その2
このような能力を持っていることから分かるように、アルベールは、普通の人間ではない。
普段は人間の姿だが、一定の周期で狼に姿を変えることのある人間――いわゆる『人狼』であった。そしてまた彼だけでなく、この集落に住む者はみな人狼の血族であった。
人狼といえば、しばしば『満月の夜に狼に姿を変え、銀で作った武器に弱い』という伝説で語られる。無論そのような種族の人狼も他の土地にはいるものの、この集落の人狼たちはそういった伝説とは少し異なっていた。
彼らはひと月に数日の間、狼に姿を変える体質であり、必ず満月の夜に姿が変わるわけではなかった。彼らにしてみれば狼への変身は一種の生理現象のようなものであった。そのためストレスを受けた時や体調の良くない時にはその周期が狂い、変身が早まったり遅くなったりする。
狼に変身した時、彼らは人間としての知性をほとんど失ってしまう。そのため彼らは変身の兆候が現れると、他の者に危害を加えぬように毎晩それぞれの家にある地下室にこもって鍵をかけ、その中で変身が解けるのを待つのである。この地下室へと続く扉は銀と鉄の合金で作られ、並の人狼では破ることはできない。もちろんアルベールの家にも、台所の奥にかんぬきのついた地下室へと続く扉がある。
ちなみにこの集落には、夫婦で狼化の周期が同じだった場合はふたりきりで地下室にこもってしばらく過ごす風習もあり、夫婦双方に互いの傷を手当てした跡があるのは、いい夫婦の証とされている。
また、人狼たちは人間の姿のときでも優れた嗅覚を発揮する。そのため人狼の少年が猟師たちの狩りや怪物退治に同行し、斥候を務めることもしばしばある。アルベールも以前はマシューとともに狩りをした仲であり、一線を退いて木彫り職人となった今でもこうしてつきあいは続いていた。
かつては彼ら人狼も、人間とともに周辺のアーバンカルトやネーレアリスマの村で生活していた。しかしいつしか彼らは人間や家畜に危害を加える者として迫害を受けるようになり、もとの住処を追われた彼らはいつしかここの盆地に集落をつくって生きるようになったのだった。
そのため人狼の間では、狼化して人間に危害を加えることはタブーになっており、狼化の際に地下室で過ごすのもそれを防ぐ意味合いがあった。そしてその掟を破った者には死の制裁が与えられ、遺体は人間ではなく獣として扱われ、山の中に捨てられるのである。
マシューは椅子に座ると、アルベールにこれまでのいきさつを話した。だが相変わらず、アルベールは険しい顔をしている。これまで異様な事件があったときに、真っ先に疑われてきたのが人狼たちだった。彼も不愉快というより、またか、と思っているのだろう。もっとも彼自身、あまり表情豊かな方ではなかったのだが。
「……それで、最近この集落で妙な動きをしている奴はいないか?例えば夕方から夜にかけてどこかに出かけるとか、ずっと一匹狼で暮らしているとか」
「いや、そんな奴がいるなら僕の耳にも入っているはずだ。なにしろせまい集落だからな」
アルベールは素直に答えた。
「それに事件の話はここのみんなの耳にも入っているから、逆になにかあれば真っ先に村中に知れ渡るだろう。だが今のところ、そんな話は聞いていない」
「なるほどな。だとしたら犯人が人狼という線は薄いか……?」
「いや、僕たち以外の人狼という可能性もある。もしかしたら誰かがにおいをかぎつけ、警戒してるかも。満月だったのはたしか……」
「一週間前だ。となると、満月で変身する人狼、って可能性はなさそうだな」
「ああ、ただ人狼にもいろいろなタイプがいることを忘れてもらっては困る」
アルベールの言う通りであった。だが、この集落は彼らにとって狼の縄張りと同じであり、それゆえに外部からの侵入者に対しては誰もが敏感に反応する。特に同じ人狼であれば狼の本能が働き、すぐにでもわかるはずだった。
「ところでマシュー、今までの事件の現場から考えると、犯人のたどったルートは……?」
「この村からかなり南、アーバンカルトからこの村への迂回路のそばを通ったことになるな」
「なるほど。南の狼の縄張りとの間を、うまくくぐり抜けた感じか……」
「というと?」
