第3話
最近よく記憶が飛ぶ。最近ってか、昨日からだけど。
飛ぶというより、行動のあとで追いついてくる感じ。
気が付くと画面が切り替わったみたいにどこかに移動してて
ハッと意識が戻ると、その間の記憶を思い出す。なんだろうこれ。
「メシは食ったか?風呂入ったか?歯は磨いたか?」
長袖シャツと短パンのリカ姉が、ジャージ姿で正座する俺を前にして言う。
ここは三崎家の二階にある彼女の部屋だ。
久しぶりに来たけど、なにも変わってない。
リカ姉の性格を映してか、美紅の部屋よりも物が少なくて
小ざっぱりした感じがする。服はクローゼットの中。壁に掛けられていない。
キャラクターのぬいぐるみも無く、クッションやシーツやカーテンは無地で、
参考書も漫画も床に積みあがってなくて本棚の中。
鏡も小物入れもキラキラでデコられていない。
ただ、あちこちに貼られた写真が多い。
いちいち目を向けないのは見飽きているからで、それ以上に見たくないから。
リカ姉と俺と、そして美紅の写真ばかりだから。
* * *
結局のところ俺はフェニックスじゃなかった。
だから痛めつけられて復活するわけもなく、道場の隅で稽古が終わるまでおとなしく座ってた。
先生には腹が痛いとか、風邪っぽいなんて言い訳をした記憶がある。
なぜだかリカ姉も口添えしてくれたから、誰にも何も言われなかったが
特に感謝はしていない。
そのまま家に帰らせてくれなかったのもリカ姉だったからだ。
やる気無く道場の掃除にだけ参加して、のさのさと着替えて外に出たら
世界は真っ暗9時まわり。
冷えた空気の中に焼き魚のにおいがした気がして、我が家を思い出す。
それと昨日の両親の顔。
ふいに宛も無いのに家の反対方向に意識が向いて、どこか遠くに行きたい気分になったが
足を動かす前に、後ろから首を絞められた。リカ姉だった。
「10時半アタシんちな」
必要最小限の伝言。「なんで?」も言わせない。いつものことだ。
彼女の吐いた言葉は決定事項なので、あとはどれだけ譲歩を引き出せるかの問題になる。
すぐに帰れるといいな。そんなことを思って、月を探しながらその背中について行った。
「メシは食べた。風呂には入った。歯は磨いた。」
多分ね。いつも繰り返している習慣になるほど記憶が曖昧になっている。
腹の具合と、髪の濡れ具合と、歯のツルツル感で答えただけ。
ウンコをしたのかはおぼえてない。確かなのは、昨日からオナニーしていないことだけ。
「よっし、12時に寝ればいいだろ」
1時間ちょいの我慢を覚悟する。何故か知らんが、この時になってはじめて空手をやめようと思った。
もうこれで終わりにしたくなったのだ。誰かと関わるのが嫌になったのかもしれない。
学校にも行きたくない。人の声も聴きたくない。何も応えたくない。
何も思い出せなくなって、考えることもできなくなって、木や草みたいに呼吸だけして生きて
気が付けば終わりが来てたらいいと思った。
「事情は知ってる。カツオはどうしたい?アタシの後輩を紹介しようか?」
リカ姉は顔が広い。良くも悪くも目立つし、心と体が強いから頼られる。
人間として憧れるんだろう。女性としてではないのが残念。
この人が言えば確実に後輩さんは俺と付き合ってくれる。
そのあとが続くかどうかは俺次第だろうけど。
「いや、もういい。俺はもういい。」
リカ姉には幸せになってほしい。
将来プロレスラーみたいな人と結婚して、でっかい子供をガンガン産んでほしい。
血族だけの集団を組織して、俺が絶望したこの街でパワフルな伝説を残してほしい。
その時、女に振られて15歳で人生を閉じたアホが近所にいたことを
石碑かなんかに残してくれたら後輩さんはいらないよ。
「美紅はあきらめな。あの子はオマエになびかない。アタシは昔から知ってた。
あの子はオマエの気持ちに気づいてたんだよ、前からね。
男としてオマエを見ていないってアタシに言ってた。
みんなにもそう言ってたはずだよ。オマエだけが知らなかった。」
頷いた。そうだと思った。たった一日でずいぶん過去を振り返ったから納得できたんだ。
