第25話

8月22日の午前10時。俺は、最近の日課になっているジョギングの道すがら

おそらくは築40年ほど経過しているであろう、とある薄汚れたマンションに立ち寄った。


同心円と直線だけを用いてシンプルに女性の性器を表現した落書きや

根元まで吸われたタバコの吸殻や、変色したガムの名残りがアチコチにへばりついている

住人の質がうかがい知れそうなエントランスの日陰で一息ついて

あたりに人がいないことを確認し

いつものように、ダイアルロック付きの集合ポストの下から2列目、左から4番めに

封筒を入れて、足早にその場を去った。表札には「本多」と書かれていた。


中身はネットで拾ったオッサンのチンポ画像を印刷したモノと

ノートの切れ端に書いた「モトキクン、ダイスキデス」の手紙だ。

筆跡でバレないように、カタカナだけを定規で書いている。


未開封での廃棄をふせぐために

封筒の表面には「イママデ ゴメンナサイ」も入れておいた。


これは復讐だ。俺は夏休み中、本多から10円ポーカーで800円以上も巻き上げられていた。

ルールを知ってるフリしてカッコつけた俺も悪いが

あいつのは絶対イカサマだし、そもそも後で調べたら

「ワンファック」や「トリプルファック」や「ハーフ・アンド・ハーフ」とか

「インペリアル・シャイニング・ダッシュ」なんていう役は存在しなかった。


終わったあとで問い詰めたところで、言った言わないの水掛けのあとで

殴り合いになるだけで、不毛な事この上ない。

それにポーカーの役を知らなかったのもバレてしまう。


あれは表向き、クソ貧乏で、腹が減ると草とか石とか土とか食ってて

栄養とビタミンの不足で金庫の鍵とチンコのカスすら見分けがつかない

哀れなクサレ本多に慈善事業を趣味とする英国紳士の俺が

騙されたフリして恵んでやったことにしないと。


そして、俺様は亜人蛮族童貞科のアイツらとは生物としての格が違うので

報復一つとっても、行動にそれなりの品位というものが求められるのだ。


そんなわけで、今日もまたエスプリの効いたネチッこいのを

一発おみまいしてやったというわけだ。

今思いついたが、チン毛も入れておけばよかった。明日からやろうと思った。



帰り道、次に何食わぬ顔して本多と会った時の様子を想像して

ニヤニヤしながらコンビニの前を通ったら

大型トラックも利用できるように、だだっぴろく作られた駐車場の端っこに

薄緑のTシャツとホットパンツを履いた佐藤麻里江っぽいのがいた。


白い日傘のせいでツレの顔が見えないが、紺色の野球帽をかぶった細い男と話をしている。



「チューッ、佐藤」



もし、人違いだったら走って逃げよう。

どっちにせよ、佐藤には夏休みが終わる前に

一度は家まで挨拶に行こうと思っていたところだ。

手土産を買う金が無いのと、ゴリラに会いたくないので、後回しにして忘れていた。



「バカツオじゃん」



佐藤で間違い無かった。振り向いた時に、フワッと長い茶髪が舞い上がって

ドギツイ香水のニオイが風にのってきて、銀色の輪っかピアスがキラっと光った。


前に会った時よりも日焼けが濃くなった肌。

警戒心の無い素直な笑顔。跳ね上がるような声。

気のせいか、蛇にしか見えなかったツラも、今はちゃんと女として映る。へんな感じ。


そんで、ツレの顔が見えた。吉岡だった。



「そっか、三崎先輩にフラれたか」



「一回な。でも、俺はあきらめねえ。ぜってぇ同じ高校行くし、何年だって食らいつく。」



両手の指をガッチリ組んで、人類への悪意しか感じない絶好調の太陽に向けて突き出した俺が言うと

佐藤が面白そうに頭を揺らせて豪快に笑いながら、肩を叩いてきた。

ドドメ色に毒づいた爪がひっかくように当たって、微妙に痛い。


顔をしかめて佐藤に振り向くと、アイスコーヒーと書かれたのぼり旗がはためく前で

こっちを見ている吉岡と目があった。

無表情と不愛想を足して割らない顔。いい印象を抱けない態度。

俺の先入観のせいかもしれない。ちゃんと話せば、一つぐらい見どころがあるのかも。

10メートルは離れているから、話は聞こえないはずだが、もし聞かれてたらいい気はしない。


少しだけ迷って、俺は無視することにした。

さっきも、挨拶すらせずにヤツは黙って離れていったしな。お互い様だけど。



「アイツな、復縁しろってウザい。どうせヤリたいだけだし。」



佐藤が吉岡にアゴを向けて、タンでも吐くように言った。

日傘の下で影になっているのに、まぶしそうな顔で。


吉岡。美紅に選ばれたヤツ。美紅を傷つけて捨てたヤツ。正直、俺のトラウマ。

本当はどんな中身の男なんだろう。

佐藤の見立て通りなら、自分と逆だなって思った。

俺はあの人を、好きな人を喜ばせる唯一人になりたい。幸せにしたい。

一番最初にそれがくる。そりゃ、ヤリたいけどさ。


自覚しているのは、負い目。恋や、愛や、親しみ。感謝。

セックスの記憶。もちろん性欲だってある。

それらは繋がってたり、別のモンだったり、キレイに見えたり、汚かったり。

その時の心の在り方次第で、ころころ変わったりするのかもしれない。

伝わるのかも、そうじゃないのかも、難しすぎてよくわからない。

色んなこと考えて、やめて、やめられなくて、フラれて。

最後はただ、そばにいることを選んだ。待つこと。今はそのつもりだ。今は。



「元気出せって、一発ヤラしてやろうか?」



考え込んで俯いていたらしい。佐藤に耳を引っ張られて、囁かれた。

やさしくて、色っぽい声。吹くな、くすぐったい。やめてくれ、落ち着かなくなる。


斜めに傾いた目線をチラッと吉岡に向けると、憮然とした顔を浮かべて

大股でこっちに歩いてくるところだった。

おっ、まさかアイツ、佐藤に本気とか?

