二日目
その1
アーバンカルトの朝は日の出前から始まっている。家畜たちが目をさまし麦の穂が陽の光を求める前から、この地に暮らすものは一日を始める準備をしなければならない。昨夜村の中を練り歩いた男たちも、それぞれの仕事をするためにいそいそと小屋を後にする。
マシューとクマヨシはそんな村人たちと入れ替わるように小屋に戻ってきた。ふたりはそれぞれの農場や牧場に戻る男たちをそばに、ハンスじいさんに声をかけた。
「どうやらもうお開きらしい。じゃあじいさん、また今夜」
「ああ、どうもありがとう」
ハンスじいさんはマシューたちに頭を下げた。
墓場で分かったことについては、ハンスじいさんだけには全部伝えておいた。まだほとんど何もわかっていない今の段階で他の連中に言ってしまうと、尾ひれがついてあらぬ噂が立つかもしれない。それに、墓を掘り起こしたマシューたちに反感を持つ者も出て、調査に支障が出ることもありうる。それだけはマシューもハンスじいさんも避けたかった。
「ところでこの後、あんたたちはどうする?」
「……ちょっと会いたい男がいる。もしかしたら犯人探しの手がかりになるかもしれん」
「あんたの言う、獣に近い人間、か。また何か分かったら、わしにも教えておくれ」
「ああ、きっとな」
それだけマシューは言い残すと、山の方向に向かって歩きはじめた。その後ろからクマヨシが続きながら、マシューに声をかける。
「ねえ父さん、今からどこまで行くのさ?」
「北西の山の向こうの盆地にある集落だ。安心しろ、今から行きゃ昼前には着く」
「昼前にはって……いまさっき朝日が昇ったばっかりじゃん!」
「つべこべ言うな。いつも狩りに行くときは、もっと長く歩いてるだろ」
「そりゃそうだけど……ちょっと休もうよ。夜通し地面を掘ってたから疲れちゃったよ」
「いや、急がないと戻るころには日が暮れちまう。休むのは集落についてからだ」
「えーっ……」
文句をたれるクマヨシを気にせず、マシューは歩き続けた。その姿は一晩中穴を掘り続けていた四十歳代の男には見えない。
マシューとクマヨシは途中の小屋で細くて丈夫な樫の木の丸太をもらうと、それを杖代わりにして山へと分け入った。
ふたりが向かう集落へはそれなりに険しい山道が長く続く。アーバンカルトの村から集落への道は一応通っているものの、岩山をかわすように大回りになっているため、徒歩では丸一日かかる。一生をかけて岩山を掘り、まっすぐ集落に続くトンネルを作ろうという者でも現れない限り、岩山を越える方が早く集落にたどりつけるのである。
朝の山中は涼しく、山登りをする体にはひんやりとした空気が心地よかった。マシューもクマヨシも、そんな山の気候に助けられながら、木々の間を分け入っていった。それでもマシューは、あたりに気を配ることも忘れていなかった。
もしかしたら、この山のどこかに真犯人が息をひそめているかもしれない。もし犯人が動物や化け物の類でなかったとしても、村の騒ぎは知っていることだろう。それで変に殺気立っていたら、俺たちのことを山狩りに来た連中だと考えて、突然襲ってくることもありうる。
そんなことをマシューが考えていると……。
「あっ!」
マシューの後ろで、クマヨシが小さく叫んだ。マシューはクマヨシがその場にしゃがんだのを見て、自らもその場に身をかがめた。同時にマシューは背中の斧へ手を伸ばした。
クマヨシは、何を見たのだろうか。マシューはささやくような声で、クマヨシに声をかけた。
「どうした?」
「こんなところで見つかるなんて……ほら」
クマヨシの手には、鈴蘭のような小さな花が握られていた。
マシューはそう聞いて、煙草の煙を吐くようにため息をついた。普通ならば大の男が花なんか摘んでいることに呆れているのだろうが、マシューたち狩人はそんなことでつむじを曲げたりはしない。
狩りで長い期間を山の中で過ごすこともある彼らは、怪我や病気をしたとしてもすぐに治療を受けられるわけではない。そのため彼らは山歩きの際に薬草を摘んで準備しておき、そういった事態に備えるのだ。彼らにとってみれば逆に、山に入って草花を摘まないのは死にたがっているとしか思えないのである。
「……なんだ。薬草探しをするのは感心だが、そんなことで大げさな声をあげるな」
「悪かったよ。いつも狩りで行く山じゃ見つからない草だったから、つい」
「で、なんだこの花は。俺の知らないやつだな」
「これをすりつぶして傷口に当てると血が止まりやすくなるんだって。教会にあった本に書いてあったんだ」
「なるほどな。お前が仕入れてくれた知識で、またひとつ賢くなれたよ」
この後もクマヨシは山道を歩きながら、いくつか薬草を摘んでいった。かぜやのどの痛みに効くハーブから、狩りに使う毒薬の原料になる赤く小さい南天のような木の実までさまざまだ。毒薬は他の薬草と調合することによって、毒消しを作ることもできる。
