五日目

その1

 その瞬間、新緑の森の景色ははるか彼方に消え去り、青年は老いた姿となって戻ってきた。


 マシューの周りは一面、暗闇の中であった。自由に身動きは取れず、息も鼻からしかできない。顔にはまだ腫れたようなジンジンとした感覚が残っていた。そして今の自分の身体は、ひどく揺らされているようだ。

 周りは蒸し暑くて圧迫感があり、顔に何かザラザラしたものが触れて、かすかに痛む。

 とその時、すぐそばから声が聞こえてきた。


「……あ~あ、気味わりいなぁ。とんだ貧乏くじ引かされちまったぜ」

「なんか、狼とか出てきそうだな」

「そんなこと言うんじゃねえ、本当に出てきちまうだろうが。さっさと終わらせて帰るぞ」

「おう、景気づけになんか歌ってこうぜ」

「そうだな」


 そう言うと、ふたりの男はひどく音痴に卑猥な歌を歌い始めた。ようやくマシューは、自分が置かれている状況が把握できた。

 あいつら、俺を麻袋に入れて、縄で縛りやがったな。多分、俺がもうすぐ死ぬと思って、そのまま山まで担いでいって、滝つぼか沼の中にでも捨てちまおうって算段でいるんだろう。

 だが、マシューは息を殺し、男たちの様子をうかがうことにした。下手に動きでもすればマシューを担いでいる男たちが驚いて、ナイフで刺し殺そうとするかもしれない。こいつらがナイフを持っていない保証はどこにもなかった。もしかしたら、パトリックから息を吹き返した瞬間に殺すよう言われているかもしれない。

 ……パトリック。マシューの脳裏にその名がふとよぎった瞬間、はらわたの煮えくり返るような思いが蘇った。


 あの野郎は、絶対に許さん。


 マシューは猿轡をギリギリと噛みしめた。詰めこまれた布の間から、血の味が染み出してきた。

 何かできることはあるだろうか。マシューは半ば朦朧としながら考えた。全身を縛られた状態では反撃しようにもできず、縄を切るためのナイフや斧もない。

 この様子では、男たちがマシューを解放する可能性は極めて低かった。川や沼に放り込むにせよ、穴を掘って生き埋めにするにせよ、置き去りにして野生動物の餌にするにせよ、わざわざ縄を切る必要はない。

 男たちに声をかけて取引をもちかけようにも、猿轡をされていては無理だ。うなることくらいはできるが、そこからうまくいくかどうかは正直なところ勝算の低い博打だった。先ほども考えたように、何もできないまま刺し殺されてしまう可能性のほうが高い。


 マシューはどうしようもない状況の中、ただひたすらに待ち続けた。すると男たちは歌をやめ、ふたたび話し始めた。


「……ところでよ、お前牛のフンはどうなった」

「どうなったって、もうちょっと待ってくれよ。肥やしにするのだってな、時間かかんだよ」

「一日でも早く頼むぜ。今使ってる肥やしがよ、あんま調子よくねえのか育ちが悪いんだ」

「そんなこと言ったってよ、自然のことなんだから俺はどうしようもねえよ。神様に、早くクソを肥やしにしてくれなんて頼むのか?それに俺の畑にだって使うんだから、お前にゃ余りしかやんねえぞ」


 その話を聞いて、マシューは小さくほくそ笑んだ。

 こいつらは、パトリックのところの牧童じゃない。牧童なら牛のフンの話はしても、畑の話なんかしない。恐らくこいつらはパトリックたちに面倒ごとを押し付けられた農民だろう。だとしたら、まだ希望はある。

 絶望的な状況の中で少しでも希望があれば、そこに賭けてみるのがマシューという男だった。

 マシューは息をいっぱいに吸い込み、ぐっと腹を決めると、袋の中で思いっきり暴れはじめた。さらに話をさせろと言わんばかりに、猿轡の下から思いきりうなった。


「な、なんだ!?」

「生きてるじゃねえか!」


 突然、マシューの身体に強い衝撃があった。恐らく地面に落とされたのだろう。痛みをあげる声もそのままに、マシューは体をくねらせ、ひたすらにうなった。

 おいお前ら、話をさせろ!ちょっと俺の言うことを聞いてくれ!おい!

 猿轡の下から、マシューは必死に訴えた。しゃべるたびに口の中が痛んだが、それでも黙るわけにはいかない。


「うねうね動いて、気持ちわりいなぁ」

「でもよ、何か言ってるみたいだぜ」


 男の一人がそう言ったのが聞こえて、マシューはしめた、と思った。そうだ、少しでいいから話をしようぜ!