初めて見る、吉岡のアツい反応。俺の視線にも期待が入る。



「エリちゃん、みっけぇ」



突然、ちゃらけた声がした。

巻き舌で遊んでるみたいな、人をバカにしたような言い方。

吉岡も足を止めた。声がした方を見ると、ゆっくり近づいてきた

黒いミニバンの後部座席から、鼻のデカい茶髪男が体を出して

両手の人差し指を佐藤に向けていた。



「ゲッ、ジュンヤ!」



佐藤が不意打ちでケツに何か突っ込まれたような顔でツバを飛ばした。

友好的ではない知り合い。緊張と興味と嫌な予感がした。


車が止まる。俺たちの真ん前、およそ4メートル先。

後部座席から鼻デカのジュンヤと、ソフトモヒカンの糸目がおりてきた。

サッと見まわした感想。弱そう。まったく恐ろしくない。

運転席の金髪坊主と合わせて全員の腕が細い。ヒョロい。

だが、一つだけ気になることがあった。



「ガチコン持ってやがる」



俺はソフモヒのジーパンにぶら下がってるブツを見て舌打ちした。

ガチコンとは、投げ釣り用のオモリにチェーンやワイヤーをつけた武器で

いわゆる鎖分銅みたいなもんの通称だ。

このへんのアホどもが悪さする時に、たまーに使ってたりするが

ガキのおもちゃ的な扱いをされてるからメジャーではない。


色を塗れば、知らないヤツにはキーホルダーと見分けがつかないから

ソフモヒみたいに、いい歳こいて護身用に持ってる迷惑なヤツもいる。


ちなみに、当たるとメチャクチャ痛い。

成田がふざけて俺の足に当てた時は、本気の喧嘩に発展したぐらい痛い。



「大勢は嫌だって言っただろ!」



佐藤が吠える。鼻デカは笑う。

ソフモヒと、運転席の金髪坊主が楽しそうに手を叩く。

俺は気分が悪くなる。



「まぁまぁ。とにかく車乗ろうよエリちゃん。暑いし。」



鼻デカが佐藤の腕を掴もうとしたのを見て

反射的に俺は割って入った。特になにも考えてなかった。

イライラしただけだ。



「なんだオマエ?」



「俺はイタリアから来た、クンニ・フェラチーオだ」



鼻デカの睨みを正面から受け止めて

俺は名乗った。さらに「女には優しくしろ、ポンニチ野郎」と付け加えた。



「どう見ても日本人だろ、中坊」



「いや、俺はイタリアンだ。証拠に故郷で作られたパルメザンチーズのニオイを嗅がせてやる。」



俺は、眉間にシワを寄せてすごんでくる鼻デカに指先を近づけた。

直前にズボンを直すフリして、割れ目に指を入れておいたから仕込みは万全だ。



「クッサ」



挨拶は終わった。嫌そうな顔で首を振った鼻デカは、俺を無視して

佐藤を連れて行こうとする。さざ波が消え失せたようなスベリ具合。

軽くショックだった。


慌てた俺は落ち着くように、全員に向けて手をパタパタさせて言った。



「いいのか?ソイツ、サトケンの妹だぞ」



「は?嘘つくなクソガキ。この子は山田だぞ。山田エリ。な?」



鼻デカが俺をコケにした顔のまま、佐藤に向き直る。

掴んだ腕を捻りながら。

中坊ならどうにでもできると、カンペキにナメてやがる態度だ。

