第24話

リカ姉が明かりを消した。

顔をそむけたまま、俺を見ないまま、何も言わずに背中を向けて。


白く照らされた髪が輪郭に変わる前、掴んだ紐を下げる直前、その手が一瞬だけ迷いを見せて止まった気がした。


常夜灯すら消された、真っ暗な部屋の中

外にある街灯の光を受けた窓が、闇から薄く浮かび上がって

目の前で振り返った影を空間から切り出している。


絨毯をこすって近づく足音。握られた包みの乾いた音。

虫の歌と、弱く回る扇風機の風と

言葉になれずに喉を鳴らし続ける二つのか細い呼吸があった。



「また2歳離れた」



何度もしくじって、何も紡げなくて

唇を閉じてしまった俺の頬に、指を這わせたリカ姉が小さく言った。

どこか遠い場所から響いてきたような声だった。



「ひと月だけだよ」



くすぐられた感触に思い出すものを感じながら

耳の下を撫でる指に左手を重ねた俺は

口の奥に貼りついた舌をようやく剥がして応えた。


「すぐに戻るよ」そう胸の中で呟いて、そっと目を閉じる。

アンタが見せたくないなら、俺は見ない。



「カツオ、あの子をもう一度見てやって」



指先が首を伝って、後ろまで回された。

右脇を通された腕がせり上がった。背中で重なり合う手の感触。

きつく押し付けられた柔らかい胸。湿った体温と愛しいニオイ。



「それは命令?」



リカ姉の髪と頬が俺の顔に触れた。

交わった肌のざらつき。かすかに濡れている気がした。汗だと思った。

抱きしめ返したくて、込められていく腕のたかぶりを抑えて思った。

アンタが認めないなら、それは汗でいい。



「アタシのお願い」



髪が耳元を払って戻ったあとに聞こえた呟き。

首に押し付けられた唇から、体を震い立てるように浸み込んだ。



「わかった」



ゆっくりと体から離れていく熱に向けて答えた。

落ち着いた声で言えると思った。そして、言えた。


あれから、たくさんの事が変わった。

これからも変わっていくんだろう。でも、俺の好きなアンタは変わらなかった。

抱きしめられた強さも、囁かれた声も、手の優しさも

なにも変わらなかった。アンタはアンタだった。

なら俺も変わらない。あきらめない。ずっと好きでいるから。



「おやすみ、カツオ」



ドアが閉まる音のあとに、間延びした声で100秒数えた俺は

目を開けてベッドに飛び込んだ。枕を抱きしめて叫んだ。


最後まで吐き終わったら、息を吸いこんで何度も叫んだ。

叫び疲れたら、布団を丸めて殴った。殴って、殴って、殴りまくった。

殴り疲れたら、また枕に顔をつけて叫んだ。


仰向けで足をバタつかせて、頭を振りまくって、疲れたら、もっぺん枕に叫んだ。

叫んだあとは、またベッドに拳を食らわせ続けた。


誰かが階段を上がってくる音にも気づかなかった。


突然ドアが開いて、明かりがついた。

唸り声を上げて近づいてきたヤツが脇腹に蹴りをめり込ませてきた。

俺はふっ飛んで壁に頭を打ち付けた。



「うるせえ、このバカ!」



怒号が部屋に響いた。外まで届くこと確実な、オッサン丸出しの声だった。

「おめえの方がよっぽどうるせえ」と思いながら、飛び跳ねて起き上がった俺は

とびっきりの笑顔でソイツに言ってやった。



「俺またフラれた!でも今度はあきらめねえ!」



「そっか」



父ちゃんも笑った。



そのあと、家を追い出されたので

虫よけスプレーを持って、サンダルこすらせながら近所をぶらつくことにした。

時間は夜の10時半。



「ドタマ冷やしてこい」



そう言われて、俺の父親を自称する酒臭いオッサンから千円を渡された。


玄関を出たら、美紅の部屋の電気がついているのが見えて