今までで一番自分と語り合ったかもしれない。過去の美紅とも。
「間島京子って知ってるだろ?テニス部のアタシの後輩だった可愛い子。あの子いまね…」
リカ姉が言葉の中に含ませているけども、俺は誰も恨んでいない。
だから怒っていない。美紅のことで何も言わなかった自分を恨んで欲しいのかもしれない。
自分に怒りを向けて欲しいのかも。提案に遠慮なく手を伸ばして欲しいのかも。
でも、俺にそんな気力はない。もうない。
「いいんだ。俺は帰るよ、リカ姉。またいつか、大人になったら話してよ。おやすみ。」
久しぶりにリカ姉に逆らった。時間まで居ろと言われたら、いつもそうしてたのに。
意識して逆らった。リカ姉だけじゃない。何かを捨てたい。自分を捨てたい。今までを捨てたい。
明日は学校を休むよ。習慣から抜ける。空手をやめて、勉強をやめて、趣味をやめてみよう。
誰にも会わないようにしてみよう。
『大人になったら』。お別れのつもりで、最後の言葉のつもりで言ってみた。
俺は大人になんか永遠になれないけど、またいつか会おうね。
「はぁ…」
溜息が聞こえた。無視して立ち上がる。少し立ち眩んだ。
そういや、殴ってこなかったな。寂しいわ。
これっきりだと思って、おもいっきりリカ姉の嫌いな陰キャラ演出してみたのに。
「カツオ。これ見てみ」
背を向ける前だった。顔を見たくなくて絨毯を見つめていた。
だからリカ姉が何をするつもりで動いているのか知らなくて
それは突然に俺の視界へと飛び込んできた。
「おっぱいだ」
おっぱいだった。リカ姉のおっぱい。乳首ピンク。形がよくてキレイ。
つーか、デカくね?そんなん今までどこに入れてたんだ?っつーぐらいボヨヨンって現れた。
グレーのスポーツブラがズラされていて、おっぱいの上のところが少し潰された感じになってるけど、やっぱデカい。へ?
「知らなかっただろ?中学でここまで成長しました。みたいな。」
はい、知りませんでした。最後に一緒に風呂に入ったのは小2ぐらいか。リカ姉が小3。知れるわけがない。
よく今まで俺にすら隠し通せたもんだな。
いや俺さ、美紅を見ての通りの微乳派だから。嬉しいか?ときかれたらアレだけど。ぶっちゃけ、嬉しい。
「はい、おしまい。いいもん見れただろ?女が欲しくなったよな?」
「いや、べつに。でも、ありがとうリカ姉。美しい思い出にして明日から引きこもるよ。」
最後にいいもん見れた。何か心に注がれるものがあった。
例えるなら、死の砂漠からサボテンの荒野にまではたどり着いた気がする。生命の息吹を感じた。
リカ姉とはいえ、女のナマチチ拝んで入滅できるんならホトケの格も上がろうってもんだろ。
少しだけオナニーしたくなったしね。家に帰るまでの気力がわいた。ありがとう。
「殺すぞオマエ!アタシのナマおっぱいの価値低すぎだろ!そこは人生変われ童貞!!」
知ってはいたけど、なんて沸点が低い人だ。声がデカい。慌ててジャスチャー送ると、時間が止まった。
一階にいるおじさんとおばさんの気配を二人で探る。
目と目を合わせて耳に集中する共同作業。なにこの一体感。変な気持ちになった。
「おっぱいごときで人生変わるかよ。見せ損だな、リカ姉。」
騒げない状況で調子に乗ってみた。今日のチンコ握りのおかえしだ。
あんたのキンタマ握り返してやったぜ。無いけど。
「オマエ、カツオの癖に…フーッ、フーッ」
ヤバッ、息が荒い。ガチギレ?もう帰ろ。
「じゃ、俺はこれで」またいつか会えたら今日のこと語ろうぜ。
そん時に俺が太陽の光に耐えられたらな。
「待て」
今度こそドアを開けようとしたら、まだ何かあるらしい。
誰か上がってくるんじゃないかと廊下の気配を探りながらも、首だけで振り返る。
そこには不思議な顔を浮かべたリカ姉がいた。
怒ってるようには見えない。顔が赤いけども、怒りではないような。何か迷っているような。
「んっ、んっ、…あーっ。なんだ、その。そうだな。ま、いっか。ちょっと来い。」
肩を掴まれて二人で廊下に出る。なんだ?帰らせてくれるんじゃないの?
