第19話

「はやくやれよ、花山のクソ犬」



しびれを切らした目の前の女が、溜め込んだツバのように罵倒を吐き出した。

デコのシワと区別がつかなくなった細い眉毛の下で

上目使いで睨みつける蛇の瞳が、ギラつきながら向かい合うバカの顔を貫いていた。


平手を振りかぶったまま、下せもせず、振りぬけもしないヘタレ野郎がいた。

軋むほど噛み締めた歯の奥で、浅い息と、逃げる理由の欠片を作り出しているビビり小僧がいた。

地面の状態が気になって仕方がない、目を下に逸らしたくてたまらない、ニワトリの心を持った俺がいた。


「なにしてんの俺?」後ろから、横から、問いかける声がうるさ過ぎて

これ以上は無視できなくて、俺は『本当のこと』を叫んで

必死に嘘を吹き込んでくるソイツらを追い払った。



「美紅なんかのためじゃねえよ!」



* * *



部屋に散らばった、たくさんのゴミを片付けながら美紅に語りかけた。


今日は何か食べたか?喉は渇いていないか?ぶつけた手は痛まないか?風呂には入ったか?



「うん」「うん」「うん」「入ってない」



暑くないか?眠れたか?眠くないか?学校には行けるか?



「うん」「眠れない」「眠くない」「うるさい!」



化粧水のボトルが飛んできて、とっさに庇った俺の手に当たった。



「早く佐藤を殺して!」



たいして痛くもないし、物騒な言葉をぶつけられても、まったく恐ろしくなかった。

懐かしい声だとすら思った。

美紅がよく俺を急かしていたことを思い出しただけだった。


「カツオ、早く持ってきて!」

「カツオ、早く迎えにきて!」

「カツオ、早くこいで!」


元気な証拠だと思って、安心すらした。そして、冷静になれた。



「わかった、佐藤をボコれば学校に行くんだな?」



美紅は小さく、でもはっきりと頷いた。


俺はそれを見たあと、たくさんの『ゴミ』たちを拾い集めた。

枕に顔を埋めてすすり泣きだした美紅を無視して、黙ってただ手を動かした。


切り裂かれた水色の革財布、ベルのはずれた目覚まし時計、液晶の割れたシールメーカー

無事だったキャラクターのクッションも、無傷の腕時計も

本物が高くて買えなかったハートのペンダントのパチモンも。


分別なんてしなかった。他のゴミと一緒に、ひたすら袋に入れ続けた。



「カツオ、もう行くの?」



破れないように、二重にした袋の口をしばっていると

聞きなれた美紅の声が聞こえた。


少し前によく聞いていた声だった。

寂しそうな声。甘えた時の声。カツオ、これ買って。


首をめぐらすと、起き上がっていた美紅と目が合った。



「手、握って」



細くて白い手が俺に向けられた。信じられない言葉を添えて。

ずっと握りたかった手がそこにあった。


記憶にない言葉だった。それは聞きたかった言葉だった。ずっと欲しかった言葉だった。


俺はゆっくりと近づいて、そっと美紅の手を握った。

手の甲には大きな絆創膏が貼られていたが

女らしい、柔らかい感触だった。

痛むのを確かめるために、美紅の表情を見ながらやさしく力を込める。


少しの間、そのままで見つめ合った。濡れた赤い瞳を見ていた。

美紅の腫れあがったまぶたが何度も閉じて、開いた。

鼻水をすする音を何回も聞いた。

小さな声で名前を呼ばれて、返事をするだけのやりとりを繰り返した。


以前なら、許さなかった。美紅にこんなことをしたヤツを、俺は絶対に許さなかった。

でも今は強まり続ける焦りと、少しの悲しさがあるだけだった。


何かをしたい。あの人のために。


だから俺は言った「佐藤をボコったら」。


美紅の目を覗き込んだ。

美紅に対して、生まれて初めて向ける種類の感情を込めた俺の目を見せつけた。

わかってる、コイツに気づけるわけがない。オマエには無理だ。



「これ以上、リカ姉に迷惑をかけないんだな?」



美紅は頷いた。




美紅が眠るまで手を握ってた俺は、おばさんを落ち着かせて、花山家を出た。

学校には3限目の授業から出席した。

遅刻の理由は「ハライタ」。母ちゃんが電話を入れてくれた。


俺はそれが真実であることを裏付けるためにも

かつてカマボコが貼りついていたとされる木片を、ヘソのあたりに挟んで登校した。


教室には吉岡もいた。

美紅のいないこの数日間、ヤツは生気のない顔をして一人で机に座っていた。


最初こそ、休んでいる美紅の体調を心配しながら

薄笑いを浮かべて噂を否定していたし

取り巻きの女子たちもヤツを信じていた。信じようとしていた。


だが、すぐに佐藤が吉岡を捕まえて、腕を絡ませながら強引に放課後の人込みを歩きだすと、ヤツは孤立した。

もともと男子とは関わり合おうとしなかったせいもあって、逃げ場所も、助けもなかった。


ちなみに佐藤は、今日の朝に『吉岡ごっそさん宣言』を出して未知なるフロンティアへと旅立ち

自らの膨大な履歴を持つ開拓史に新たな1ページを加えることで

学年内で語られている

電光石火の逆ピストン輸送”一人しか乗れない”超快速トレイン「さとう号」の伝説を更新していたそうだ。樋口から聞いた。



「本多」



昼休みの便所前で、俺は本多を後ろから呼び止めた。

右足を浮かせた体勢で動きを止めた本多は、上履きを床に戻すと

ダルそうに振り返った。

背後の様子に気付かなかった吉岡は、そのまま便所に入っていった。



「やめろ」



俺は言った。本多は僅かに口をとがらせて、頭を掻きながら目を合わせずに返した。



「オマエには関係ねえよ、俺だって花山とは昔からの知り合いだ」



「わかってる、ありがとな。でもやめろ。」



本多は俺の肩に軽く拳を当てると、教室に戻って行った。



放課後、俺は急いで学校を出て、佐藤を帰り道で待ち伏せした。

佐藤は別のクラスで、ほとんど面識が無かったし

呼び出すツテが樋口ぐらいしか無い。

それに、呼び出したところで伝え聞く佐藤の性格上、ブッチされるのが見えていたからだ。



「マケオじゃん」



ブロック塀に囲まれた行き止まりに通じる路地の前で

佐藤の手首を掴んでリアクションを得た俺は

心の中で樋口の功績を称えながら、歯並びの悪い魔女の笑顔を思い浮かべた。



「佐藤、わりーけど用がある」



俺は返事を待たずに、佐藤を奥へと引きずり込んだ。



「なんでオマエを振った花山のためにそこまですんの?」



この時、俺は初めて「マケオ」が有名でよかったと思った。話が早かったからだ。

行き止まりの奥に佐藤を押し込んで、出口をふさいだ時点で問いかけられた。


俺は答えなかった。喋ったら気が抜ける。決心が鈍る。余計なことを考える。



「どこまで犬なんだよオマエ」



手を振り上げた。リカ姉は「女に手を上げるな」とは言ってない。



「やれよ、オマエは兄貴にビビらないヤツだって知ってる」



「抵抗できないヤツに手を出すな」と、いつも言っていただけだ。

喧嘩をしない連中、女、後輩。俺の解釈だ。



「上に逆らうバカだ。あとで地獄見ろ。やれよ。」



コイツはサトケンを出して脅してる。抵抗してる。



「はやくやれよ、花山のクソ犬」



リカ姉、あの時叩いてゴメン。ずっと後悔してる。これで最後にするから。



「美紅なんかのためじゃねえよ!」

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