。

「帰るぞ、サヤ」

 意地というのは怖いもので、鉛みたいに重くてもしっかりと二本足で立つことができた。そのまま部屋を出、玄関へ向かう。

「困ったら、いつでもおいでなさい。できるだけ、力になれるようにしましょう」

 老人の枯れ錆びた声に一礼だけし、俺は戸惑うサヤを連れてまた砂利を鳴らした。


「あの巫女さんとお爺さん、物知りなのね。死んだあとの世界のことや、死ぬということについて、世界中の学者が考えたって分からないのに」

「あいつらも幽霊でした。そんなオチなんじゃねえの」

「あるいは、神様」

 この神社に祀られている、水の神様。鏡という言葉を老人は使ったが、咲耶は水は鏡でもあると言った。あながち間違いではないかもしれないと思い、俺は身震いを我慢して石段へ向かった。

 途中、視界の端に絵馬所がある。あそこに、俺の絵馬がかかっている。

 願いは、叶った。死んだはずのサヤに、もう一度会えた。

 しかし、それは、代償を伴うものだった。

 おれのいのちを燃料にして、この世に存在するサヤ。石段下の鳥居を出れば、俺にしか見えないし感じることはできない。そんなあやふやな状態でも、一緒にいられて俺は幸せだ。サヤのためなら早死にしたって構わないし、一緒にあの比良坂とかいうところに行けるなら今死んだって構わない。


 だが、どうやら、このままではそれすらも叶わないらしい。どうにもできないのだろうか。サヤが自ら比良坂に帰ってまた離れ離れになるか、俺がサヤにいのちを吸い取られて地獄に行くか、そのどちらかしかないのだろうか。願うべきでないことを願った俺への罰を、神様は与えようとしているのだろうか。


 あの老人は、あるべくして死を迎えると言った。サヤが死んだことが、自然なことだと言った。そんなこと、あるはずがない。

「考えろ」

 石段を鳴らしながら、俺は呟いた。ん?という顔をサヤが向けてくるのを見て、なぜか泣きそうになった。

 考えろ。サヤを守るんだ。せっかく、戻ってきたんだ。手放してたまるか。何にしがみついても、サヤとの暮らしをまた取り戻す。たとえ、幽霊だったとしても。たとえ、俺以外の誰にも見えなかったとしても。たとえ、決してサヤが生き返ることはないと分かっていても。それでも、俺の目の前に、たしかにサヤはいる。


「お詣りかい」

 鳥居の内側というのは様々な線引きがあやふやになっているらしく、商店街の人たちにもサヤのことは見える。その声も聴こえる。咲耶の言っていたお好み焼き屋とはこれのことだろうと思える店があり、ちょうど六十代くらいの女性が暖簾をかけようとしているところで目が合い、会釈をした。

「おなか、すいてない?」

 サヤが俺を気遣い、立ち寄ることを提案する。さっきよりはだいぶ良くなっているとはいえ、食欲はあまりない。だけどお腹が減っているかどうかと聞かれれば間違いなく減っているから、少しだけ立ち寄ってみることにした。


 ミックス玉を一人前だけ。サヤは食べることができない。お店の人は残念そうにしたが、昨日食べ過ぎて腹を壊しているとサヤが説明すると笑って許してくれた。

 アルミのボウルに入ったお好み焼きの生地が、運ばれてくる。自分たちで勝手に焼くスタイルの店らしい。関東はもんじゃ、関西はお好み焼きと相場は決まっているが、最近はそうでもない。ただ、こんな古びた商店街でもお好み焼き屋があるんだということが珍しく思える。もしかすると店主は関西出身なのかもしれない。

 壁に掲げられた、誰のものかも分からないサイン。油の煙のために茶色く汚れてしまっている。

 夜には常連客が集まってくるのかもしれない。そうなったらあの静まりかえっているテレビからは野球中継が流れるんだろう。

 世界は、俺たちがどれだけ苦労をしていようとも、変わらない日常を送っている。きっと、多くの人がそう思い、世界を恨んでいるんだろう。


 咲耶の言ったことを思い出しながら、お好み焼きの生地をかき混ぜる。なるほど、このエビは決して海では泳がないだろうし、このキャベツは絶対に花を咲かせることはない。これはエビであり小麦粉でありイカであり豚肉であり小麦粉でありながら、そのどれでもない。紛れもなく、お好み焼きの生地。

 頭が混乱しそうだが、何となく分かることは分かる。

 サヤが、じっと俺の手元を見つめている。俺が視線を向けると、

「なに、かんがえてるの」

 と小首を傾げながら笑った。

「この先、どうなるのかな、って。サヤはお好み焼きになるしかなくって、俺は何にもなれずに消えてしまうんだろうか、なんて」

「あなたは」

 はっとするほどまっすぐ、サヤが俺を見つめている。俺はどうしてか視線を合わせ続けることができず、またボウルに眼を落とした。そこにはもうお好み焼きの生地はなく、掬いきれなかった残り滓がわずかに溜まっているだけだった。

 サヤは、構わずに続ける。

「あなたは、どうしたいの?」

 俺が、どうするか。どうしたいか。それを、サヤに問われるとは思っていなかった。

 正直、どうもこうもない。それが率直な気持ちだ。このままいのちを使い切るまで、サヤと一緒にいるか。それとも、サヤが衝動的にそうしようとしたように、彼女をあるべきところに帰し、俺のいのちを永らえるか。

 選択肢はない。後者は、特にあり得ない。サヤは、戻ってきたんだ。こうして俺の前にいて、俺のことをじっと見つめて、会話をしている。それを知りながら手放すなんていうことは、あり得ない。

 アルミのボウル、俺が生地を掬い取った跡に露出した銀色に、サヤの像が映っている。使い古されたボウルだから鮮明ではないけれど、

 確かに映っている。

 それは、サヤが確かに存在するという何よりの証明になりはしないか。


 しばらく無言で、お好み焼きが焼けるのを待つ。何度も何度も、裏返した。その度に、少しずつ色が付き、やがて焦げてゆく。

 食べごろになったものにソースをかけると、それが焦げる匂いが立ちこめ、しぼんでしまっていた食欲を蘇らせる。

 熱さを我慢しながら少しずつそれを口に運ぶ俺を眺めながら、サヤは何度も、

「美味しい?」

 と訊いた。それは、やっぱり、俺の食べっぷりが好きだと言ったサヤそのままだった。


 商店街を抜け、鳥居をくぐる。ここからは、もうサヤのいない世界だ。

 それでも、サヤは俺の隣を黙って歩いている。それだけで、俺のいのちを使っている。

「わたし、戻った方がいいのかな」

 ぽつりと、サヤが言う。

「こうしている間も、どんどん耕太郎のいのちは削られていっている。わたしのせいで耕太郎が死んじゃったら、どうしよう」

「そんなこと言うなよ、サヤ」

「だって。耕太郎、死んじゃうんだよ」

「死んだお前に心配されるのは何だか妙な気分だけど、俺は平気さ」

 冗談を言いながら屈伸をしてみる。急に動くと、やはり激しい目眩が襲ってくるが、気絶はしなかった。

「あの死神みたいな巫女とミイラみたいな爺さんが言うことがほんとうかどうか、分からないじゃないか。さ、帰ろう」

 つとめて明るく声を上げ、俺はバス停に立った。待つのは、比良坂行きじゃない。俺たちの家に向かうバスだ。

 考えてやる。とことん、抗ってやる。

 これは、俺が求めたことなんだから。

 咲耶の言う通りだと思った。

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