いいから、いいからって、すごい力で押されて階段を降りる。危ないだろ。
「ここでリビング見張ってろ。父さんと母さんが来そうになったら教えるんだぞ。」
「は?イテッ!」疑問符だしたらデコピンされた。そして口に人差し指。
わけがわからないまま、リビングでテレビを見ているおじさんとおばさんを偵察する。
時間的に映画番組のクライマックスだからか、画面に集中していて気づく気配はない。
リカ姉が忍び込んでいったのは、一階の廊下の突き当りにある夫婦の寝室。
電気がついて、すぐにマグネット式ラッチが開く音。少しして、大きな洋服ダンスの引き出しを引く音。
「カツラ?」
それが体感一分もしないうちに戻ってきたリカ姉が手にしたモノを見て、漏らした俺の声。
頭をはたかれ、また口に人差し指。声に出さずに「バカ」と言われながら階段まで押される。
部屋に戻るんかい!
「あーなんだ、その。カツオ。アレだオマエ。ちゃんと明日から学校行けよ。」
鏡の前でカツラをつけながらリカ姉が言う。ウイッグだと言われたが、言いにくいので俺の中ではカツラだ。
背中まで伸びた、やたらツヤツヤした黒髪のカツラ。
部屋にあった目の細かい櫛がうまく通らなかったのだろう、舌打ちしながら手櫛で整えつつリカ姉が続ける。
「空手も来い。美紅とも普通にしろ。成績も落とさないように頑張れ。」
帰ろう。もう付き合ってられんわ。イライラする。
さっき解放してくれたら、今日は美しいアンタとの思い出に浸りながら昔の夢を見れたのに。それとおっぱいの。
さぁ、これからが大変だ。幼いころの無邪気な記憶をオカズにして、気の遠くなるような孤独の時をジジイになるまで過ごすための準備をしなければ。
みんなが俺を置き去りにして大人になっていく中で、キレイなおめーらの記憶を守っていく精神世界の番人になるんだウヘヘ。
「ヤラしてやるから」
なにかが手裏剣みたいに顔に飛んできてデコに当たった。痛くはない。
アイボリーの絨毯にポトリと落ちた、小さな平ぺったいパッケージ。
円形に膨らんでる。知ってはいたけど、実物初めてみた。
「どうだ?」
声に反応して顔を上げたら、知ってるけど知らない人がいた。
誰かはわかってる。リカ姉だ。でもこんな人知らない。
切れ長のつり目。筋の通った鼻。薄い唇。黒髪ロングヘアーのリカ姉なんて知らない。
化粧もしてないのに、顔だけ見れば美人な黒髪ロングヘアーのリカ姉なんて見たことない。
ブラも取って、シャツの下で大きな胸が膨らんでる黒髪ロングヘアーのリカ姉。
あ、『リカ姉』が余計なのか。
黒髪ロングヘアーで美人で巨乳の高校生で、それがリカ姉ってだけなんだ。わけわかんねえ。
髪型ひとつでここまで変わるものなのか。
手の平のコンドーム。ふちがギザギザしてる。
「…イイッ」
誰かの声が漏れた。わかってる俺の声だ。認めたくないけどな。
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