第5話
明け方まで眠れなかった。顔の痛みでもなく、夜更かしで覚めた頭のせいでもない。
どこかからか聞こえてくる声のせいだ。
(なにをやっている?)
そればかり。胸の中でグルグル回る同じ問いかけの主が、美紅だったり、友人たちだったり、クラスメイトだったり
親や教師や空手の先生だったりした。みんなが俺を罵倒しているみたいだった。
説明した、言い訳した、嘘を混ぜた、嘘だけにしてみた、もうきかないでくれとキレた。
「いいから寝な、カツオ」
意識が飛んだ。リカ姉の声だった。二時間だけ眠れた。
豪華な朝飯を食った。珍しく早起きした俺の顔を見た母ちゃんが、冷蔵庫から肉を出して焼いてくれた。
消化にいいもん食わせてほしいと思ったが黙って食った。
「赤飯ない?」リカ姉の家の方を見ながら通じるはずもない冗談を言ってみた。
飲みたくないコーヒーを2杯飲む。
ションベンが近くなるが、このままじゃ通学中に倒れそうだったから仕方がない。
「おはよ、カツオ」
家の前でしばらく立っていると、いつの間にか目の前に美紅がいた。
別のほうを向いていたから突然声をかけられて驚いた。別の方…リカ姉の部屋を見ていたから。
「ああ、おはよう美紅」
目を合わせられず低い声で応えた。小学校から9年近くも続けてきた習慣なのに今日に限って口が重い。
いつもならもっと、美紅の顔を見た俺ならば条件反射で感じていたはずの気持ちが薄い。
胸の中に行動欲求が湧きあがるあの感覚。近づきたい、触れたい、話しかけたい、見ていたい。
今は無くもないが弱かった。
「レンくん、おはよう!」
お互い無言で歩いて5分もしないうちに吉岡が現れた。
俺へ向けた挨拶よりも明らかに高い声を出して駆け寄る美紅を呆けたように見た。レンくん…レンくん…。
吉岡の髪にほんの少しだけ寝ぐせがついているらしい。美紅が微笑みながら指摘する。
俺の腫れた顔にも、寝不足の目にも、何度も繰り返したアクビにも言葉は無かったのに。
登校中に吉岡を見たのは初めてだ。近くに住んでいたのか。ああ、もう隠す気もないってワケか。
二人がまぶしくて苦しかった。ずっと夢見ていたあるべき姿の半分が違ってる。そこにいるのは俺じゃなかったのかよ。
「でもな、俺だってもう童貞じゃないんだぜ」精一杯強がってみたら意外なほどマシになった。
美紅とも普通に接するようにリカ姉に言われたことを思い出す。
わかってる、クソが落ちていても地面は見ないよ。
目をこするのは眠いから、二人と距離を取るのは足がフラつくからだよ。俺のペースで歩くだけだよ。
見知った顔に挨拶しながら校門をくぐり、靴を脱ぎ、階段を上って教室に入る。
そのあいだ、吉岡と美紅のあとをトボトボと歩く俺を見た何人かが
憐れむようにじっと見てきたような気がしたが、リカ姉との出来事がまだ今日のうちに入ってることに思い至った俺には関係の無いことだった。
「そっかあ、まだ今日だったんだなぁ」興奮と眠気のせめぎ合い。
緩む表情と飛びそうな意識の波状攻撃。火照った頭は寝不足のせいじゃない気がする。
そして帰巣本能に従って席につく。
黙考にふけりたい今は、一人取り残されたような教室の賑やかさがありがたかった。
「生きてるか?カツオ!」
「ギャツォォ!!」
「カツオがいるぜっハーッ!」
「金返せカツオ!」
うるさい。
成田、うるさい。本多、うるさい。岸田、息がクサイ。藤木、俺は一銭も借りてない。
(うぜぇ)
実にウザい。こいつらは成田伸一、本多基樹、岸田紫龍、藤木英二という本名で、かろうじてこの社会に生きることを許可されている
神様がやる気のない時に適当に粘土こねて作ったようなブサイク顔で統一された4人の不遇キャラだ。
童貞揃いで、年がら年中オナニーばかりして、たんぱく質と石油資源を無駄に使い
カラスよりも知性が低く、屁を推進力にして歩く時が最も効率よく前に進めるほど運動神経が鈍く
インフラの整ったこの街で上水道の恩恵を受けない特殊地域に生息しているのかと思うほど体と息がクサイ。
そのくせ生命力だけは異常に強いこいつらを俺は『バカ四天王』と呼んでいるが、不本意ながら一応は友人枠に入れることにしている。
いい加減、四人で合体して俺のために死ぬまで金を稼ぐ単純労働マシーンにでもなればいいのに。
もっとも、それぞれの視点では俺を含めた四人がバカ四天王となっているらしく
他所から見た俺たちの通称はなんのヒネリもなく『バカ五人衆』だ。
「おはよう、チンカス諸君。まだ滅菌されていなかったんだな。」
こいつらはカスだが、小学校からの付き合いなので使い捨ての箸の先でつまむぐらいの愛着がある。
挨拶するぐらいのカロリーは消費するべきだろう。
「んっと…なぁ、カツオ、大丈夫か?」
数人の女子たちを侍らせて雑談中の吉岡と美紅を見ながら成田が言う。
ほかの三人も朝のテンションを一端落ち着かせて寿司職人のように神妙な顔をしていた。
「まあな。心配サンキューな。」
この童貞どもが。いっちょ前に女関係で俺に気を遣うなんぞ一世紀、いや一性器早いわ。
などと思えるほどには非童貞としての余裕が俺にはあった。
さっきまで胸の中にこびり付いていた、どす黒い気分がどこかに流されていく。
童貞どもを見下すのもたまには役に立つものだ。
本音を言えば、あまり心配かけるのも心苦しいので
この余裕を童貞ども…いや、親しき友人たちにだけはなんとか伝えたい。
リカ姉とのことを口にできないのがもどかしかった。
秘密しろとは言われていないが
俺にとって今までの人生の中で一番に来るほどの大切な記憶。
いまだに整理がついていないこの気持ちを、軽々しく口にしたくなかった。
「ならいいけどよ、気を付けろよ。樋口がウゼーかも。」
「なんで?」
「おまえのこと、『マケオ』って呼んで広めようとしてる」
四人の顔が同じ感情を共有していると俺に告げていた。怒りだ。
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