クマヨシはこれらの基本をマシューから学び、さらには教会でさまざまな薬の調合を覚えた。今となっては、薬草についてはマシューよりクマヨシの方が詳しくなっていた。
しばらく歩いていると、ふたりは小川に突き当たった。岩の間を清流が進み、その中にはちらほら小魚の姿も見える。木の陰も川まではのびておらず、梢の間から空を見上げると、すでに太陽がそれなりに高いところに昇っているのがわかった。
マシューは水筒に川の水を汲むと、川上を指さしてクマヨシに言った。
「よし。この川にそって上流に進めば、高台から集落が見えてくるはずだ。行くぞ」
せせらぎの音を聞きながら、マシューたちは石でいっぱいの河原道を踏みしめていった。そんな道をしばらく進んでいくと、途中で川は滝に変わり、河原道は急な坂道に変わった。それでもマシューたちは、杖をつく腕に力を入れながら一歩ずつ上流へと進んでいった。
その急な坂を登りきったところでマシューたちは足を止めた。ふたりの目の前には大きな木がそびえ立っており、その根元には木で作った小さな東屋のようなものがあった。これがマシューたち狩人が何十年と守ってきた、この山の神をまつった祠である。
マシューは祠にゆっくりと近づくと、その前にひざまずいた。そして物入れからとりだした小さな巾着袋から、さまざまな色の乾いた香辛料のようなものをひとつかみし、祠の中の陶器に入れた。
この香辛料は火をつけると独特の香りの煙を出す、香のようなものであった。狩人たちはこれらの香を儀式のときだけでなく、穴の中の動物をいぶりだす時や虫よけ、狼煙をあげる際など、さまざまな用途にもちいる。
続いてマシューは物入れから火打ち石と鉄片をとりだした。黒光りする火打ち石に小さくちぎった綿を当てると、石と鉄片をカン、カカン、とリズミカルに打ちあわせた。マシューは先代の狩人たちから、このリズムは山の神を呼ぶリズムで、火のついた時が山の神の舞い降りた瞬間だと聞いていた。
しばらく石と鉄片を打ちあわせていると、綿から煙がたちのぼってきた。マシューは石と鉄片を置くと、綿に息を吹きかける。すると綿にパッと小さな火が灯った。すかさずマシューは香の入った器に綿を入れると、器からは大きく煙が立ち上った。
独特の香りのする煙があたりを包む中、マシューとクマヨシの二人は祠に向かって手を合わせた。
狩人たちは代々、このようにして各地の山の神に祈りをささげてきたのである。狩りが成功するように、そして何事もなく山をおりられるように。山の神もこうした彼らの願いを聞き届け、彼らに恵みと安全を授け、時には試練を与えてきた。
ただ、この時のマシューたちの願いは違った。
惨たらしく人の命を奪った者を、この手で倒させてほしい。そのためにも、山の大いなる力を貸してもらいたい。
それは狩人たちが、人を襲った獣や怪物を相手にする時だけにしてきた願いであった。
マシューとクマヨシは山の神に祈りを終えると、ホッとしたように大きく息をついた。祈りの時間は、彼らにとっていい小休止にもなっていたのだろう。
「よし。ここまできたら、あと半分だな。もう少し行った先から、集落が見えるはずだが……」
そう言ったマシューは、先へと歩き始めた。ここからの道は下り坂になる。
何度も急カーブが続くつづら折りの山道を下ると、マシューは木々が伐採された一帯に出た。高台になっているそこからは、ふもとの光景が一望のもとにできるのだが……。
「うわぁ……」
後から追いついてきたクマヨシが、感嘆の声をあげた。
そこからは、山々に囲まれた豊かな盆地が広がっていた。
平地には畑や草原が広がり、その周りを囲む山の斜面にはいくつか丸太づくりの家が建てられている。そして村のところどころからは、なにかを焼いているのか煙が高く立ちのぼっている。村としての規模はアーバンカルトほどは大きくないものの、それなりの数の住人はいるようだ。
淡い緑色の畑や草原は陽の光を受けて輝き、集落全体がまるで小さな箱庭のようであった。
「クマヨシ、ここが俺たちの目指していた集落だ。この地に住む者はアーレモンの村と自称している」
クマヨシは集落をぼんやりとした様子で見つめている。森の向こうに突然現れた集落に、どこか幻想的な思いを抱いたのだろう。
「さあ、遠くから見つめるのは終わりだ。急ごう」
「うん!」
そこから集落につくのは早かった。道が下り坂だったというのもあっただろうが、実際に目的地の集落を目の当たりにしたことで、マシューもクマヨシも無意識のうちに足が速く進んでいたようだ。
集落全体は暖かい空気に包まれていた。マシューたちはトマトやナスといった夏野菜の花が咲く畑の間のあぜ道を、あたりを見回しながら進んでいった。その中でクマヨシは、しきりにあたりのにおいをかいでいた。