ペカッと舌をならしてみたら網戸が開いた。



「バーカ」



俺を見て微笑んだ美紅が言った。

そんで、一度引っ込んで、戻ってきて、チョコパイを投げてきた。



「おやすみ、カツオ。またね。」



落とさずに片手でキャッチできた。音の無い拍手をされた。

カッコつけて拳を向けるポーズを取った。


最近、いつも顔を見ると甘いモンくれる美紅。変なヤツ。

「おやすみ」と返して手を振ったら、もう一度「またね」って振り返してきた。

やっぱり嫌いになれない。それはわかってるから、もう考えない。


リカ姉の部屋は電気が消えていて、風呂の明かりもついてなかった。

しばらく待ってみたけど、何も動きがなくて

俺は何度も振り返りながら、近所の公園に向かって歩いた。


自販機で緑茶を買って、ポケットの小銭をジャラつかせつつ公園に入ったら

水飲み場の横にあるベンチに、ギターを持ったゴッさんがいた。


相変わらずの世捨て人っぷりだ。

冷蔵庫の奥から出てきた腐ったバナナに眼鏡をつけたようなツラして

拷問されて死んでも絶対化けて出ない決意に満ちた「どうにでもしてくれ」感がすごい。


デコはテカって、肩まで伸びた髪はアブラっぽくて、街灯の下でも顔色はドス黒く見える。

こっちに向けてる組んだ足の草履にウンコついてるし

体中にコバエがたかってる。蚊もやりたい放題だ。



「オッス、ゴッさん」



俺は虫よけスプレーを噴射しながら、ゴッさんに近づいた。

リカ姉んちの裏手のボロアパートに住むゴッさんは25にもなって

いまだに歌手を目指していて、ババ専で、人妻ばかり好きになって

当然フラれて、酒ばっか飲んでて

近所のガキからエアガンの移動標的扱いされていて

収入が不安定で、時々死にかけてリカ姉からおにぎりを貰ってるくせに

一枚も貼り絵を作らない、野に咲く花にもなれないカスだ。



「ぷわっ、顔はやめろ」



ゴッさんは壁から叩き落とされたカメムシみたいに手をバタバタさせた。

体中にまんべんなく吹きかけてやったら

立ち上がって「チンキュー」とかほざいて

右手で股間を押さえ、腰をクイッとマイケルジャクソった。



「なんか元気ねーな、カツオ」



ベンチの背もたれを叩いたゴッさんの声。俺は頷いて、隣に座った。



「女か?」



俺はまた頷いた。「仲間だな」とゴッさん。ギターを鳴らした。



「俺のは芸のこやしだけどさ」



そう言うとゴッさんは溜息をついて、その勢いのまま咳き込んで

水っぽい屁をこいて、咳が収まったら顔を覆ってすすり泣きだした。


俺は美紅にもらったチョコパイを一口かじってゴッさんに渡した。

緑茶は半分飲んで、残りをやった。



「ありがとよ」



横にいるルンペンもどきの黄色い垢がこびり付いた濁った目から

小汚い涙がちょちょぎれるのを見た俺は

昔、ゴッさんの命を助けたことを思い出した。


あれは、小5の夏休みのことだ。

今となっては詳しい経緯がサッパリ思い出せないが

バカ四天王と俺の5人は

ゴッさんのアパートに乗りこんで、激情のままにコイツをボコボコにした。

何かの拍子に金を騙し取られて報復したような

それっぽいノリだった気がするが、よくわからない。

とりあえず正義は俺たちにあった。それだけは憶えている。


20分近くにわたる怒涛の集団リンチに見事耐えきった

ゴッさんの男気溢れるド根性は

自由研究の題材候補として、痙攣を繰り返す瀕死のドブネズミ男を観察していた

その場の全員が認めるところだったが

そんなことで俺たちの激憤は収まらなかった。ゴッさんはまだ生きていたからだ。


缶ビールしか入ってなかった冷蔵庫に悪態をついて、水道水で休憩を取ったあと

部屋に敷かれていた正体不明の黒シミが付着したイグサマットで