佐藤は痛みに顔をゆがませて「ウソ、ギメー」と、口の動きだけで、俺に伝える。

アホか。遊びで使った偽名が仇になるとか、しょうがないビッチさんだ。



「なんでもいいから、とりあえず手ぇ離せ…フンギッ!!」



もっぺん割って入ろうとした俺の背中に、衝撃と激痛が突き刺さった。

無意識の悲鳴。

体が固まった。歯を食いしばった。心臓が握り潰された。息が止まった。

後ろの筋肉がぜんぶ縮んで、胸が突っ張って、顔に血がのぼって目ん玉が飛び出しそうになった。



「どうだ?痛ぇだろ、パッコン直撃ぃ」



ソフモヒの声。はい、はい、そうです、ありがとうございます。

ホンマ痛すぎまっさ。はい、そのとおりですわ。のけぞった体が戻りまへんわ。


涙が出て、膝をついたら空が見えた。歯の隙間からツバと一緒に

サ行の言葉が勝手に漏れていく。痛い、痛い、超痛い。

そんでも、たぶん、今がピークだ。耐えろ耐えろ。飛んでけ、はよはよ。

つーか、ガチコンのことをパッコンって言ったなコイツ。

南中の出身か。にしても、クッソ痛ぇ。ああああ。



「カツオ、大丈夫か?」



心配する佐藤の声がどっかから響いてくる。

待って、ちょっと待って。あと10秒でいいから。んんん。

イイイッ…よし、おさまってきた。よし、よし、もうすぐ。よし、イケル。



「クソがオマエら、背中がいてえだろ!」



動けるまで回復した俺は、即座にブチキレた。

佐藤を車に押し込もうとしてるソフモヒを横から思いっきりブン殴った。

鼻デカの脇腹に鉄槌を入れて、引きはがしたあと横蹴りでふっ飛ばした。



「背中がいてえんだよ!」



俺は叫んで、自分から開いてる車の後部ドアに体をねじ込んだ。


運転席の金髪坊主をシート越しに蹴りまくって

助手席との間に上半身を突っ込んで左手で殴りまくった。

金髪坊主は罵声を上げながら殴り返してきたが、前向きに座って腰を捻ってるヤツより

後ろから腕を突っ込んでる俺の方が強い。4、5回の応酬で打ち負けてるのを悟ったアホは車外に逃げた。

左右のドアからソフモヒと鼻デカの蹴りが入ってきたが

膝で受けたり、よけたりして、逆に靴を掴んでスネにヒジ入れてやった。


ボケどもが、なんのヒネリもない脅し文句と一緒に乗り込んでこようとするたびに

シートにしがみついて、空いてる手を振り回し、頭突きカマして

外に蹴り戻して叫んだ「背中がいてえんだよ!」。


ティッシュの箱とか、ドリンクホルダーとか、コーヒーの缶とか

両面テープで貼りつけてあった芳香剤のボトルとか

手に掴めるモンは全部外に投げてやって、ついでに叫んだ「背中がいてえんだよ!」。


俺は車の中に立て籠もって暴れ続けた。



「もういいわ、ゴメン。俺ら降参するから出てくれない?」



ふいに、顔面を腫らした金髪坊主の声がした。

汗まみれでヒューヒュー言いながら、拝み手を俺に向けて謝ってる。


いったい、どれだけ続けていたのか自分でもわからない。

気が付くと、肩で息をしているビショ濡れでペットペトの三人が

車を遠巻きにして囲んでるだけで、何もせずにヘタりまくっていた。


鼻デカは口から血を流して座り込んでいたし

