第20話

俺が住んでるこの街には体長190センチの野良ゴリラがいる。


素手でウンコを掴んで投げないことだけが、たった一つのチャームポイントである

自由気ままに悪さばかりするこのクソゴリラは、人間様にとって迷惑極まりないことに

人語を解し、店で買い物をするだけの知恵があるせいで、バナナよりも金の方が好きで

ある程度の嘘を見抜くことまでする。


機嫌が悪いと次々と人を襲い、拘束して、ぶん殴ったり、おもちゃのように投げ飛ばしたり

余興を強制して、自分が飽きるまで暇潰しに付き合わせようとする。


もちろん、この害獣の駆除のために保健所よりもゴリラ対策に税金を使っていると定評のある

ピストルと警棒を持った集団が、暇を見つけては追いかけまわしているが

おそろしく逃げ足が早くてなかなか捕まらない。

逆に一般人がこのゴリラから逃げようとするとすぐ捕まってしまう。


時々この生き物を懲らしめようとする、義侠の信念を抱いた正義の勇者が現れるものの

正々堂々と人数を集めて不意打ちをしたところで血を流しながら屁をこくだけで

誰一人として本懐を遂げることなく返り討ちにされていた。


俺は、自分が確実にこのゴリラをぶっ飛ばせる男になるには

少なくとも、あと三年分の忍耐が必要だと考えていた。

18歳になれば車の免許が取れるからだ。


他の個体が現れた最悪の事態に備えて、誰かが必要だと考えたのだろう

このゴリラには名前があった。普段は本名の佐藤賢司よりも通称の方で呼ばれることが多い。


そう、サトケンのことだ。



サトケンはアホみたいに強かった。食らったのはビンタというよりも張り手で

自転車こいでる時によそ見してて壁に突っ込んだ時のように、一発で意識が飛びそうになって

叩かれたところは感覚がなくて、命がすり減っていくような耳鳴りがするわりには

痛いのか痛くないのかわからなかったが

首の方が痛すぎて、食いしばってた歯の根っこが合わなくなった。

道場で上段の回し蹴りをモロに食らって薙ぎ倒された時と似ていた。


倒れて、起き上がるたびにそれを食らった。やがて何も考えられなくなって

フワフワと視界が上下に揺れて、空だけが見えた時に襟を掴まれて立たされたところまでは憶えてるが

そっから先が思い出せない。


気が付いたら、俺はうずくまってゲロを吐いていた。



「結局なにがしたかったんだオマエ?」



膝をついて、名も知らぬ草たちのために大地に肥料をまいていた徳の高い拙僧の頭に

ペットボトルの水をかけたバチ当たりな佐藤とサトケンが、兄妹揃って同じことをきいてきた。

残った水の半分を俺に渡しながら。



「なんか言えコラ」



言葉とは裏腹に、楽しんでるような声でサトケンが俺の背中をさする。

なぜか、やさしい手つきだった。

明らかに手加減されていた。殴ればいいのに、蹴ればいいのに、張り手でなぶられただけだった。

「コイツ、バカだしきいても無駄」と、佐藤の声がした。


情けなかった。何もできなくて悔しかった。

ひっくり返って泣き喚いて、なんとかなるならすぐにそうした。

自分の体に自爆ボタンがついてたら押していた。

指を食いちぎって血で魔法陣を描けば悪魔が助けてくれるなら迷わず描いた。


あまりにも痛くて、酸っぱくて、痛くて、悲しくて

現実から逃げたくて、でもできなくて

それでも次の手を考えなければならない俺は

頭を動かし続けた。今のこと、この先のこと、さっきのこと。




さっきのこと。

結局、俺は佐藤を殴れなかった。平手を振りかぶったまま、半泣きで突っ立ってたら

キンタマ蹴られて体を折り曲げるハメになっただけだった。

なぜかド田舎の風景と、畑にいたババアが折れたキューリを渡してくる映像が脳内で再生されたが