ゴッさんをグルグルのスマキにした俺たちは

父ちゃんの名前やら、担任教師の事をだして、一般的な道徳についてのわけのわからない講義を始めた

この醜悪な生き物の処遇について意見を交換しあった。


夏休み前に、借りたエロ漫画を学校のコピー機で複製しようとして

まんまと捕まってしまい、親にこれ以上の品行方正ぶりを知られたく無い

照れ屋の俺と成田は「川まで捨てに行こう」と主張した。


うまいこと逃げおおせて、お咎めナシだった本多と藤木とは「めんどくさい」と反論した。


どうでもいいストーリー解説ページにこだわって、捕まる原因を作った挙句に

真っ先に逃亡した岸田は、ゴッさんのアナルめがけて割り箸を突き入れて

くぐもった悲鳴を上げる反応を楽しんでいた。


俺は本来、殺生を好まない。


ゴキブリでさえ叩き殺せずに、赤いニワトリのついたスプレーで

日本の夏を象徴するようなノスタルジックな香りをつけてやり

奴等がのたうち回って喜んでる様子を、返礼のダンスが終わるまで見守ってやるほど

命の尊さを知っている男だ。


だが、ゴッさんはやりすぎた。

純真無垢な小学五年生の輝かしい将来を踏みにじるような脅しを口にした。

罪を重ね過ぎたのだ。


栄光に満ちた未来を志す少年たちの勇気こそが

理想のもとに真の団結を促すことを知っていた俺と成田は、岸田のケツを蹴った。


その後は順調だった。

自らの臀部に神経が通っていることと、友情の大切さを思い出した岸田と3人で

『ゴッさん巻き』をアパートから引きずり出していたら

自分たちが少数派に転落したことに気づいた本多と藤木が恭順の意を示したからだ。


ゴッさんは重かった。5人もいたとはいえ、所詮は小学生だ。

真夏の炎天下に、時折意識を戻して暴れる大人一人を抱えて運ぶのは、かなりの重労働だった。

復活するたびに、丸太でバリケードを扉ごと突き崩す要領でゴッさんの頭を電柱にぶつける必要もあった。

俺は帰りにアイスを奢ることを、あくまで可能性のレベルで示唆しながら

グダグダ言い始めた4人を鼓舞し続けた。


ところが、ここで事件が起きた。

俺たちは、燃え尽きる直前の命のきらめき、その強かさを侮っていたのかもしれない。


最初は小さなうめき声だった。やがて「うーん」とでも表現しようか

朝の目覚めを思わせる、新しい一日の始まりの中で何かが生まれてきそうな溌剌とした声がしたあとで

唇を硬く閉ざして無理やり空気を吹き出したような音が

ゴッさんの体の中心から響いた。


すさまじい悪臭だった。実はゴッさんは昆虫の一種で

仲間を呼ぶための危険信号を出したかと錯覚するほどだった。

いますぐにでも、道先の辻々からゴッさん救出部隊として結成された

ハエ人間の群れでも集まってきそうな強烈なニオイのキツさだった。


『ゴッさん巻き』の運搬を、ちょうど真ん中あたりで支えていた俺は

爆心地に最も近い場所を掴んでいた己の不運を呪った。



「「「「「クッサ!」」」」」



5人同時の発声が、いかにゴッさんのひねり出した

生命エネルギーの持つ瞬発力が強力であったかという証左であろう。


俺たちは「いっせーの、せっ!」でブツを捨てた。


ウンコを漏らした大人にこれ以上用はないし、ちょうど家庭ゴミ集積所の前だったし

手についた液体の正体を知る前に公園の水道にたどり着きたかったし

はよ帰って風呂に入りたかったからだ。



「心にこそ四季がある」



飲み干したペットボトルの蓋をしめて俺に渡したゴッさんが言った。


俺は受け取って「今の俺は冬だ」と続けたゴッさんの頭をペコンと叩いたあとで

ギターの上に置いた。



「屁ぇこいてやるよ、カツオ」



「さっきこいただろ」と俺は思ったが、すぐに違うなと思い直した。

