第26話

佐藤と別れて家に帰ると、母ちゃんがレンジで温めた昨夜の残り物を食卓台に並べているところだった。

時計を見れば、時刻はとっくに正午を過ぎている。どうりで腹が鳴ると思った。


ふとリビングに目を向けると、つけっぱなしのテレビからは

休み期間中にしか拝めない、お昼のワイドショーが流れていた。


昼メシ時に高画質画面で見るには、いささか厳しいのではないかと思わせる

ひどいニキビ面をさらす芸人あがりの司会者は

番組の特色を作るために設定されたとおぼしきオーバーアクションを披露しつつ、高らかに本日の特集を宣言する。


『大迷惑!謎のUMAニペ猿の謎に迫る!!』


どうやらニペ猿とは、道路脇の茂みや、縁石部分、中央分離帯などに

ションベン入りのペットボトルを置く習性を持った凶悪な未確認生物のことで

「尿」の入った「ペ」ットボトルを放置する「猿」のような生物を略して

『ニペ猿』と呼称するんだそうな。


司会者は語る。全国的な被害の拡大がとどまるところを知らない

尿入りペットボトルの路上放置事件。これはすべてUMAの仕業であると。


通常、人間であれば排泄行為は便所で行う。これは当然だ。

非常時を想定したとしても、ペットボトルに入れたションベンを

公共の場に投棄して平然と立ち去るなどという選択を

社会生活を営む人間が行うわけがない。間違いなく野生動物の仕業だ。


しかも、ボトルの蓋を開け閉めできる手段を持っていることから

猿に近い動物ではなかろうかと推定されるそうだ。

フリップに示された『ニペ猿想像図』には、深夜の牛丼屋でよく見かける脂ぎったオッサンに酷似したモンキーが

なぜかトラックの運転席でスマホ片手にハンドルを握った状態で描かれていた。

そして番組の進行は、全国各地から寄せられる被害状況の紹介場面へと移っていく。


なるほど、迷惑な動物がいるものだと思った。

道路に転がっている尿入りペットボトルは、俺も実際に見たことがある。

いったい誰がアレを片付けるのかと、いつも気になっていたところだ。

車が踏んづければ、中身が周囲にまき散らされる大惨事だって起こりうる。

誰にでも考え付くような被害だ。

たしかに人間があんなことをするわけがない。やるならサルだ。

理性の無いクソザルだ。本能だけで生きてるエテ公だ。

ニペ猿め。死ねばいいのに。



「母ちゃん、このトンカツ歯型ついてねえ?」



番組がCMに入ったのを機に、台所に向き直った俺は

ラップ越しに見えた行儀の悪い食い物の残骸に、文句を言って椅子に座ろうとした。


すると、息子の爪先から脳天までをゴミでも見るかのような視線で

舐め抜いた母ちゃんは「また喧嘩かバカ」と吐き捨てて、風呂場の方を指さした。


その言葉を聴いて周囲を見回し、自分に兄弟がいないことと

金欠であることと、夜に酒を飲んで寝ていく男の給料日が近いことを思い出した俺は

一端食欲を抑え、黙って一家の衛生水準の維持に協力することにした。



「さっき、美紅ちゃんがきてね。昼から勉強一緒にどうかって。」



タオルで頭をこねくり回しながら椅子に座った俺に

先に食い終わって皿を下げた母ちゃんが言った。

麦茶を片手に、視線をチラシの束から離さずに。


俺は、あまりの光景を前にして言葉を失ってしまった一人息子に

毛ほどの関心も示さない冷淡な中年女を睨みつけるのに忙しくて

話をよく聞いていなかった。


食卓台には、たんぱく源と呼べるモノがなにも残っていなかったからだ。



「オイッス、美紅」



というわけで、栄養不足により児童の健全な成長を阻害させた場合に問われる保護者の責任と

世論で支持されている普遍的な虐待についての解釈でもって

仏教的な粗食賛美の精神論を主張する浅学な名倉夫人を完膚なきまでに論破した俺は

漬物と、ふりかけと、ビンタによって口中に漏れ続ける血液をオカズにして

茶碗六杯の白米を掻き込むという、三千年の農耕史を誇る大和民族の真髄を

眼前の直情型DVオバハンに見せつけたのち

背中の痛みを避けて、寝釈迦状態で取った涅槃からの後光が差し込むような唯我独尊の午睡を経て

お向かいの花山家にお邪魔する運びと相なったわけである。時刻は午後の1時半。



「ちょっと待っててね、カツオ。今終わるから。」



美紅は庭で草むしりをしていた。

夏休み前から始めた家事手伝いの一環だそうで

はめている軍手は、かなり汚れが目立っている。


小さな手に握られたスコップが足元に突き立てられ

首に巻いたタオルの先が揺れた。

中腰の姿勢で、根っこを引っ張る時の苦しそうな表情。

あれだけ美紅が嫌ってた仕事。


以前は俺の役目だった。やらされていたことだった。


男の手なら、どれだけ生えまくって伸び放題の状態でも

力任せに引っこ抜いて1時間ちょいで終わらせる狭い庭の除草は

美紅の力じゃ、倍の時間をかけたって半分も終わらない。

体力のせいもあって、当然のごとく作業は日をまたいでいた。


「手伝おうか?」家の前から見かけるたびに

何度も言ったが、美紅は首を横に振って一人でやると言い張った。

他にも洗濯や、掃除や、ゴミの片づけ、料理も勉強しているそうで

今までの美紅からは想像できない変貌ぶりを、おばさんを通して母ちゃんから聞いていた。


最初は複雑な気分だった。美紅の性格じゃ続くわけがないって思った。

でも、もう夏休みも終わりに近いのに

ろくに遊びもしないで、まだ美紅は頑張ってる。

それを見守りながら、いつしか俺も考えを改めていた。

今では素直に嬉しく思っている。



「よし、今日のぶん終わりっ。部屋で待ってて、シャワー浴びてくるね。」



軍手の甲を額にこすりつけて振り返った美紅が

眉の上に汗を含んだ土色の線を引いて微笑んだ。



「また喧嘩したの?」



肩が透けるほど濡れたTシャツの襟をつまんで

胸元に空気を通す仕草のまま、俺の顔を覗き見る大きな目。


おさまらない息切れと、袖から見え隠れする

細い腕には似合わない日焼けの境目に、残酷な印象を覚えて

小学校の時、体育の持久走が嫌いだった理由を思い出した。

美紅がつらそうだったからだ。



「傷薬塗ってあげよっか。私の手のついで、ホラ。」



軍手をはずし、指の関節にいくつも貼られた絆創膏を見せて

まるで、いたずらを自慢するみたいに歯を合わせた美紅の唇が吊り上がった。


揃えられた細い足で、ポツンと庭の縁に立った華奢なカラダが

日差しを背負って、弱い風を受ける。


自然な笑顔と頬をすべり落ちる雫が、いつかの涙と重なる違和感。


焦りが湧きあがった。俺の中にこびりついていた

「コイツを守らなきゃ」「俺が代わってやらないと」っていう、そんな欲求。


(あの子をもう一度見てやって)