そんなところに親戚は一人もいなかった。



「死ねハゲ」



そう言い残して、俺の横っ面にツバを吐いて帰ろうとする佐藤の気配。

俺は焦った。逃したら終わる。何も持って帰れない。

俺は役立たずで、美紅は俺をアテにしなくなって、リカ姉が明日も明後日も苦労する。何よりもそれがつらかった。


その瞬間、思いついた。必死のひらめきだった。


死に物狂いで腕を伸ばして、恋しさと、せつなさと、股間の痛さに耐えて篠原ではなく

佐藤の手首を掴んだ俺は、喉につっかえた塊を吐き出すように怒鳴った。



「サトケンを呼んでくれ!」



「は?」という声を出して佐藤が固まる。

お互いの無言が体感で一分続いた。


やがて、舌打ちした佐藤が何かを考えるようなしぐさで

スマホを取り出した時には、俺の覚悟も決まっていた。



「ついてこい」



通話を終えた佐藤と俺は、2キロ先にあるパチンコ屋に向かって歩いた。

痛みに耐えて、潰れていないキンタマのありがたさに震えながら内股で足を動かしていると

振り返りもせずに、先を歩く佐藤がきいてきた。



「花山じゃなかったら、誰のためなんだよ?」



俺は答えなかった。2回おなじことをきかれたが、無視をした。

舌打ちが聞こえてきたが、佐藤は振り返らずに歩き続けた。



「よっ、名倉!」



パチンコ屋の駐車場で佐藤と並んでサトケンを待っていると、後ろから誰かに肩を掴まれた。


振り返ると、黒いTシャツの胸板が目の前にあった。

筋肉で盛り上がってて乳首が浮いていた。

吸い込んだ息に、汗のニオイが混じった。

「クッサ!気色の悪いもん見た」と思って、顔を上に向けると

日に焼けた短髪ゴリラの輝くような笑顔が俺を見下ろしていた。


俺は目を見開いた。背中に電流が走って、胸が絞られて、血が巡りだしたが

ぜんぶが遅すぎた。「サトケン」と心の中で唱えることもできなかった。

左の顔面にガラスが割れたような音と衝撃。時間が飛んだ。




「佐藤、頼む、美紅に謝ってくれ」



俺は生まれて初めて、つむじに自分のゲロを食わせてみた。

鼻血と水がまざってビチャビチャのゲロだったが

小石が頭に食い込む感触があるだけで、もちろん味はしなかった。


考えついた『最後の手段』の一歩手前だった。

口がしびれて、もつれて

「さとう」が「さほう」になって、「みく」が「みふ」になったが

意味が伝わればどうでもよかった。

これでダメならサトケンの首に噛みつこうと思った。それが最後の手段だった。



「だから誰のためなんだよ、言えよ。言ったら考えてやるよ。」



イラついて爪先で地面を叩く音と、缶コーヒーをすする音が2つ聞こえた。

兄妹でハモってた。


本当なら、勝てなくてもしつこいヤツだと思わせるつもりだった。

何度も食らいつく気概を見せれば、どうにかなるかもしれないと思った。

サトケンをウンザリさせれば、佐藤が言うことをきくと思った。

けれど、まったく歯が立たなかった。俺は弱すぎた。



「恩がある先輩だ。家でおかしくなった美紅を助けようとしてる。佐藤、頼む。」



俺はボカした。リカ姉の名前さえ出さなければいいと思った。

ドタマを地面につけているせいで、のぼせてきた。

血で鼻が詰まってるはずなのにゲロが臭かった。



「それ三崎だろ」「三崎先輩じゃん」



真っ白になった。背中が波打った。

肛門が奥に入り込んで、少しションベンが漏れて

跳ねるように顔を上げてしまった。


見上げると、並んでフツーにコーヒーを飲んでる

ゴリラと蛇の兄妹が俺を見ていた。表情はどう見ても呆れていた。



「違う!!」



俺は手のひらを突き出して、魂を削った絶叫の否定をした。

今なら出せると確信して、手から二条の洗脳光線を出してみた。忘れてしまへ!