「犯人は狼の縄張りについて、それなりに詳しい奴だ。おそらく本能か能力で縄張りを察知しているか、縄張りについて知識があるか……」
「つまり、犯人は猟師ということも?」
「十分にありうる」
そこまで聞いたマシューは腕を組み、背もたれにもたれかかった。
「やはり、犯人はただの人間なんだろうか……」
と、マシューが言ったその瞬間、アルベールはため息まじりに返した。
「人間だからどうだというんだ、マシュー?」
アルベールは整然と、しかし語気を強くして続けた。
「人間は、まあ俺たち人狼もそうだが……知性を持ったばっかりに自分たちを万物の霊長だとのたまって、そこらの獣とはまったく別の存在だと考えてる。だが考えてみれば、人間だってオスとメスがいて、子孫を残す。その点なんら獣と変わりはない。だからいつ、自然の力にあてられて獣の本能が現れたとしてもおかしくはないだろう。そのことは、自然にわけ入り生きる狩人のあんたもよく知っているはずじゃないのか?」
マシューはアルベールの言葉をじっと聞いていた。
マシューたち狩人はいにしえより山の力、自然の力を信じて生きてきた。そうして生きていく中で、自然に身を置くことによる解放感といったものを、マシューも時折感じてきた。その心地よさが、マシューが山の生活を続ける理由のひとつでもあった。
しかしそれは、人間を人間たらしめる『知性』からの開放でもある。
狩人の中には、狩りに出かけたまま行方知れずになる者もいた。大半は遭難したり野生動物に襲われ命を落としたりするのだが、なかには半裸で山中を獣か狂人のように駆け回っているのを目撃された者もいた。そうした者は『山にあてられた者』として、一切関わってはならないというのが狩人たちの古くからの習わしだった。そして、月に一度、獣に姿を変える人狼たちは、人間の理性など簡単に失われてしまうことを身をもって知っている。
勿論アルベールも例外でなく、そのことが言葉にも出てしまったのだろう。普段と違ってどことなく真剣に語るアルベールを落ち着けるように、マシューは返す。
「いや、そう言う意味で言ったんじゃない。ただ犯人をしぼりこむどころかどんどん捜索範囲を広げているのが、ちょっとひっかかってな。ところで……」
マシューはメガネの向こうのアルベールの鋭い瞳に笑いかけながら、続けた。
「お前も成長したな。まさか俺に向かって説教をするようになるとは」
「そりゃそうだ。僕だってずっと、子犬のままでいられるわけじゃない」
ようやくアルベールの顔がほころんだところで、マシューの背後から一同を呼ぶ声が聞こえた。その直後にマシューの鼻に、先ほど家の中でかすかに漂っていた香ばしいかおりがとびこんできた。
振り向いたマシューの目に、できたてのローストチキンを持ってこちらに歩いてくるアルベールの妻、スザンヌの姿が映った。続いてクマヨシを見ると、ずっと待ちかねていたのか、キラキラと目を輝かせている。
「さあ、血なまぐさい話はいったん終わりにして、ふたりとも、昼食にしようか」
アルベールのひとことで、マシューたちは高台の端にある大きなテーブルに移動した。このテーブルからは集落ののどかな風景が一望できる。チェックのテーブルクロスの上では、ローストチキンが湯気を立ててマシューたちを待っていた。
「突然邪魔したのに、なんかすまないな」
「水臭いことを言うなよ。クマヨシ君には、これじゃ足りないかもしれないけど……」
「いえ、お構いなく。僕、小食なので」
「あくまでオーク基準では、な」
「ハハハ……」
かくして四人は、食卓を囲んで世間話に興じはじめた。アルベールとスザンヌも、大勢で食事をすることはあまりないのだろう、どこか楽しげにしている。
「ほら、クマヨシ君ももっと食べなよ。食べなきゃ大きくなれないぞ」
「あっ、ありがとうございます!それでは……」
「まあ、こいつにはこれ以上大きくなられても困るがな。一対一で喧嘩しても、勝てるかどうか……」
マシューは隣でローストチキンをほおばるクマヨシを見た。思えば、あんな小さかった姿から、よくここまで成長してくれたものだ。マシューは自分より大きな姿となったその姿に、改めて嬉しさを覚えていた。
