第22話

共に過ごした夏を今でも憶えている。


晴れた空に響く飛行機の音や、浮かぶ城を包んでいそうな大きな雲

手でもみつぶした草のニオイ、汗で貼りついたシャツの感触、焼けた靴先の熱さ

耳に押しつけられたセミの鳴き声、日陰から見上げた揺れる葉のざわめき

ホースで撒かれた水の冷たさと、逃げた俺を追いかけたふたつの笑い声。


昼の月を見つめ過ぎてくしゃみをしたこと。

肩を寄せ合ってバスに揺られたこと。

ラジオで聴いた曲のサビがずっと頭の中で繰り返されていたこと。

薄い虹の橋を見てガッカリしたこと。

魚の群れを追いかけて川べりを走ったこと。

夕日に伸ばされた影の長さを比べ合ったこと。


終わらない一日を願っていたこと。


夜に押し負けていく光の帯を暗くなるまで並んで眺めていたことも。

花火が撃ちあがるたびに振り向きながら三人で歩いて帰ったことも。

照らされた二人の顔が俺のそばにあったことも。


きっと、死ぬまで忘れないと思う。




4人掛けの食卓台に風が向くよう、扇風機を移動させたあと

福神漬のタッパーを冷蔵庫から出して蓋を開けた。

ナプキンがわりのキッチンペーパーを置いて

最後に冷えた麦茶のボトルと、コップを3つ並べたら昼メシの準備が終わった。

ゴハンとカレーは自分でやるのが三人で食べる時のルールだ。



「これ、ママがみんなで食べるようにって」



椅子を引いた美紅はそう言って、持ってきたコンビニの袋から

アイスクリームのミニカップを3つ取り出してテーブルに置いた。

1個300円近い値段で売られている、お高くて有名なアレだ。


食後のために冷凍庫に入れようと俺が手を伸ばしたら

やはり、そこはいつもの美紅だった。


素早く1つを掴み取って、流れるような動作で蓋を開けると

リカ姉の「コラッ」を無視して満面の笑みを浮かべながら食べはじめた。


俺に向けるよりも、幾分あきらめ感の強いリカ姉の溜息を聴きながら

二つのカップを製氷皿の横に重ねた。

ラベルを確認したらグリーンティーとストロベリーだった。

美紅が食べているのがチョコレート。


本音を言うと、俺はこのアイスクリームの存在が不思議でしょうがない。

どう考えても高すぎるからだ。これ1個で牛丼が食えてしまう。


ウシが命懸けでタマネギとコラボした肉体労働者のエサに対して

この小洒落たカップに入った、まろやかな砂糖の塊は

たった1つで同価値を叩き出してしまう。疑問を抱くのは当然だろう。


実際に俺は、道端で犬が舐めまわしていた空き容器を拾い集めて

家に常備されていた大容量の安いアイスに詰め替えたのを

恩着せがましくバカどもにふるまって、1つにつき100円ずつ徴収してみたが

感謝はされてもバレはしなかった。いい小遣い稼ぎになった。

「やっぱ禿田はウメェな!」と笑った岸田の歯に、蟻んこが付いていた時には焦ったが。



「リカ姉、おいしい。甘口のカレーありがとね。」



食事がはじまって、最初にカレーを口に運んだ美紅の声。

リカ姉は頷くだけで応えて、タバスコの瓶を俺に渡した。

汗の浮きだした顔が少し強張ってるように見えて、機嫌が悪そうだ。



「あ、わりぃ」



俺はタバスコを振りかけるのをやめて、右隣にいる美紅に言った。

肘が当たってしまったからだ。

向かいの席のリカ姉がスプーンを一瞬だけ止めた気がした。


先ほど、アイスクリームを食いながら当たり前のように俺の隣に座った美紅は

頷いただけで、離れるそぶりを見せなかった。これだけ椅子が近いのに。


食卓台の下からリカ姉のスリッパが小刻みに床を叩く音がした。


何かこそばゆかった。空気が重い気がした。

それが、さっきリカ姉にオナニーを見られたせいなのか

最近の美紅の態度の変化に俺がまだ馴染めていないせいなのか、よくわからない。


ただ、これまで何度も繰り返してきた『親たちのいない日曜の昼メシ』が

今日に限ってどういうわけか、ぎこちないのだけは確かだった。



「やっぱ、30分カレーでジェロニモは無理だよね」



俺は誤魔化すように、喋らないリカ姉に話しかけてみた。

お題は『ジャガイモ不在の、肉とタマネギとエリンギだけのカレーについて』だ。

もちろん、ここからドリルのように話を広げるつもりでボケもいれた。



「嫌なら食うな」



冷たい声でバッサリ斬り捨てられた。しかも足を蹴られた。


俺は喉を鳴らしながらスネの痛みに耐えた。ついでに鼻もすすった。

そして、涙目でカレーをほおばって「ウンメェ!」と、ヒツジの断末魔を再現しつつ

夏休み前の美紅を思い返してみた。



結局、美紅は吉岡とよりを戻さなかった。

暗黙のうちに、お互いを空気のように無視し合うと決めたようだ。


美紅は周囲からの、好奇の視線と問いかけを受け流し

大きな輪を避けて、親しい女子とだけ会話をするようになった。

俺との件で険悪だった樋口との仲も、またまた和解して元に戻ったらしい。


俺への接し方も以前と明らかに違ってきた。

呼びつけて便利使いすることもなく、露骨に敬遠するわけでもない。

何も要求してこないし、バカにすることもない。


突然やってきて、どうでもいい短い会話をして去っていく。


「カツオ元気?」 「元気だよ」


「カツオ生きてる?」 「生きてるよ」


自習してる俺のそばに来て、二言三言声をかけたら