「嘘つけバカ。オマエをマジで相手にする先輩なんて、三崎先輩しかいねーだろ。」



無駄だった。

「花山もだ」と付け加える佐藤。

「だな、花山ってのは知らんけど」と頷くサトケン。

コーヒーを飲み干す二人の動きがシンクロした。

そして溜息のあとで、佐藤が俺の頭に缶を振り下ろした。



「はやく言えよバカ!」



からっぽの缶よりも、頭のほうで乾いたイイ音がした。



そのあと、俺は首根っこつかまれて焼肉屋に連行された。

顔と頭はパチンコ屋の便所で洗った。

制服で入ってきた俺に店員が近づいてきたが、サトケンが睨むと慌てて消えた。



「名倉、おめえバカすぎてオモシレェ!」



サトケンはパチスロで大勝ちしたらしく

上機嫌でビールを煽りながら、俺の髪の毛を引き抜いて、散らしたり、床に捨てたり

肉に巻いて食わせたりしてきた。頭がヒリヒリして、首と口の中が痛すぎて、死ねゴリラと思ったが我慢して食べた。


小皿にツバを吐いて『先輩のタレ』だと言って肉つけて食わしてきたのは

断固として拒否した。「だからオマエはダメなんだ」と殴られた。痛かった。


佐藤もビールを飲んでいた。飲ませてきたので、断ったら二人に殴られた。痛すぎた。


色々なことがわかった。サトケンは道場の先輩経由でリカ姉と知り合いで

俺がリカ姉に可愛がられているのを知ってて、手加減していたんだそうだ。

佐藤もリカ姉を慕っていた。リスペクトすらしてると。貞操観念は大違いだと思ったが。



「アタシが一学期の残り、休んでやるよ」



焦げた肉と野菜を網からよけながら、なんでもない口調で佐藤が言った。

「暑くなってきたしな」と、あとにつけて。


佐藤は夏休み明けまで学校に顔を出さない、俺との関連をきかれても

肯定も否定もしないと約束してくれた。


その時、目を細めて俺を見る佐藤に、どことなくリカ姉に似てる雰囲気を感じて

少しだけコイツのことが好きになって、俺は素直に頭を下げることができた。

しばらく上げなかった。


サトケンが後頭部に焼けた肉を乗せてきたが、気合と根性と殺意の定期預金で5枚まで耐えた。



「なんで吉岡を食ったんだ?」



「あとはテキトーにやれ」と言って、俺の頭を叩いたサトケンが帰っていくと、佐藤と二人になった。

酒の味、有線の曲、新しくできた雑貨屋。どうでもいい内容の、だけど妙に気分のいい雑談が続き

最後の肉を食い終わって、ロースターの火を止める時に

ふと思いついたことをきいてみた。



「顔がよかったからヤリたくなった。それだけだ。」



まっすぐな目で言われた。そして「終わった話だ」と続けた。

まるで「ケツがかゆかったから、かいたらかゆみがおさまった」と

真面目に説明されたような気がした。やっぱ似てねえわと思った。



「このあと、ヤラしてやろうか?今のオマエならいいぞ」



蛇の目が光った。テーブルの下で、スカートに手を突っ込んで

パンツのゴムでピチッと音を立てさせながら。

絶対本気だと思った。吉岡の後なんてバタフライお断りだが、俺ならいいのか。

やっぱ、ほんの少し似てるかもと思った。



「オマエ、三崎先輩のこと好きなの?」



店の前で別れる時、ガムを口に入れた佐藤が

俺にウーロン茶の缶を渡しながらきいてきた。

慕う人がおなじ。そんな、通じ合う何かがあったのかもしれない。

嬉しくて楽しそうな、お互いの心の端を認め合う気持ちが流れたような空気があった。



「花山のためじゃなく、三崎先輩のため。そうじゃね?」



俺は頷いた。



「頑張れよ、カツオ!」



最後に一発殴られた。温かいパンチだった。

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