 そう言った途端、マシューの視界が開けた。袋は破られて、その向こうにランプに照らされた二人の若い農夫が見えた。マシューの顔を見た瞬間、農夫は顔をゆがませた。


「うへえ、ひでえな、おい! 顔がグチャグチャじゃねえか」


 そう言いながらも、マシューが訴えると男はナイフで猿轡を外した。マシューは血の味のするスカーフを吐き出すと、久しぶりに聞き取れる言葉を発した。


「水持ってないか?うがいをしたいんだ」


 男のひとりが水筒を出したが、そのまま飲ませるのは気が引けたと見えて、少し高い位置から水をマシューの口元にかけた。水はほとんどマシューの口に入らなかったが、口をすすぐには十分だった。マシューは赤黒く染まった水を吐き出すと、遠くで呆然と眺めているふたりに言った。


「あんたら、パトリックに言われて俺を山に捨てに来たんだな。そうだろう?」

「あ、ああ」

「ふたりとも、パトリックの言うことを信じているのか」

「いや、でもよ、このままだと良くないことが起きるって……」


 農民たちのあいだには、こいつらのようによく分からないまま従っているやつもいるんだろう。マシューはとって、そのことは都合がよかった。


「あいつの言う通りにしても、どのみち良くないことが起きるぞ。あいつがやろうとしているのは都会の連中に嘘をつくことだ。もし嘘がばれたら、行きつく先は一緒だ」

「で、でも……」

「それに俺の息子が殺されようとしているんだ。オークなんだが、奴らに毒を盛られた。早く助けに行かないと……」

「へえ、お前さんの息子、化け物なのかい」

「ああ、ちょっと複雑な事情があってな……。それはともかく、縄を切って、そのままナイフを貸してくれないか。パトリックのもとに行かないと……」

「いや、ちょっとそれは……」


 ためらうそぶりを見せる男に、マシューは語気を強めて言った。


「時間がないんだ! 早く切ってくれ!」

「だけどよ、もしそれがばれたらパトリックさんにいろいろと……」

「そんなことは気にするな! 俺が保証する。奴にはなにも口出しできないようにする!」


 と、その時だった。

 静かだった森の中に突然、狼の吠える声が聞こえた。それもずいぶん近くからだ。

 もしかしたら、昼間に襲ってきた奴らだろうか。俺のにおいを覚えて復讐しに来たか。だとしたらまずい。


「なあ、おい……」

「狼だ、狼の鳴き声だ!」


 農夫ふたりは完全に怯え切っていた。なんとか繋ぎ止めなくては。


「おい、落ち着け。俺は猟師だ。縄を切ってくれればふたりともふもとまで安全に案内しよう。俺が保証する」

「そんなズタボロの体でか!?」

「頼む。俺は狼に詳しいんだ。ふたりくらいなら十分安全に案内できるぞ、だから……」


 言いかけたところでふたたび狼が哭いた。今度はもっとはっきりと、一行の耳に聞こえた。この時すでに、ふたりの農夫はあとずさり始めていた。


「やべえよ、逃げよう」

「すまねえなぁ兄さん、勘弁してくれ。悪く思うなよ!」


 そう言うと男たちはきびすを返して、一目散に山を下りていった。


「待て、どこに行くんだ!バカ野郎、戻ってこい!」


 しだいに男たちのランプの明かりが遠のいていき、あたりは暗闇に包まれた。

 マシューは思わず舌打ちをした。だがそれで何かが変わるわけでもない。マシューは自分の身を縛る縄から抜け出そうと身をよじった。

 マシューは両手と両足が縄で縛られており、その上から麻袋を被されたうえでさらに胸と腹部、腿のあたりを縛られていた。二重三重に縛られているために、どう身をよじってもビクともしなかった。むしろ動くたびに縄が手首に食い込み、痛みを覚えた。

 ちくしょう……と思ったその時。

 マシューの背後に、何かがドサリと降り立った。

 それは素早い呼吸を繰り返し、あたりをうかがっているようだった。マシューはぴたりと動きを止め、石のようになった。体からは一気に冷や汗が噴き出てきた。降り立った時の音から考えると、かなり身体の大きい奴のようだ。


 もしかしたら、奴が人殺しの犯人なのか……?


 続いてそれはマシューのそばまで近寄ると、背中を嗅ぎまわった。マシューはただ、体をこわばらせることしかできなかった。この時もしもマシューがふり向けたとしても、その姿を見なかったことだろう。

 それはマシューの首筋から背骨に沿って下ににおいを嗅いでいくと、後ろ手に縛られている手首のあたりで止まった。マシューは恐怖を抑えて、じっと様子をうかがっていた。それが何者だったにしても、そのまま去ってくれることを祈った。

 しかし。


 えぐるような激痛が、マシューの腕を襲った。それが突然、袋の上からマシューの二の腕に食らいついたのだ。

 思わずマシューの口から悲鳴が漏れる。悲鳴が聞こえたのか否か、それは一度口を離し、再びマシューに食らいつくと、まるで肉を食いちぎろうとするように、左右に振り回し始めた。

