第18話

8月の始まり、夏休みの真っただ中。


生誕より15年目にして非童貞となられた、カツオ帝の即位より約2ヶ月。

セックス歴でいうなら0.18年ほどが経過したことになる。


その日は日曜日だった。朝から勉強漬けで息抜きを欲していた俺は

パルプのみを用いて薄く重ねられた使い捨ての高級純白紙へと

己の内より産まれ出でし、やんごとなき可能性の一端を

体外へと迸らせるための行為を終えて一息ついていた。


正午へと近づいた、晴れた空を眺めながら

心は惜別の悲しみで満ちていた。

生きて世に出たならば、一角の人物になり得ただろう我が分身たち。

「すまん」と思った。


そして、同じ空の下に生きる4人の旧友たちに想いを馳せる。


彼らは今頃、粗末な茅葺屋根の下で、ヒエとアワの粥をすすりながら飢餓に耐え

乏しいタンパクをやりくりして作り出した『童貞汁』という名の汚水を

擦り切れたムシロへと無駄に飛ばして、命を削る自殺行為に勤しんでいるのだろう。

あまりにも哀れだった。


友誼に厚い俺は思った。このままではアイツらは子孫が残せない。

ならばいっそ、魚にでもなればいいと。



「魚はいいぞぉ、かっぱらってきた卵にぶっかけるだけで子孫が残せるんだ。どうだオマエら?」



そんなふうに、4人の肩へと優しく手を置いて語りかける

慈愛あふれる自分を思い描きつつ

いつになく充実した気分で流れる雲を見送った。


だから油断していた。



「カツオ、メシ作りに来てやったぞ。パンツ履け。」



背後から声がした。竜巻を起こす勢いで振り返ったそこには

俺にとっての愛するご主人様的な人がいて、じっと俺を見ていた。

その人は無表情だった。ドアは何故か開いていた。



「ソーメンでいいだろ」



「いえ、午後も頑張りたいです。コッテリしたものが食べたいです。」



5分後、俺は食卓台に両肘をついて、間に顔を埋め

寿司屋っぽい割り箸の袋に書かれた、達筆すぎる筆文字を見つめていた。

読めないし、読む気もなかった。ただの現実逃避だった。

リカ姉の問いかけには、ボソボソとしか答えられなかった。



「どうせ無駄だ、そんな栄養。腹だけ膨らませとけ。」



「はい」



返事だけした。抵抗できなかった。するだけ無駄だった。

リカ姉の口調が淡々としすぎていた。

トンズラこいて公園のドングリでも食べようかと思い始めた。



* * *



「もうすぐ来るから用意しろ」



首振りをオフにして固定された扇風機の風に、髪をなびかせながらリカ姉が言った。

台所には、換気扇の排出力をものともしないカレーのニオイが充満していて

炊きあがった米をしゃもじで混ぜ返してる俺の腹を誘惑している。



「うん」



短い返事だけして、食卓台に並べられた三組のスプーンと皿に目を向ける。

特に言うことはない。時計の針は12時半になっていた。



「お腹すいたぁ~」



リカ姉が出来上がった鍋を食卓台の雑誌の上に乗せたのと

玄関のドアが開いたのは、ほぼ同時だった。

脱ぎ捨てた靴が転がる音のあとに、ふざけて歌ってるような声がして

廊下にスリッパをこすらせながら近づいてきた人影が

「祭」と書かれた台所の入口の暖簾をくぐった



「お昼、カレーなんだぁ。リカ姉のは美味しいもんね!」



美紅だった。




* * *



期末テストも終わった7月の中旬。美紅と吉岡が別れた。


原因は吉岡の二股。学年一のビッチと名高い、とある女性と関係を持ったんだそうだ。

女の名前は佐藤麻里江。

派手な茶髪と猛毒が仕込まれた爪、蛇のような目と、デコのてかり加減で消えてしまいそうなほど細い眉毛を持ち

学校の外では、鍵束から鍵とキーホルダーを全部はずせばソックリなモノが再現できそうな、銀色の輪っかピアスを常に身に着けている爬虫類の仲間だ。


本来、佐藤麻里江はタメ歳を相手にしない、義務教育を終えた紳士専門のミートホールとして世界のどこかで輝いていた。

だから俺たちにとって、アレはメスと呼んでいいのかすら曖昧な

まさしく異次元の存在であったはずだが

吉岡の容姿はその境界線を突破したらしい。ヤッたんだそうだ。樋口から聞いた。


美紅は荒れた。

家の中はめちゃくちゃに破壊され、窓ガラスは割られて、ソファーは破かれ

アイツの体でどうやったのか知らんが、天井近くまで届く洋服箪笥が引き倒されていたそうだ。


美紅のおばさんは、美紅と同じで小柄で華奢だ。

おじさんは役職持ちになったばかりで、ほとんど家に帰れない。

親戚も遠くて頼れないし、俺とはアレだったので

コップを投げられて、顔に青あざを作ったおばさんはリカ姉を頼った。


リカ姉は一週間も学校を休んだ美紅に4日間付き合った。

そしてとうとう、これ以上は休めなくなったリカ姉が

後ろ髪を引かれながら登校する日の早朝、おばさんが俺の家に現れて頭を下げた。



「カツオくん、お願い」



母ちゃんから話を聞いていた俺は、リカ姉が受けている負担にずっとヤキモキしていた。

初日ですら「アタシの役目だ、カツオは気にするな」と言ったあの人の顔には

明らかな疲れが見えていた。

歯を食いしばって眠れない日が続いた。抱いていたのは怒りだ。

美紅か自分、どちらか、あるいは両方への。


だから、玄関で手を合わせている、かつては義母と呼ぶはずだった女性が

あまりにも憔悴した様子を見せていたせいもあって

俺は正露丸を噛み潰したような顔をしながら、2カ月ぶりに花山家に足を踏み入れた。


家の中はひどい有様だったが、リカ姉が頑張ったのだろう、足の踏み場ぐらいはあった。

窓ガラスは養生テープで仮補修されていたし、家具の位置は引きずったあとを付けて戻されていた。


だが、庭の草は生え放題で、玄関には縛りの緩い新聞と雑誌の束が積み上げられていた。

おばさんの手が届かない場所には、薄く埃が積もっているのも見えた。

美紅と結婚するつもりだった俺の手伝いが途切れたせいだ。



「カツオ、佐藤を殺して」



美紅の部屋に入った俺は、本当に久しぶりに名を呼ばれた。

無機質な声だった。台本を確認しているだけのような、ただ出しているだけの声。


俺は美紅の顔を見たあと、部屋の様子を見まわして俯いてしまった。



「わかった」



靴下の爪先を見つめながら答えた。

女に手を上げたくはない。だが、リカ姉の役には立ちたい。

佐藤麻里江は、2コ上で有名だったサトケンの妹だ。

一発ひっぱたいて、あとは俺が殺されりゃいい。本当に死にはしないだろう。



「吉岡も殺して」



美紅の唇は皮が剥がれて、口の端が赤くなっていた。

過食嘔吐。食って吐いてを繰り返したそうだ。



「わかった」



割れて欠け剥がれた鏡、ヒビをふさいだ窓ガラス、うさぎのクッションに突き刺さったハサミがあった。

破かれてページをまき散らされた漫画の残骸があった。



「やっぱりレン君はやめて」



去年、美紅の誕生日に渡した水色の革財布が

切り裂かれてベッドの前に転がっていた。



「わかった」



爪先に水滴が落ちた。

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