と、その時。
クマヨシは突然、扉をノックするように喉元をたたき始めた。
「あっ、くっ……のどに骨が……」
「そんなに急いで食べるから……お水、持ってきますね」
アルベールはもちろん、スザンヌもクマヨシの姿を見て思わず笑い始めた。だがそんなそそっかしい息子の姿を見て、マシューはただ苦笑することしかできなかった。性格に関しては、もう少し成長してほしいものだな……。
クマヨシは水差しいっぱいの井戸水をスザンヌから受け取ると、一気に飲み干した。そして大きく一息つくと、クマヨシはそのままアルベールに話しかけた。
「ああ、ありがとうございます……ところでアルベールさん、人間から狼に姿を変えるのって、どんな感じですか?」
クマヨシはこれまで人狼に出会ったことはなかった。いや、もしかしたらあったのかもしれないが、少なくとも人狼だと意識したことはなかった。人間と怪物のはざまに生きる彼らにクマヨシは興味を持ったのか、アルベール夫婦に積極的に話しかけていた。
アルベールもクマヨシが怪物であるためか、普通の人間が相手では答えづらいような深入りした質問も、比較的抵抗なく答えられるらしい。
「慣れないうちはかなりつらいかな。僕たちの種族は見た目だけじゃなくて、骨の形から変わるから。子供のときなら痛みもあまりないんだけど、大人になって体ができあがってからだと、変身のたびに全身がまるで激しい成長痛みたいに痛くなってね。まあ、慣れればなんともないんだけど」
「は、はあ……」
アルベールの答えに、クマヨシはなんとも言えない返事をした。どうやら人狼たちの生活は、クマヨシが思っていた以上にハードだったようだ。
「アルベールさんは狼の姿でいるのと人間の姿でいるのと、どっちがいいですか?」
「うーん、そうだな……人間の姿もいいんだけど、野山を駆け回るときは狼の姿のほうが都合がいいんだよね。小回りがきくし、狭いところも難なく通り抜けられるし」
「それなら狼の姿のほうがいいんですか?」
「そういうわけでもないかな。狼だと、基本的に本能だけで行動することになるからね。でも人間の理性が働いていれば、本能にも逆らうことができる。だから人狼は、この人間の姿が本来の自分なんだ、って考えなきゃいけない。さもないと、人間としての自分を完全に失って、ただの狼になってしまうかもしれないからね」
アルベールの話を聞いて、スザンヌも時折小さくうなずいていた。これはアルベールの考えというよりも、この集落の人狼たち全体の考えなのだろう。ただマシューは、そんな彼らがいささか内省的すぎるとも考えていた。
アルベール以外の人狼たちのなかには、狼の姿を醜いと考えている者も少なくない。確かに狼化して人間を襲うのは問題だが、狼の姿もまた彼ら自身の一面であることには間違いない。彼らがもっと、狼の姿に誇りを持つことができれば……。だが、狼の仕業とも噂されるこの事件が解決しない限り、それも難しそうだ。
そうマシューが考える間にも、アルベールは真剣に語り続けた。
「でももし、狼でいる時も人間の理性を保てたなら、どれだけいいことか……」
「そうよね、あなた。昨日だってずっと地下室で……」
「いや、その話はまだだ」
アルベールはスザンヌの言葉を遮るように言った。まるでそれが、不都合であったかのように。そしてアルベールは間髪入れずにクマヨシに声をかけた。
「ところでクマヨシ君、それは薬草か?」
「あっ、はい、そうですが……」
「ちょっと見せてくれ」
アルベールはクマヨシの巾着袋を受け取ると、中身を確認し始めた。そのグレーの瞳には何かを探し求めるような、輝きがみえた。
「これはどこの……?」
「あの山の一帯で摘んできました。よろしければさしあげますよ」
「……なるほど、だったら僕でも多分すぐ見つけられるね。ありがとう」
「アルベールさんも薬に興味が?」
「まあ……昔は君の父さんの猟にもよくついて行ってたから、多少知識はあってね。もし鎮静剤になる薬草を見つけたら、悪いけど持ってきてくれないか」
「わかりました!」