リカ姉の言葉が頭に浮かんだ。


美紅は汚れを嫌うヤツだった。苦労を避ける女だった。

当たり前のように俺に押し付けて、腹の中で笑ってる人間だった。

こんなに眩しくて、俺が美紅を好きだった頃よりも、幼くて、無邪気で

『懐かしい顔』を見せる子じゃなかった。



「変わったんだな、美紅」



「カツオもね」



口の中で潰したつもりの呟きが届いてしまった。


首筋が強張るぐらいの驚きと気まずさがあった。

なのに逸らせない空気と、逃げたくない意識もあった。


開き直って、あえて目を合わせてみる。


美紅の笑みが濃くなった。同じ顔に映るように俺も返した。



「やっと対等になれた気がする」



今度こそ押しとどめた、喉を揺らしただけの声。

湿った手のひらを握りしめて拳を作った。


ここで差し伸べれば、オマエは当然のように手を取ってくれるのかな。

遠いむかし、恋も、歳も、性別も、汚れも、穢れも、なにも気にしなかった、あの頃みたいに。


見慣れた庭の片隅から過去が染み出してきた。

還らない日の記憶。あの人のいない、俺と美紅だけの思い出。


強い罪悪感を感じた。掻き消したくて目を伏せた。

お互いの隣に形を作り始めた、ふたつの小さな幻を見ないように、きつく瞑った。

胸のうずき。抑えたくて、まぶたの上に指を重ねた。それだけは消えなかった。



「リカ姉、髪を伸ばすつもりなのかな」



ローテーブルの端に頬杖をついた美紅が、指先で鉛筆を転がしながら言った。

ノートと教科書のあった場所には

レモンソーダのグラスと、パウンドケーキの食べかすが散らばった皿。


手分けして進めた夏休みの課題を写し合って

今日中に終わりそうな目途が立ったところで入れた、何度目かの休憩。

時計は午後の5時を指していた。


俺は曖昧に返事をして話題を流そうとしたが

長く続いた集中の反動か、逃避先を見つけた美紅の関心はおさまらなかった。


伸びた髪の話から、隠さなくなった胸のこと、表情や物腰の柔らかさの理由。

本人から聞き出そうとしても笑うだけで、要領を得ないが

女の視点では、限りなく異性の関与が怪しいと語りだした。


いくつかの点について、心当たりがあり過ぎて

先ほど空にしたはずの膀胱に緊張が走った俺は

幼馴染として長年に渡り積み重ねてきたアレコレのおかげで

興味をそらすための話題には事欠かないことを最大限に利用し

足のしびれを理由に立ち上がると

壁にかけられたコルクボードの前に移動した。


そこには、生き生きとしたガキンチョが並んでる何枚もの写真がヒヨコの押しピンで留められていた。


美しい少女が二人、今にも飛び出してきそうなほど躍動感あふれる

落着きの無い様子を捕らえられた、どこかで見たような汚いオスザルが一匹。


笑ってたり、ふくれっツラだったり、手や指を押し付けて作った奇抜な顔をしていたり。


見覚えのある背景と相まって

一目でその時の様子が鮮明に思い起こせる印象深いものばかりだった。



「リカ姉のマネしてみた」



部屋に入って最初にコレを見つけた時の、照れくさそうな美紅の言葉は

写りの悪い自分のツラを見るのが嫌いな俺でも

気持ちを温かくさせる響きがあった。


俺は、ボード脇のカラーボックスの上にある

掲載候補から外された写真の束を手に取って、一枚ずつめくった。

「懐かしいな」と、本音とトボケを半分ずつまぜながら。



「カツオ、またリカ姉に変なこと言っちゃだめだよ」



いつの間にか隣で俺の手元を覗き込んでいた美紅にそう言われたのは

写真の束があと一枚を残して終わるところだった。


俺は手の中で遡られていく、キレイで、大切で、だけど少しの後悔を抱かせる過ちの記録を前にして

奥歯から喉の奥にすべり落ちていく苦いモノに耐えていた。


