第21話
帰り道は憂鬱だった。
また、助けられた。リカ姉の名前を出すだけでよかった。
こんな痛い思いをしなくてもよかった。バカだった。
そんな、暗くて惨めな気分が止まらなくなった。
顔が熱く脈打ってる。首が痛みで引きつってる。頭がヒリついてジンジンする。
真っ直ぐ歩けなくて、夜空がゆがんで、街灯の光が線を描き出して、感覚が鈍くなっていく。
気が付くと地面が近づいていて、俺は座り込んでいた。
ダルくて、眠くて、家までが遠く感じて、心細さと、不安が体を包んだ。
少しのあいだ、膝を抱えながら項垂れていると
ふいに、俺の右手が何もないところを掴もうとした。
斜め前の空間、そこに誰かがいたような気がして。
呆けたように、握りこんだ手を見つめる。
確かに、そこに手があったような気がした。誰かの手が。
やがて、記憶がよみがえった。
俺にとっては、はるか昔のこと。
今の、このくらいの目線で歩いていた時の
いつかの帰り道の思い出が溢れた。
あの頃は、今よりもぼんやりとした光が夜の道を照らしていた。
暗い場所が多かった。塀と塀の隙間に何かいそうな気配がした。
電柱が太くて高くて不気味で、道路の排水溝が近くて臭かった。
遠くで聞こえる犬の声や、前から、後ろから迫ってくる車が怖かった。
俺は自分よりも少しだけ大きな手に、いつも引かれていた。
女のくせに力の強い手だった。疲れてグズるとソイツに叩かれた。
だけど叩いたら、ちょっとだけ休ませてもくれた。
どうしてあの人は、あんな道の中で俺の前を歩けたんだろう。
明るく笑いながら歩けたんだろう。
昔からなんでもできる人だった。昔から俺は助けられていた。
昔から俺は役立たずだった。
(うーちーにぃかーえーろーう、だれかーがぁまってーいーるぅ)
その時、記憶の底で声がした。
リカ姉の声だった。歌っていた背中。汗ばんだ手。
大げさに振り回した拳。わざと崩した音程。張り上げた声。
俺にも歌うように、振り返って命令した寂しそうな顔の記憶。
「たぶん、あの人だって怖かったんだな」
そう一人頷いて、俺は立ち上がった。
金曜の酔客で賑わう酒場通りを抜けて
家まで残り数分というところで、明日樹のおじさんを見かけた。
玄関から犬を連れ出して、散歩に出かけるところだったようだ。
明日樹は、同じクラスの男子で名字は「伴」と書いて「バン」ではなく「パン」と読む。
名前の読みは「アズキ」。学校には来たり来なかったりする。
昔はみんなの夢を守るためなら恐れを知らない、優しい男だったが
自身の幸福や、何をして喜ぶのかを考え過ぎたのだろう
それがわからないまま終わる恐怖に耐え切れず
ある日、トルエンを吸いだした。
そして、助けたはずの誰かに頭を食われて
おじさんが用意した新しい頭と交換し続ける幻覚を見るようになり
どこまでも飛ぶようになった。
今では等身大ラブドールの藍ちゃんと、優希ちゃんぐらいしか友達がいない。
明日樹の家族も、また悲惨だ。
おじさんは、体からジャムのような甘酸っぱいニオイを漂わせている糖尿病患者で
おばさんは、バタバタとタバコばっかり吸っている。
すさまじいカレーじゃなくて、加齢臭を持つジイさんは揚げたてのようなカラッとした顔をして
バアさんは驚くと『ショック』で心臓がよく止まるらしく、真っ白な四角い顔をしている。
愛犬の名前はカマンベールだ。
そして、そのジャムなおじさんを、少し離れたところから睨みつけているのが
家族ぐるみで敵対している、灰木家の満ばあさん。
バイキのマンばあさんだ。
横には茶飲み友達をやってる、オレンジ色のツナギ服を着たキンちゃんがいる。
キンちゃんは土方だ。ドカタのキンちゃんだ。
マンばあさんは南国の出身で、とても黒い肌と、先っちょが球状になったツノのようなパーマをこれまた黒く染めて、頭に2本はやしている
カバでもイジめてそうなセンスを持ったババアだ。
齢は90歳を超えていて
戦時中は地元でアメリカ海軍艦載機の空襲、つまり
Us Navyからの爆弾パンチ、略して「アンパンチ」を
これでもかと食らいながら逞しく育ったそうだ。
戦後は、世渡りの下手な商社マンの旦那さんに付き添って紛争地域を転々とし
国連軍ことUnited Nations Forcesの爆弾パンチ
略して「アンパンチ」を、しこたま叩きつけられたそうだ。
現在は明日樹という、トルエン中毒のアンパン野郎と殴り合って
普通に「アンパンチ」を受けている。
ピンポイントで弱点を殴られているのか、いつも鼻と口元が紫色になっているが
まだまだ元気いっぱいだ。
そんな、終わらせたくない事情でもあるのか
毎回ボコスカにやられても、一度も死んだためしのないタフなバイキのマン婆が
俺に何か話があるようで手招きしている。なんだろう、行ってみよう。
「はひふへほ」
どうやら入れ歯を忘れたようだ。俺は力強く頷いて、家路を急いだ。
家に帰って、ケガの熱が出ないように水のシャワーを浴びた。時刻は夜の8時半。
リカ姉はもう帰ってるはずだから、すぐに美紅の家に入りたかったが
焼肉屋でついたニオイと、汗や、ゲロの残り香であまりにも体が臭すぎた。
おばさんに挨拶してから部屋に入ると、美紅はベッドの中で寝ていた。