ここでふとマシューは空を見上げると、日が傾き始めているのに気が付いた。そろそろこの集落を後にしないと、アーバンカルトの村に着くころには日が暮れてしまう。それに猟奇的な事件が起きているのはだいたい夕方から日が暮れて間もないころだ。その時間に村にいなければ、何のために自分とクマヨシが呼ばれたかわからない。
「それじゃあな、アルベール。俺たちもここらでおいとまするよ」
「えっ、もうそんな時間か」
「夕暮れまでには村に戻らなきゃならんからな。奥さんも、いきなり押しかけてすまなかった。ご馳走さま」
「いえいえ。また、いらしてくださいね」
マシューに続いて席を立ったアルベールは、マシューに近寄ると小声で話しかけた。
「マシュー、この事件に関してはできるだけ協力するよ。明日か明後日には、僕も山に入って調べてみるつもりだ。もしかしたらこのあたりの狼たちが何か知ってるかもしれないからね」
「その年になっても、まだ狼の言葉がわかるのか」
人狼の子供たちは、まだ人間よりも獣に近い存在であるためか、狼たちと意思の疎通ができる。狩りにまだ幼い彼らを同行させるのは、狼から情報を得て狩りに役立てるためでもあった。しかし、その能力は大人になると次第に失われていってしまうのだった。アルベールの歳を上回ると、狼と問題なくコミュニケーションをとれる者は片手で数えられるくらいしかいなくなってしまう。
アルベールはマシューの言葉に小さく頷くと、小声で狼の鳴き声を聞かせた。
「お互い何を言っているかは、まだかろうじてわかるんだ。何か重要なことがわかったら、君にも教えるよ」
「ああ、助かる。またな」
そう言って立ち去ろうとするマシューの後ろで、クマヨシが大きな声をあげる。
「どうも、ごちそうさまでした!」
かくして集落を後にしたマシューとクマヨシのふたりは、話をしながら坂道を進んでいった。
「ローストチキン、おいしかったなぁ。どうしたらあんな味付けできるんだろう」
「あの家のそばに、ハーブや香辛料を栽培している畑があったろう。たぶんそこからおすそわけしてもらった調味料のおかげだな」
「でもたくさんの調味料で味付けのバランスをとれるのは、あの奥さんの技だよね」
「そうだな。ミカへのお土産に、少し調味料をもらってこればよかったか……」
普段するような会話はそのあたりに留めておいて、マシューは例の事件へと考えを移した。
アルベールからの言葉で知り得たことも踏まえながら、マシューは事件の犯人について自身の考えをまとめていった。
まず第一に、狼の犯行であったとした場合。
唯一の目撃証言にも『狼のような毛』というものがあったが、昨日もハンスじいさんに話したように、野生の狼が人間に対し発情することはあまりない。あったとしても幼少期に人間とある程度のかかわりを持った狼など、かなり限られた状況に限られる。アーバンカルトやネーレ・アリスマの村やその近郊でそうした珍しい事例があったのなら、探し出すのはたやすいだろう。
ただ、遺体の喉元の傷は不可解だ。狼があれだけ大きな傷をつけるとしたら喉笛に食らいついたとしか考えられないが、今思えばあれが噛み傷によるものとは思えない。噛み傷ならばもっと傷口が食いちぎられたようにえぐられているはずである。そう考えるとあの傷は狼よりもっと大きな動物の爪、たとえば熊のそれか刃物によってつけられたもののようにも思える。
もしかしたら偽装工作をするような『人間並みの知能をもった狼』が現れた可能性もあるが、これは人狼の場合の一ケースに含めて考えるとしよう。
第二に、これが人間の犯行であったとした場合。
様々な事柄を考えれば、これが一番妥当な結論ではある。先月に起きた狼による獣害事件に便乗し、文字通りの狼藉を働いた者がいてもおかしな話ではない。狼の毛皮だって、手に入れようと思えばたやすく手に入る。ただ許せないのは、そんな外道が太陽の下で何もしてないかのような顔をして仕事に励んでいるかもしれんということだ。
……だとしたら、どんな奴が犯人だろうか。アルベールとの話のなかで、狼の生息地などについてそれなりに詳しい者の仕業かもしれないという話が出た。それが正しいとすれば、犯人はただの百姓たちではありえないだろう。俺たちと同じ猟師や、山歩きには慣れている木こりや行商人、……挙げていけばきりがないな。
