その3
マシューとクマヨシが水車小屋についた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。小屋の中にいる者はまだまばらだった。昨夜はあれだけ血の気の多かった男たちも、ふたりの姿に慣れたためか、それとも人数が少ないためか、みなマシューとクマヨシを一瞥するだけだった。ふたりは部屋の隅の、石うすのそばに腰を落ち着けた。集落を出て以来、はじめての休息であった。
マシューは背中にくくりつけた手斧を床に置き、たすき掛けにしていた紐を解いた。そして巾着袋から麻布をとり出すと、斧の刃を磨きはじめた。
猟師の狩りでは、落とし穴や紐などを使った罠が主に使われる。そういった罠でとらえられた動物は、最後まで必死の抵抗を見せる。足に紐が絡まった状況でも、できる限り暴れまわろうとするのだ。そんな動物に引導を渡すのに使うのが遠くから標的を仕留める技、すなわち槍や投げ斧の技術であった。
猟師たちは古くから、その『最期を看取る』技を代々受け継いできた。しかし銃の登場で、それらの技どころか猟のやり方さえも大きく変わっていった。マシューが斧を使う理由には山中でさまざまなものを作るのにはナイフより斧のほうが適している、ということもあったが、古くから伝わる技を受け継ぐ、といった意味合いもあった。
頭を大きく前に倒したところで、マシューは我に返った。どうやら斧の刃を磨き終えた後、いつのまにか眠っていたらしい。小屋の中の男たちの姿もマシューたちが入ってきた時より増えてきた。どうやら今日の夜回りに参加する人数は昨日より多いらしい。
ここでマシューは、クマヨシに目を向けた、クマヨシはあぐらをかいて、まるで石像のように微動だにせず眠っている。この巨体を存分に動かすには、休息もより多く必要なんだろう。マシューが改めてそう思った、その時であった。
「なんだ、バケモノってのはこいつか!」
突如飛んできた声に目を向けると、戸口のところに数人の若い男たちがたむろして、こちらをあざ笑うかのような視線を向けている。チェックの上着にデニム、という身なりを見るとどうやら牧童たちの集まりのようだ。その中には、昨夜の夜警で見た顔もちらほらあった。
クマヨシはもう目を覚ましているようだった。だが連中には目もくれず、じっと目の前の柱を見つめている。これがクマヨシの言われなき迫害に対する、いつもの対処法であった。
しかしそれでも、クマヨシへの心無い言葉は続く。
「おい、なんか言ってみろよバケモノ、今日の昼間は何してた?」
「少し調べることがあったんだ。俺たちだってずっと暇だったわけじゃないからな」
答えたのはマシューだった。マシューは手斧や荷物を地面に置くと、ゆっくりと立ち上がる。
それを見計らったかのように、牧童はマシューに言い放った。
「俺はあいつに聞いてんだ。おっさんは引っこんでな」
「本当のことは言えないんだろ?次にヤっちまう女でも探してたんだもんな」
続けて牧童のうちのひとりが言うと、一団は野卑な笑い声を上げた。それを受けたマシューは、さぞかし怒りに震えた、と思いきや……。
彼らに負けんばかりの豪快な笑い声をあげ始めたのである。
その様子を見て笑いを止めた牧童たちの顔に、次第に不快感の色がにじみ出てきた。自分たちがコケにした相手に、逆に自分たちがコケにされているように感じたのだろう。
一方のマシューはそんな牧童たちの様子を気にも留めず、ただひたすらに笑い続けた。そしてひとしきり笑った後に、マシューは笑顔を保ったまま牧童たちをきっと睨みつけ、よく通る声で力強く言い放った。
「何を言ってやがる、お前らじゃあるまいに。お前らも女のケツじゃなくて、真面目に牛のケツでも追っかけたらどうだ。それがお前らの仕事だろう」
「……このクソオヤジがっ!」
すると牧童の一人が逆上して殴り掛かってきた。マシューはとっさに両腕をかかげて拳を弾くと、そのままぐるりと大きく腕をまわして牧童の右ほほに裏拳を叩き込んだ。大きな体を左右に振るその動きは、まるで熊を思わせるものであった。