勝手に納得してどこかに行ってしまう。アメ玉を置いて。


「勉強がんばってるんだね」


「高校決めたんだ」


「カツオ、変わったね」


そんなことが多くなった。登下校は一緒だったり、別だったり。

会話は少なくて、あっても自分たちの話題を避けて友達の話ばかり。


一度も見せたことのない美紅の振る舞い。

わけのわからない感触。妙な距離感が俺をモヤモヤさせていた。



「カツオ、午後からも勉強なの?」



シャツを引っ張られて振り向くと

俺の前にある食後のアイスクリームを見つめる、物欲しそうな美紅の顔があった。



「美紅、コイツは勉強なんてしていない。チンポいじってるだけだ。」



アイスの蓋を開けたリカ姉が俺にティースプーンを向けた。

とんでもない暴論だった。

最後のスタッフロールを見ただけで名作を評価するようなものだ。


俺は美紅の前に手をつけてないアイスのカップを置きながら

いかにして1のミスを払拭して、99の事実を伝えるかを計算しだした。


そもそも俺は悪くない気がする。

本能だし、instinctだし、ほらちゃんと勉強してたし。

オナニー好きは遺伝のせいかもしれないし。


そういえば母方の爺ちゃんは沖縄出身だし。

だから、俺には琉球シコンチュの熱い血が流れているということになるな。


それはつまり、ちんすこうで俺のゴーヤーをソーキにイラブーしないと

股間に2つあるサーターアンダーギーがシークヮーサーになってしまう原因になる。

そうなると、なんくるないさでマングリ返されるかもしれないと

クラスメイトの喜屋武(架空)と知念(幻影)と具志堅(ポルターガイスト)も言ってた。

よし、これでいこう。



「いいって、カツオ食べなよ」



美紅がアイスを返してきた。

びっくりした俺は、編み上げていた思考が飛んでしまった。

奇跡を見た気がした。誰やコイツと思った。


首を巡らせたら、口を開けて呆然としているリカ姉が見えた。

俺と分け合うつもりだったのだろう

手元のアイスクリームは真ん中に線が引かれていた。



「私も勉強してるよ。三人で同じ高校に通いたいし。」



美紅の皮をかぶったナニかは、そう言って俺の腕にしがみついた。


半袖同士で絡み合うナマ腕の感触。

ベトつきを嫌がらない美紅の顔。いいのか俺の汗だぞ?


固まって動けなかった。左手に持ったアイスが柔らかくなってきた。

美紅の髪から漂う、いつもの甘ったるいニオイが濃すぎて頭の芯が浮いてきた。


その時、食卓台の下で何かが俺の足にあたって意識が引き戻された。

目の前には、そっぽ向いてるリカ姉がいた。

けっこう強く蹴られたような、鋭い痛みがあった。


故意か偶然かはわからなかった。




午後の静けさは、満たされた腹のせいもあって眠くなるほどだった。

俺はウチワを扇ぎながらリビングのソファーに座って

庭の縁台でくつろぐ二人を眺めていた。


どうやら二人は俺の悪口で盛り上がっているようだ。

バカ連呼の中に、チンポとサルが挟まって笑い声が続く。

やがて興が乗り過ぎたのか、俺のパソコンのデータを消したほうがいいだの

殺人に等しい共謀まで始めだした。おかげで完全に目が覚めた。


暑いにもほどがあるが、エアコンはつけていない。

リカ姉と美紅が冷房嫌いなので、一緒にいる時は俺も付き合うことになっているからだ。


汗の浮いてくる首や胸をタオルで拭きながら

氷を入れた麦茶で体温を沈めていく。都合のいいことに風も吹いてきたようだ。

時計の針は午前2時に近づいていた。



「リカ姉と美紅がいる」



少し前に原風景という言葉を知った。

幼いころの記憶や、心象に基づいた郷愁感を掻き立てる場面のことで

人よって違うらしい。


俺は今でも正確にその言葉を理解している自信はない。

でも自分にとって、この光景がそれではないかと強く思う。


リビングの開け放たれた窓の前に、狭い縁台と

飛び越えてしまえるほどの小さな庭があって

低い柵の向こうに隣の家の壁が見えるだけの、奥行きに乏しい一枚の絵。


夏の日差しはあっても空は見えず、まばらな雑草のほかは緑もない。


屋根の隙間を通り抜けて広がった光が部屋を満たして

窓脇の薄い影にグラスを反射した白い点の集まりが揺らめいている。


鳴りやまないセミの声と、風に吹かれて行き戻りするカーテンのはためき。風鈴の音。

家の前を通る車の音、遠く聞こえる誰かの呼び声、二人の笑い声。

首を振る扇風機の前で順番に髪を揺らしている幼馴染たちが

呼びかければ応えてくれる距離にいる。


似たような作りの家が並ぶこの区画で

同じ世代に生まれ育った三人が、それぞれの家のこの場所に集まって笑い合ってきた。

何度も見てきた。何年も見てきた。この先も何年かは続くのだろう。


あと、どれだけ俺たちはこのままでいられるのか

あと、何回この季節の中を一緒にいられるのか

終わりは来る。これが記憶の中だけの景色になる日が必ずくる。

そう思ったら胸が震えた。


心に留め置いたこの時間を大人になっても忘れないように

目を閉じれば、いつでも振り返ることができる場所にあるように

想いの先が変わっても、どちらも大切だったと思えるように

俺は手をかざして窓の上に見えていた時計を視界からはずした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る