「いいにおいだ。村のあちこちで燻製を作ってるのかな」
「この集落の人達はこれで生計を立てているからな。アーバンカルトの村で売ってる燻製も、大体がここで作られてるんだ。俺たちの今から行く家でも、運が良ければごちそうしてくれるだろう」
「楽しみだなぁ。もうお昼だし、お腹すいてきちゃったよ」
そんなことを話していたふたりに、声をかける者もいる。畑の中から近づいてきたのは、銀色の髪に麦わら帽子をかぶった初老の男性だった。
彼はまるでマシューたちが向かってくるのを知っていたかのように、苗の間をかきわけて遠くからかけつけてきた。
「久しぶりだねマシューさん、今日もなんか狩りに行くのかい?」
「いや、ちょっとアルベールのやつに、聞きたいことがあるんでな。いま家にいるか?」
「ああ、今のあいつは、家から出ろと言ったところで出やせんよ」
「ははっ、それもそうだな!じゃあ、また」
初老の男は帽子をとると、マシューに向けて帽子を振った。
「あの人、父さんの知り合い?」
「まあな。この村には狩りのときに飯や宿を頼むことがあってな。あとは狩りのときに、この村の若い衆の力を借りることもあるんだ」
「この村の人たちの力?」
「まあ、じきに分かるさ」
そんなことを話しているうちに、ふたりはマシューたちの来た方向とは反対側の高台にある、一件の家に着いた。ここも他の家と同じように裏手に小屋があるものの、煙突や窯といった燻製を作るための設備は見当たらない。そして玄関では、今にも動きだしそうな木彫りの狼がふたりを出迎えた。
マシューは家のドアを叩く。すると中から、少しかすれたような女の声が聞こえてきた。
「はい?」
「どうも、猟師のマシューです」
「あら、ご無沙汰してます!どうぞ!」
扉を開けたマシューたちを台所から出迎えたのは、軽くパーマのかかったダークブラウンの長い髪をした、二十代くらいの見た目の女だった。彼女はスラリと背が高く、美しい青みがかった目をしている。
そして白いブラウスと黒いスカートからはちきれんばかりの豊満な胸元と腰つきは、やもめ暮らしの男にとって、かなりの目の毒であった。そうした体つきや顔立ちからはいかにも野性的で気の強そうな印象を受けるが、話し方から考えるとそういうわけでもないようだ。そんな見た目と性格との落差はなおさらに、原初的な男の本能をかきたてた。
マシューはそんな思いをにじませるような、どこか色気のある口調で言葉をかけた。
「奥さん、アルベールはいるかい?」
「いま裏の小屋で作業してます。もうお昼ですし、呼んできましょうか?」
「うーん……食事はいつもこちらで?」
「いえ、雨の日以外は裏の小屋の前のテーブルで食べてますが」
「なら俺たちから挨拶に行こう。仕事をやっているところを邪魔しちゃ悪い。それではまた」
マシューはそう言うと扉から外に出て、家の裏手に回った。そこには凛々しい牡鹿や仁王立ちしている熊といった、今にも動きだしそうな野生動物の木像がいくつも置かれていた。クマヨシがこれらの像に感動したのかまじまじと眺めている横で、マシューはその奥の小屋に目を向けた。
小屋の扉は開け放たれており、その向こうでは細身の男が座って作業をしていた。彼の髪もパーマがかったブラウンで、その年齢は三十代前半に見える。彼はノミと木づちを手に、両翼を広げた木彫りの鷲の羽の一本一本を彫りこみ、命を吹きこんでいた。
「……相変わらず見事な手際だな、アルベール」
腕を組んで感心したようにマシューが言うと、細身の青年アルベールは細かく木づちを打つ手を止め、眼鏡に手を触れた。眼鏡越しに見えた鋭い視線からは、彼がどこかこちらを警戒しているようにも見える。それはノミと木づちをまだ手離していないことからもわかった。
アルベールは肩越しに、落ち着いた声でマシューに話しかけた。
「何の用だ、マシュー」
「どうした、やけにそっけないじゃないか。実は少し聞きたいことがあってな」
「ふーん。じゃあ先にこっちから聞くけど……昨日の晩、何をしていた?」
「そう言ってくるとは、さすがに鼻が利くな。ならこっちもさらに聞き返そう。先月ネーレ・アリスマで起きた事件のことは知ってるか?」
「ああ。でもよかった。自分から切り出してくるってことは、あんたは犯人じゃないらしい」
「おいおい、俺を疑ってたのか」
「すまなかった。だが万が一ということもあるから」
アルベールは道具入れにノミと木づちを置いて立ち上がると、小屋のそばの丸太で作ったイスにマシューたちを促した。
「あんたの体から、死んだ人間の女のにおいがしたんでね」
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