四角に切り取られた古い光のなかでは

三人の視線がそれぞれの心を残して、閉じ込められた瞬間に息づいていた。

美紅はまっすぐ前を見て、甘やかしてくれる大人たちに笑顔を振りまいている。

俺はどの場面でも美紅だけを見ている。

リカ姉は常に一人分の隙間を空けて、優しさと寂しさを滲ませた眼差しで俺と美紅を見ていた。

何枚も、何枚も、同じような写真が続いた。


そして、最後の写真で手が止まった。小3の時のものだ。美紅の9歳の誕生日。

どうしてか、忘れていた。この時だけは叩かれなかったのに。


あの時、俺は言った。怒った。本気だった。その時は心からそう思ったからだ。


美紅は一週間前に床屋で髪を切られ過ぎて

毎日機嫌が悪くて、おじさんや、おばさんや、俺に八つ当たりをしていた。


リカ姉は、珍しく伸ばしていた髪を整えたばかりで大人たちに褒められていた。

なんの気まぐれか、スカートまで履いていて

「カワイイ」の連呼を受けたリカ姉の顔はまんざらでもなさそうだった。


俺は、どうせ切るのが面倒でほったらかしにしていただけだと思っていたし

美紅の誕生日に脇役がチヤホヤされるのは間違ってるとも感じていて

ストレスが高まっていた。


花山家のリビングに三家の全員が集まった誕生パーティーの後半

ケーキを食べ終わった二人の女の子が

色違いで4つ入った猫のヘアピンを2つずつ分け合い

同じ髪型が揃った時、腹の中で溜めこんでいたモンが爆発した。


それは、短くなった髪を気にしていた美紅が喜ぶようにと

俺が用意したプレゼントだった。


似合わない、おかしい、気持ち悪い。変だ。可愛くない。


感情のままに泣きわめいたせいで

自分がリカ姉に何を言ったのか、ハッキリとは思い出せない。

ただ、一言だけは憶えてる。



「女らしくするな」



そのあと、誰に叱られても俺は謝らなかった。

次の日にリカ姉は髪を切った。

怒った様子が欠片もなくて、いつも通りの態度だったから

正しいことを言ったんだと俺は信じこんだ。



「美紅、俺は佐藤を殴れなかった」



自分が何を吐いたのか、一呼吸遅れて理解したが

まったく止める気になれなかった。

顎が震えて、鼻の奥が痛いぐらいに萎んで、息が苦しくて

一つの言葉を押し出すのに、たくさんの気力が必要だった。

けれど、しゃべり続けた。


サトケンに痛めつけられて、リカ姉の名前で話をつけたこと。

佐藤と仲良くなったこと。今日の午前中も一緒にいたこと。

すべてリカ姉のためにやったこと。


美紅を憎んでいたこと。



「カツオが女の子に手を上げてなくてよかった」



美紅が言った。混じりけの無い思いやりを感じる声だった。



「気にしないで。それでも嬉しかった。」


「ありがとね。私、ずっと酷かったよね。」


「カツオに酷いことしてきたよね。ワガママだったよね。」


「ごめんね、カツオ」



肩口に小さな両手が置かれた。預けられた軽い体を受け入れた。

胸の真ん中に当てられた吐息の熱が、すぐに濡れた感触に変わった。


それから途切れ途切れの会話を続けた。

この数ヶ月の自分のこと。お互いへと向けていた感情。

脈絡もなく、繋がらない説明ばかりを重ねた。

思いついたことを言い合うだけのやりとりだった。


俺はリカ姉とのセックスを明かさなかった。

美紅は吉岡とのことに触れなかった。


俺たちは嘘を隠した子供のまま、子供のように泣き続けて

本当の幼馴染に戻った。

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幼馴染にフラれたら、もう一人の幼馴染が〇〇してくれた。 @chakoronia

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