ソフモヒは鼻血をシャツで拭いていた。

三人とも酸欠の顔色をしている。コイツら体力なさすぎだろ。



「背中がいてえんだよ!」



座席から取り外したヘッドレストを振りかぶって俺は答えた。

「だから、ゴメンって」。

金髪坊主が拝み手をさらに掲げながら、腰を折った。



「カツオ、まだ痛い?」



シャツを脱いだ俺の背中に、氷を押し当てた佐藤がきいてきた。

車が去ったあと、投げたティッシュ箱を拾って顔を拭いてる間に

急いでコンビニで買ってきたらしい。

泣きの入った、弱弱しい声だった。短い付き合いで初めて聞いた。

本当に泣いてるのかもしれない。振り返るのはやめておいた。



「アタシは、よかったのにさ。我慢できたのにさ。」



肩越しに、震える声が聞こえてきた。

ビニール袋が足元にすべりおりてきた。

後ろから突き出された水のペットボトル。

氷を落としそうになったのか、背中の冷たい感触が上下に移動した。



「でも、オマエ嫌だったんだろ?」



受け取って、一気に半分飲んだ俺は言った。

残りを手ですくって、顔を洗う。あちこち染みる。結構殴られたのかな。



「うん」



「うん」じゃねーよ蛇女。ヤリマンのくせに、なにカワイイ声出してんだコイツと思った。

ドキドキした。顔が火照った。なんで俺の方が照れてんだよ。

理不尽な気持ち。こんがらがってきた。はよ帰ろ。



「三崎先輩のカッコよさって」



離れるキッカケを探して、少しのあいだ黙ってセミの声を聴いていたら

唐突に佐藤が呟いて、冷たさが遠のいた。


なにかを拾い上げる気配。日傘が開かれる音。

地面に丸い影ができて、頭に当たっていた熱が消えた。



「孤独だとおもう」



また氷が触れた。肩がすくんだ。

水滴が背筋を伝うこそばゆさを堪えて、黙って佐藤の言葉を待った。



「強さ。アタシはマネできなかった。しきれなかった。」



だから今でも憧れている。あの人を意識して気を張っている。

それでも怖い時もある。アタシには兄貴がいるからマシ。

なんとかしてくれる人がいるから。しくじっても許されるから。



「だけどさ、カツオ。三崎先輩はさぁ。」



小さく吐かれて消えていく涙声。「わかってる」と返して頷いた。

背中に押し当てられる力が強くなった。

線になって流れてパンツに入り込んでいく水が気持ち悪かった。

むずがって、体をくねらせた。咳払いみたいな笑いが聞こえた。


日傘の持ち手で頭を小突かれた。急げよ、誰かに取られるぞ。

そう言ってる気がした。



「ところで、吉岡は?」



居心地悪くて、ふざけたいのに、なにも思いつかなくて

佐藤の顔が気になってるのに、慰めるために振り向く度胸もないから

やるせない感情を誤魔化すように俺はきいた。話を逸らしただけ。



「アイツなら逃げた」



低くて冷めた声だった。敵意。軽蔑。拒絶。

ボーダーラインでハネたオスを見下す態度。

あっさりと過去を切り捨てる鼻息。


いつもの佐藤に戻った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る