目尻から頬にかけて涙の跡をつけ、赤ん坊のように体を曲げながら
隣で眠るリカ姉の腕に抱かれていた。
抱かれて眠る美紅が、あの日の自分と重なって胸が苦しくなった。
リカ姉の疲れた顔と、深い呼吸。
それでも優しく閉じた目と、安心したように微笑んだ口元から目が離せない。
アンタは俺を抱いてくれた。今は美紅を抱いている。
じゃあ、アンタが深く沈んだなら、その時は誰が抱くんだ。
俺でありたい。俺がアンタを抱けるようになりたい。そう思った。
涙を見せてくれない、その頬に触れたい衝動を必死に抑えた。
「ごめんね、カツオ。ありがとね。」
つついて起こした美紅に、佐藤との一件を伝えた。
美紅は俺の顔を見るなり、小さく悲鳴を上げたが
眠り続けているリカ姉を指さすと、慌てて口を押さえて腕から抜けだし
俺に促されるまま部屋の隅に座った。
詳しくは説明せず、小声で「ぜんぶ片付いた」としか伝えなかったが
納得させるには、この顔だけで充分だったようだ。
美紅は、リカ姉には黙ってるように
念を押して話を終えた俺の顔をじっと見つめると、一言だけ労いの言葉を出した。
沈黙が続いた。美紅は握った両手を膝に置いたまま、俯いて動かず
向かい合って座る俺は、顔を横に向けてリカ姉の寝顔を眺めていた。
「リカ姉がね、前から言ってたの。カツオを見ろって。」
無意識にベッドの方へ手を伸ばしかけていると
小さすぎて、聞き逃しそうなほどに掠れた声が耳に入った。
リカ姉から目を離したくない気持ちに抗って、ゆっくりと顔を戻すと
無理に笑ってるような表情を浮かべた美紅が俺を見ていた。
「私のために頑張ってるカツオを見ろって」
乱れて垂れ下がった髪のあいだから、潤いを増していく瞳が見えた。
しゃくり上げた時に、それがあふれ、赤みのさした白い頬を伝った。
「ずっと前からそう言われてたのに私。ごめんね。ごめんねカツオ。」
美紅の両手が伸びてきて、俺の顔を包んだ。
柔らかくて、湿った手。初めて俺の傷に触れた美紅の手。
「美紅、痛いから」
俺は首を振って嘘をついた。ほんとは痛くなんてなかった。
美紅は怯むように一度だけ手を離して
ふたたび、俺の顔に手をすべらせた。
膝を立てた美紅の顔が近づいて、声を出さずに唇だけが動いた。「ごめんね」。
俺は目を伏せた。振りほどく気になれなかった。
小さな手の冷たい感触が、熱を帯びた顔に心地よく溶けていくのがわかった。
なんでだよ、美紅。オマエはいつも避けていただろ。
俺の傷を、まるで汚いモノのように。
たとえそれがオマエのために負った傷だったとしても。
前はそれでもよかった。今は違うのに。
なのに、なんで今頃になって触ってくれるんだよ。
つらかった。悲しくて目が開けられなかった。
「ありがとね、カツオ」
息を止めていたから、かろうじて聞こえたほどの小さな美紅の声がした。
鼻先に吐息を感じた。何も言えずに唇を噛んだ。
そのあとに続くお互いの無言の中で、一度だけ頭に浮かんだ言葉があった。
「やり直せたら」
すぐにそう思ってしまった自分を憎んで、リカ姉の寝息に意識を向けた。
体中のすべての痛みを忘れるほど胸が締め付けられて
いつまでも目が開けられなかった。
「カツオ、ケンジクンから聞いたぞ」
土曜の朝、目が覚めるとリカ姉がベッドの脇にいた。
なんの話をしているのか理解できなくて
起き上がって、首の激痛を堪えた俺の第一声が「誰それ?」だった。
「サトケン。あんなのとやり合うな。」
リカ姉の手が伸びきて、俺の顔から何かをはがした。
ダレきった湿布だった。違和感で気づいたが、首にも貼られていた。
俺は貼ったおぼえがなかった。疲れて、帰り次第そのまま寝たはずだ。
「チクッたな、あのクソゴリラ」
俺は思わず呻いた。リカ姉への口止めを忘れていた。
そもそもゴリラに会話能力があるのが間違っていると俺は思った。
あんなもん意思表示のプラカードが3枚あれば生きていけるはずなのに。
『ハラヘッタ』と『クソして寝る』と『撃ってください』。
「先輩扱いしろ。すぐに逆らうなバカ。」
顔と首の湿布をぜんぶ剥がしたあと
新しい湿布を取り出しながら叱るリカ姉は
厳しい顔で俺を睨みながらも、声がどこか嬉しそうだった。
ゴリラ、どこまで話したんだろう。
「アタシのためだったって」
考え事をしながら黙ってた俺に、ポツリとリカ姉が言った。
少し顔が赤くなったような気がして、見つめていると
両手が近づいてきて、俺の顔を包んだ。
リカ姉の手が触れる間際、俺の頭には昨夜の美紅の手があった。
柔らかい手だった。冷たくて、心地よく熱を奪う手。女らしい手。
一瞬で生々しい感触が肌に戻るような強い記憶と
その意味を考えたくない気持ちがあった。
「ありがとな、カツオ」
リカ姉の手は温かくて、硬い手だった。傷にこすれて、少し痛いぐらいの。
でもこれがアンタの手。つらい時に俺を抱いてくれた手。
好きになった瞬間に握っていた手。いつも俺の手を引いてくれていた手。
そう思って目を閉じて、深く息を吸って止めた。
目を開けて息を吐いた時、美紅の感触は思い出せなくなっていた。
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