第17話


朝メシが終わった日曜の朝の台所に、スパーンと乾いた『イイ音』が響いた。


丸めた新聞紙で頭を叩いたような音だ。

じゃなくて、そのまんまの音だった。俺の頭に衝撃と痛みが走ったので間違いない。



「ちゃんとリカちゃんにお礼言ったか?」



父ちゃんだった。へし折れた新聞バットの先を流し台に向けている。

そこには、食器を洗う母ちゃんの横で皿を拭いているリカ姉の後ろ姿があった。



「やっぱ女の子はいいわぁ。バカの出した、ティッシュだらけのゴミ袋をチェックするのはもうウンザリ!」



母ちゃんが無駄な貫録を出して、しみじみと

『年頃の息子がいる家庭でのゴミ分別の苦労』をリカ姉に愚痴りだす。


わかりやすい含みのある話だが、俺はハッタリだと確信している。

そのへんは、ちゃんと便所に流しているからだ。


息子の鼻には分泌液を出す機能があることを、無知蒙昧なる製造元のオバハンに知らせねば。

そう思って、カラカラの鼻を必死にすすってアピールしてみたが

流れる水音の方が強かったようだ。クスクス笑うリカ姉が俺を見ながら言う。



「中坊なんて、そんなもんでしょ。なっ、チンポ猿?」



ドキリとした。その明るい声と、優しく下がった目尻の裏に

親たちには通じない意味が隠れているのかが気になって

自分の顔が赤くなるのがわかった。


家の前でリカ姉を見送ったあと、部屋に戻ってベッドに顔を埋めた。

かき抱くように息を吸う。


僅かな距離で2回も振り返ってくれた人を想って

ふざけた投げキッスに「バカ」と言ってくれた人を想って

自宅に入る前に、ずっと切ってくれていたスマホの電源を入れた人を想った。

初めて感じた寂しくて、でも温かい感情だった。



「カツオ、山下が話をしたいって言ってる」



水曜日の放課後、俺を捕まえた成田が申し訳なさそうに言った。


その時、美紅と口をきかなくなって一週間が経っていたが

俺の日々には心の平穏があった。バカどもに余計な気を遣われながらも

女子たちの奏でる、どうでもいい雑音を無表情で流すのにも慣れてきた。


美紅と吉岡を目で追わなくなった。

暇を見つけて、リカ姉と同じ高校に行くために自習に励む日が続いた。


いつもより30分早起きして、通学前のリカ姉に挨拶し

背中を叩かれるのを楽しみにして、空手の日を待ちわびる。

ニヤつきながら道場でしごかれ、嬉しそうにリカ姉に殴られる俺は

さぞかし周囲には不気味に映ったことだろう。



「樋口の件か、なんでまた?」



山下とは樋口の彼氏のことだ。



「わりぃ、我慢できなくて少し脅した。そしたらオマエと話がしたいって」



このバカ成田が。いや、樋口の方に手を出さなかっただけでもマシか。

女に手を上げてたら、リカ姉ルールに基づいて絶縁するところだった。

その気持ちは素直に嬉しいけども。



「どこに行けばいい?」



「ウン公園。山下にバックはいねーはずだが、なんか余裕だった。

変なのが出てきたら俺が先に行くし、上の人が出てくるなら三崎先輩には俺が土下座する。」



成田の顔には苦みが走っていた。

ウン公園とは、学校の裏にある小さなウンコだらけの公園の通称だ。

何度も掃除されてるが、地面からはえてくるみたいにすぐウンコだらけになる。



「いや、もうリカ姉には迷惑かけたくない」



俺は「付いていく」と言い張る成田を振り切って

自販機で青のコーラと赤のコーラを一本ずつ買ったあと、一人で公園に向かった。



「どっちがいい?」



両手に持ったコーラを見せて近づきながら、開口一番に山下にたずねた。


同じクラスになったことはないが、樋口の彼氏であるコイツの顔は前から知っていた。

相変わらず、フツーのヤツだった。

中性的な顔立ちで、運動はできないが勉強ができて、まあまあモテそう。

なんで樋口なんかと付き合ってんだろ。



「青の方。こだわりがあるんだ。」