 ただ運のいいことに、牙はマシューの肉体をはずれ、マシューの胴をしばっている縄に食らいついていた。マシューはチャンスとばかりに、自分の身体もよじらせた。そして手首への感触とともに、マシューの胴を縛る縄は解けた。

 しかし縄に食らいついていたそれは、ふたたびマシューのそばにやって来た。マシューはふたたび動きをひそめた。胴の縄が解けても、動きが自由になったわけではない。反撃するのは難しかった。

 しばらくそれはマシューの後ろであたりをうかがっているようだったが、突然マシューの胴体を飛び越え、マシューの眼前に踊り出た。その時マシューははじめて、おぼろげな月明かりの中に、それの姿を目の当たりにした。

 それの正体は、人間の大きさはあろうかという大きな一匹狼であった。


 こいつが、パトリックの言っていた狼だったのか……?

 狼はマシューのそばによると、腹部のあたりに顔を近づけた。マシューの腹筋には無意識に力がこもり、ふたたび汗が噴き出してきた。こいつ、俺のはらわたを食おうとでもしているのか?


 だがここで、マシューは不可解なことに気がついた。月の光に照らされた狼の姿をよく見れば、体に何かがついている。いや、腹のあたりに何かが巻かれている、といったほうが正しいだろうか。


 ……小物を運ぶのに使う、胴巻きか?

 と思ったその時、狼は甲高い鳴き声を上げてマシューから離れた。そして土の上に倒れこむと足をジタバタさせて苦しみだした。突然のことに驚いたマシューの前で、狼は口で胴巻きの紐を咥えて引いた。胴巻きははらりと地面に広がり、中に布や何かの道具らしきものが見えた。

 そこで、狼は広がった胴巻きの上でのたうち回りながら、低い声でうなり始めた。

 すると……。


 狼の全身からまるで木の枝が折れるようなバキバキという音がし、曲がっていた背中は痙攣のように震えながらまっすぐになった。

 それを皮切りに、手足はにょきにょきと草木の成長を早回ししたかのようにのび始め、長い鼻づらはしだいに短くなっていった。前脚の付け根は骨がギチギチと左右に広がり、人間の肩のようになった。

 そして、その『狼だったもの』が苦しむような声を上げてのたうち回るたびに、全身にまとっていた狼の毛は抜け、毛玉となってあたりに散らばった。


「グルルル……グアアアああああぁぁ……」


 苦しむような狼のうなり声も、しだいに人間のうなり声へと変わっていく。

 マシューはその一部始終を、食い入るように見つめていた。

 狼が人間の姿に変わるのが、ここまでおぞましいものとは思わなかった。今までマシューは人狼がその姿を変えるさまを、目の当たりにしたことはなかった。

 わずか数分程度の時間で、一匹の狼は一糸まとわぬ人間の男へと姿を変えた。

 その男はしばらく痛みが治まらないためかじっとうずくまっていたが、確かめるように何度か両手を握っては開きを繰り返すと、ようやくその顔をあげた。


 見慣れたアルベールの顔が、そこにあった。


 すべてがつながった瞬間、マシューの身は、一気にこわばった。

 昨夜、パトリックは巨大な狼を見たと言っていた。それにフィリップの家でも、狼の目撃証言と、狼のものと思われる毛が見つかっている。

 二日前の昼、人狼の集落を訪れた時、アルベールは妻の言葉を途中で遮った。まるでアルベール自身がここ数日の間、変身の時期であることを隠すように。あの時は確証が持てなかったが、たった今そのことは、はっきりとこの目で確認した。

 アルベールの胴巻きの中には、ナイフが納められていた。昨夜追いかけた謎の影は直立で立ち、さらに斧を弾き飛ばした。ナイフで斧に切りつけたか、それとも胴巻きのナイフが身を守ったか。

 今日の昼間、狼の群れに襲われ逃げていた時、確かにアルベールは山にいた。アルベールは狼と話ができる。今思えば、あの狼たちはアルベールの指示のもとに動いたように思える。俺たちの進んでいた森の向こうに、何か見られては困るものでもあったのか。

 そして今、アルベールは狼の身でありながら外に出ていた。今日も出ているなら、昨夜も出ていた可能性は高い。


 いったい、何のために?次の犠牲者を探すためか……?


 そのアルベールが今、何も身にまとわぬ姿のまま、胴巻きから取り出したナイフを片手に自分の身を縛る縄を切っている。

 だが今のマシューには、人間と寸分たがわぬアルベールの姿が、一匹のけだもののように見えて仕方がなかった。


「大丈夫かマシュー……ああ、これはひどいな。この傷は、狼の傷じゃないだろ。なあ、いったい何が……」


 アルベールがマシューの手首の縄を切った次の瞬間、マシューは左手でアルベールの喉をわしづかみし、地面に叩きつけた。

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