続けてマシューは牧童の腕をとると後ろ手にひねり、さらに大きな左腕を大蛇のごとく牧童の首に巻きつけた。その間実に数秒で、ほかの牧童たちは何もできずにいた。
と、その時である。
「おい、手を放せ」
扉口から聞こえたのは、パトリックの声だった。パトリックはこちらにライフルの銃口を向けていた。マシューは反射的に牧童の体を盾にするようにパトリックに向けていた。
「右腕をぶち抜いて、二度と斧を持てないようにしてやろうか」
「なるほど……この牧童は、お前のところの連中だったか」
「ああ」
「だったら俺たちに妙な口をきかないように、きちんとしつけとけ」
マシューはそう言って腕を離すと、パトリックに向かって牧童の尻を軽く蹴飛ばした。牧童は前につんのめって転びかけたが、体勢を立て直すと腕を押さえながら恨みがましくマシューをにらみつけた。逆恨みか、ふざけるんじゃないぞ。そう言わんばかりにマシューは睨み返した。
パトリックは牧童の肩をたたいて一団に戻るようにうながしながら、マシューに言い放った。
「ところでお前ら、昼間は妙なことしてないだろうな」
「まあな。少し調べることがあって……」
「どうだろうな。犯人はいつも嘘をつくからな」
マシューの言葉をぶった切るようにパトリックは言い放ち、牧童たちのもとに歩いていった。マシューは何も言い返さなかった。暴言には冗談で言い返しもできるが、会話をする気のない奴には何も言うことはない。それにそういう物言いをする奴には何を言ったところで言い訳にしかとられない。マシューもそのことはよくわかっているはずだった。
小さくため息をついて、マシューは地蔵のようにじっと座るクマヨシの肩に手を置いた。クマヨシはその手を指で軽くたたき、返事をした。大丈夫、いつものことだから。クマヨシの大きく太い指が、そう言っているような気がした。
そんな二人にかけよってくる者がいた。その足音に振り向いてみると、さっき牧童たちが立っていたあたりにハンチング帽の若者、アランが立っていた。アランの目は、じっとマシューの瞳を見つめていた。
「さっきはすみませんでした。うちの者の理解がないばっかりに……」
「アラン!」
父親のパトリックに呼ばれたアランは、小さく頭を下げると彼らのもとに向かった。マシューは昨夜アランと会った時に覚えた予感が、合っていたらしいと察した。どうやら息子だけは唯一、話が通じるようだ。
その時、小屋にハンスじいさんが数人の男とともに姿をあらわした。どうやら外はすでに暗くなっているようだ。ハンスじいさんは男たちに座るようにうながすと、マシューのもとに歩いてきた。そんなハンスじいさんに、マシューは先に声をかけた。
「じいさん、ご苦労さん。どこに行ってた?」
「村の反対側から協力者を呼んできてたんだ。昨日のあんたたちと同じようにね」
「なるほどな」
「今日はわしや彼らと一緒の組で夜回りをしてもらおうと考えてるんだが、他に用でもあるか?」
「いや、別に。今日わかったことは、夜回りの間に話そう」
「よし」
ハンスじいさんは答えると、昨日のように夜回りに集まった男たちを呼んだ。男たちの数は、ハンスじいさんやパトリック以外にも誰かが呼んできたのだろう、最終的に昨日より倍以上の人数になっていた。
マシューたちの一団は、村の南東を受け持つことになった。今日ハンスじいさんが連れてきた男たちがいつも汗を流している畑が、このあたりにあった。おそらくハンス爺さんは彼らの土地勘をあてにしたのだろう。
男たちはいずれもマシューと同い年くらい。いかにも働き盛りで、家族もそれなりにいそうな面々であった。
マシューはクマヨシにハンスじいさん、そして男たち三人を連れて、村の南東へと向かった。その途中で村の中心を通ったが、いつもは活気のある大通りも人影はまばらだった。そして女の姿はひとりもなかった。