俺は嬉しくなった。リカ姉も青しか飲まないからだ。

ちなみに俺は赤派だ。好みが違うことで喜べるなんて不思議なものだと思った。



「お金出すよ、名倉君」



「カツオでいいよ、金もいい」



俺たちは、珍しくウンコが落ちてない状態の公園のベンチに並んで腰かけた。

俺がペットボトルの蓋をひねるのを見て、山下も開ける。



「あかりちゃんがごめん」



一口だけ飲んだ山下が、蓋をしめながら切り出して

「カツオ君への陰口は僕が責任を持ってやめさせるから」と続けた。

座ったまま俺に体を向けて、深々と頭を下げて。



「成田に脅されたからか?」



「違うよ。成田君に話を聞いて知ったからだけど、脅されたからじゃない。」



山下は、俺の目を見て喋っていた。ビビってる様子がない。



「あかりちゃんにも話していないけど。僕は2年生の時、須藤先輩にお金をとられていた。」



黙って頷いただけで話の続きを促した俺に、ためらいもなく山下が言った。


俺は納得した。去年、5人で『須藤潰し』をキッカケに3年たちと揉めた時のことだ。

俺たちに優位なまま事態が収束しかけると、急にニワカフレンドが増えたことがあった。

須藤と、その取り巻きの被害者たちだった。


3年が卒業したら、すぐに挨拶をするだけの仲になって

ちょっとだけ世知辛い気分になったりもした。



「僕みたいな、カツオ君の隠れファンって結構多いんだよ。残念なことに、男ばっかだけどね。」



山下も、俺以外の4人の誰かに付いたニワカフレンドの一人だったんだろう。

一部が隠れファンと化してる事までは知らなかったが。


「だから君たちのことは信用してる」と冗談っぽく笑った山下は、少しだけ寂しそうだった。


そのあと、お互いがコーラを飲み干すまで話をした。


最初は教師への愚痴で始まった雑談だったが

定番のエロネタから飛んで、お互いの進路の話が終わり、会話が途切れた時

突然、山下が熱の入った口調で懺悔に近い独白を吐き出した。


それは「僕は誰かに逆らったことがない」で始まった。


カツオ君のために怒った成田君たちが羨ましい。

誰かのために体を張れる君たちが羨ましい。

お互いをたしなめ合う事ができる君たちが羨ましい。

喜び合える仲が羨ましい。苦労を分かち合える仲が羨ましい。


そんな話だった。俺は黙って山下の声を聞いたまま

込み上げる何かに耐えて、手で顔を覆った。


頭には一人の女性が浮かんでいた。

二つの言葉が心に響く。「お互いに」、「し合う」。

俺はまだリカ姉のために何もしていなかった。



「僕とあかりちゃんは幼馴染でね、あの子にもいいところがあるんだ。

彼女は猫が好きでね、よく拾ってくるんだよ。彼女の家は猫だらけなんだ。」



三崎家も全員が猫好きだ。なのに、ポンタが死んでからは一匹も猫を飼っていない。

リカ姉が反対してるからだと、おばさんは言っていた。

「死んだら悲しいから、もう生き物はいらない」と。

今ならわかる。自意識過剰かもしれない。でも、多分、俺のためだ。



「カツオ君。僕は初めてあかりちゃんを叱ってみる。」



そう言い残して、別れた山下が俺には眩しく見えた。


翌日の朝、俺は登校時に樋口の謝罪を受けた。



「カツオくん、今までごめんなさい」



それだけ。早口で言い放って、すぐに去っていったが

その瞬間、俺はなぜか樋口に女らしい優しさを感じて妙な気分になった。


モヤモヤしだした、胸のあたりを掻きながら教室に入り

しばらく日課の自習を続けていると

入口から樋口の声が聞こえてきて、俺は顔を上げた。


「ちょっと待って、美紅!」


樋口が俺に向かって指をさして、美紅に何かを促している。


首を振って、すぐに樋口を残して歩き出す美紅。その後ろに吉岡が続いた。


俺は顔を机に戻した。少しだけ胸が痛んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る