第三に、人狼やオークといった人並みの知能を持った怪物の犯行であったとした場合。
これら人型の怪物はこの地方にもある程度の数は住んでおり、人間を襲い凌辱に及んだという話もたびたび聞く。そのような怪物の討伐の依頼を受けたことも、これまで何度かある。
ただオークに関しては住処を変えたのか、俺の若いころより目撃数は大幅に減っている。クマヨシを拾ったのも……遠くまで狩りに出かけたときの帰りだった。とはいえ何らかの理由で単独行動をしていたものが行きずり的に犯行に及んだとしても不思議ではない。現にクマヨシの例からもわかるように、奴らには『追放』の文化がある。そうやって文字通り『道から外れた』奴がこのあたりに出没することだって十分ありうるだろう。だとしたらあれだけの巨体を、昼間どこに隠しているのだろうか。
人狼に関してはアルベールと話した通り。可能性はあるものの、確定とまではいかないといったところだ。『狼のような毛』の証言にも該当する。連中の爪なら、大きな傷をつけることもできるだろう。ただこのあたりの人狼は狼に変身すると人間性を失ってしまう。よそから来た人狼……例えば獣人タイプのような、おぼろげでも理性を保ったまま活動ができる奴ならばありえるだろう。
だがそれでも不審な点がある。このような獣人タイプは、満月の夜にしか変身しない、ということだ。狼の毛の目撃情報が出た日の夜をはじめとしてここ数日、満月の日は一度もなかった。つまり事件の起きた間、獣人タイプが変身するような夜はない。
ただもし例外がいたとしたら……いや、それを言い出したらきりがない。
考えれば考えるほどドツボにはまっていくような気がして、マシューはいったん考えをそらした。陽はだいぶ傾き、森の中も暗くなり始めている。そんなマシューの耳に飛び込んできたのは、クマヨシの声だった。
「大丈夫かい、父さん?」
「あ、ああ」
「もしよかったらさ、これ……」
クマヨシは物入から一枚、薄荷の葉を取り出し、マシューに渡した。
「疲れが取れるってわけでもないけどさ、こういうのあったほうが気がまぎれると思って。父さんずっと深刻そうな顔してるからさ」
「なんか、すまんな。ありがとう」
「うん、事件もなんとかしないといけないけどさ、あまり思いつめるのもよくないよ」
マシューは薄荷の葉を軽く噛むと、肺臓いっぱいに森の空気を吸いこんだ。薄荷の清涼感の中とともに初夏の程よく湿った空気を感じながら、マシューはこずえの間から淡く青い空を見つめた。
はたしてこの山は、犯人が何者か知っているのだろうか。もしかしたら、俺を試しているのか?
そんなことをぼんやりと考えながら、マシューはたばこの煙を吐きだすように大きく息をついた。いつの間にか、アーバンカルトへと向かう山道は下り坂となっていた。
沈む夕日を受けてほんのり赤く染まった麦畑が、村に戻ってきたマシューとクマヨシを出迎えた。そろそろ農夫も牧童も太陽の下での仕事を終える頃合いだ。しかしその間にも、例のけだものが次の犠牲者を探して暗躍し始めているかもしれない。
マシューとクマヨシは集合場所の水車小屋へと足を進めながら、麦畑に目をやった。畑の中に女たちが集まり、麦の穂の間から顔を出していた。彼女たちと目が合った瞬間、マシューは一瞬背筋が寒くなった。彼女たちの視線は追いこまれた獣のように鋭く、容易に近寄れない雰囲気を放っていた。マシューはまるで自分がよそ者のように見られているような気がした。
「……なんだかみんなピリピリしているね、父さん」
「仕方ないだろう。ひとりでいたら奴の餌食になるかもしれんのだからな」
考えてみれば、ハンスじいさんを除いた農夫たちにとって、マシューとクマヨシのような猟師はほとんど関わりをもたない存在だ。人殺しが起きて誰もが警戒心を抱いている状況においては、クマヨシどころかマシューでさえも、彼らの目には怪物のように見えたかもしれない。ハンスじいさんは昼のうちに説明をしておくと言ってはいたものの、どれだけの農夫が彼の言葉を素直に聞いたかはわからないのだ。
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