その間に、マシューはハンスじいさんに、昼間アルベールと話したことと自身の考察を語った。
「……ただ俺は、先月の事件に便乗した、人間の仕業じゃないかと思うんだ。断言はできないが」
「ならどうする?物乞いとか旅人とか、怪しい奴を片っ端から捕まえて話を聞いてみるか?」
「いや、できればもっと手掛かりがほしいな……。最後の犠牲者の家族に、話は聞けないか?」
「フィリップか。できればあまりしてほしくはないのが、正直なところだが……」
「俺だって気は進まんが、ほかに手掛かりがない以上どうしようもないだろう」
「うむ……仕方ない、明日の朝かけあってみよう」
「本当にすまないな、じいさん」
「なに、考えてみればフィリップもその家族もみんな、きっと事件の解決を願っている。誠意をもって頼めば協力だってしてくれるだろう。だが……」
「明々後日までに解決しなきゃいけないんだったな。なんとかして糸口をつかまないと……」
とその時、マシューたちの前を歩いていた男たちが、
「わしらも狩人に……」
などと話しているのが聞こえた。
ふと気になったマシューはハンスじいさんに断りを入れるとその場から離れ、前の三人に話しかけた。
「なあ、いったい何を話して……」
「うるせえっ!お前ら狩人にゃ関係ねえ!」
三人のうちのひとり、割れあごの男に強く言い返され、マシューは閉口した。だがすぐあとに、立派なあごひげの男が間に入り、話しかけてきた。
「まあ、いいじゃねえか。すまなかったな、猟師さん」
あごひげはそう言うと、ことの顛末を話し始めた。
「猟師さんも、明々後日までに事件が解決しなけりゃ、この村の自治権がノイバーブルクの連中のものになっちまうかもしれない、ってのは聞いてるだろ?もしこの村があいつらのものになったら、わしら百姓は、奴らに毎年税を納めなきゃならんようになるんだ」
「税?」
「ああ。どれだけ納めなきゃならんかはわからんが、自治権をとられた別の村じゃ、その年の収穫の七割をもっていかれ、毎年厳しい生活をしていると聞いておる。あんたら猟師は今の住処を離れることもできようが、わしらはこの土地にすがって生きるよりほかはない。だから村の自治権がなくなるのは、わしら百姓にとっちゃ死活問題なんだ」
「だからさっき、『畑を捨てて、わしらも狩人になろうかの』なんて言うておったんじゃ」
もう一人の老け顔の男が、最後に付け足すように言った。
百姓のなかには、農閑期にはマシューたちと同じく狩猟で日々の暮らしを立てている者もいる。しかしそのような者の中には重税や不作に耐えかねて畑を捨て、専業の猟師となるものもいた。特に二十年前の飢饉のときにはそういった者が多く現われ、山に多数のにわか猟師が繰り出した。
しかし素人考えで猟師になった者が食べていけるはずもなく、ついに日々の暮らしが立ち行かなくなった者は山賊に身を落とし、旅人や猟師を襲うこともあった。マシューも、そういった者たちに襲われ、仕方なく返り討ちにしたことは二度や三度ではなかった。
もし自治権がなくなれば、そういった者がまた大量に現れるかもしれない。マシューは考えた瞬間、ふと息が詰まった。事件に挑む自分の肩には、被害者やその家族の感情だけじゃなく、何十何百の百姓たちの生活がかかっているのかもしれない。
ハンスじいさんのもとに戻った時、マシューの体には余計な力が入ってこわばっていた。そんなマシューに、ハンスじいさんは励ますように声をかける。
「今の話は後ろでわしも聞いた。わしも百姓だ、この件は見過ごしにはできん。心配するな」
さらにクマヨシも、
「僕だってできる限りのことはするよ。だからもっと頼ってほしいな」
と言ってくれた。
戦っているのは俺だけじゃない。それだけがマシューの希望だった。
マシューは重圧を闘志に変え、夜道を一歩一歩踏みしめていった。
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