これはゴッさんが歌いだす時の合図だ。


何故かリカ姉は、おにぎりを渡した時によくせがんでいたけど

俺は失恋ソングばかりのゴッさんレパートリーが好きじゃない。


辛気臭くて、殴りたくなってくるからだ。

怒りで元気が湧いてくる。そういう狙いがあるのかもしれない。

ゴッさんの自己犠牲的精神に報いるためにも、拳を温めておく必要があると思った。


ゴッさんは、本当に屁を一発こいたあと、涙を肩口で拭って

ペットボトルを落としながら立ち上がり

指でギターを3回叩いて、スローテンポで短い前奏と共に歌いだした。



あなたを見た日に誓い立て

そばに寄り添う自分の姿を

心に描いて生きてきました


雪の底で見送る朝

月並む言葉に凍えすくむ昼

眼差し交わせぬ私のままで

枯らした花の想いに詫びた夜

それでも褪せない愛しさがありました


あなたが隣に向けた笑み

私がその場にあるかのように

まぼろし重ねて夢を見ました


すれ違えた数の分だけ

幾度も直した恋文も朽ちて

名前も伝えぬ私のままで

想いが消えることを願う日々

それでも褪せない愛しさがありました


今はその日を待っています

薄闇の祈りを漂い抜けて 巡らせた迷いと灰銀を越えて

結ばれた記憶が色づくその先で

いつか春の日を いつか春の日を

あなたと迎える陽だまりの日を



「いつか春の日を!」



ゴッさんは途中から演奏をしていなかった。

ギターを投げ捨て、ひたすら同じ言葉を繰り返し叫んでいた。いつか春の日を。


やっぱり辛気臭い歌だった。おまけに意味もよくわからない。

だけど、なんでか、いつもみたいに冷やかしへのスイッチが入らなかった。



「俺は変わらねえ」



ベンチに座ったまま、両手の指を髪に通して

バネ馬に叫び続けるゴッさんの背中に向けて言った。


悔しかったからだ。なにか嫌だったからだ。くだらねえと思った。

なのに、嬉しくて楽しくてムチャクチャだったからだ。

汗と共感が体から染み出て表面を流れていく感覚。

走り出したい高揚感。ボヤけてきた目のかゆさ。

そばに立ちたい気持ち。肩を掴みたい衝動。

一緒になって叫びたい欲求。こんなヤツに。



「でも、変わってくもんだってある」



クソ暑い。風はぬるくて、体はベタベタで、どこかから腐ったようなニオイがしてきて吐き気がする。

喉が渇いたのにペットボトルは空で、赤ん坊のケツを洗ってるのを見たことがあるから水飲み場は使いたくない。


クソ暑い。星はまばらで、嫌味ったらしいデカい光が、弱い光をイジめてるみたいで気分が悪い。

ただれて脈を打っている空の黒い隙間は、いたぶられた連中の吐き散らしたゲロだ。


クソ暑い。近所迷惑なテレビの音が聞こえてくる。酔っぱらい同士の喋り声と、パトカーのサイレンが聞こえてくる。

金のあるヤツは家の中で冷房浴びてくつろいでるから

金の無いヤツが、金の無いヤツを狙って熱帯のクソダメをうろつき回っている。

高架下を歩けば、今夜もどこかでトルエン中毒が指先から光線出してる。


クソ暑い。青い電撃で虫を殺し続けているコンビニの前にはカップラーメンの汁がこぼれている。

ゴミが溢れててクッサいダストボックスの近くには、いつもアホたちが座ってる。

店員が放ってる死ね死ね電波を平然と受けてるソイツらが

同級や後輩ならいいが、先輩だとめんどくさい。ところで今何時だ?アイツら起きてるかな。


違う、そんなんぜんぶどうでもいい。俺はただ。


リカ姉に会いたい。



「俺だって待てるわボケ!」



俺は息を切らしてぶっ倒れているゴッさんの顔面に

ポケットの小銭を叩きつけて家に帰った。



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