三日目
その1
コーヒーの優しい香りに、マシューの意識はふたたびはっきりとしてきた。
その香りのおかげで、自分のもとにゆっくり歩いてくる老婦人の姿にようやく気づくことができた。
「おかわりはいかがですか、マシューさん?」
「あっ、お気遣いありがとうございます」
目の前のテーブルに置かれた小さなコーヒーカップを、マシューは老婦人のもとに寄せた。
昨夜の夜回りを終えた朝、マシューたちはハンスじいさんの家にいた。そこでハンスじいさんの妻から朝食をごちそうになっていたのである。
朝食は黒パンが二個ずつに生みたての卵で作ったスクランブルエッグ、そして淹れたてのコーヒーという、いわゆる『開拓者風』と呼ばれるメニューであった。マシューもクマヨシも昨日の昼から鹿肉のジャーキー以外まともなものを口にしていなかったために、これらのシンプルだが温かいごちそうを瞬く間に腹の中におさめてしまった。
そんなクマヨシは今、マシューの目の前でテーブルに突っ伏して眠っている。
一方のハンスじいさんは、朝食をとるとすぐに出かけていった。理由はいうまでもなく、事件の犠牲者の家族に、マシューたちと会ってもらえるよう話をつけるためであった。結果がどうであれ、ハンスじいさんが戻るまではこの家で待たなければならなかった。その間の話し相手はハンスじいさんの妻だけであった。
「マシューさん、奥さまはお元気で?」
「いや、嫁にはかなり昔に先立たれましてね」
「あら、そうでしたか……ごめんなさいね」
「いえいえ……ハンスじいさんたちからも新しく嫁を貰ったらどうかなんて言われてきたりもしたんですが、もう歳も歳ですから」
「そんな、まだお若いのに……見た目と違って純情なのね、あなた」
「いや、ははっ……」
マシューはごまかすように小さく微笑みながらうつむいた。顔をうつむけたそのままに口元にカップを運ぶと、コーヒーを小さく口にした。
ハンスじいさんの妻とは時々畑仕事をしているところに顔を合わせて挨拶をするだけで、あまり面識はなかった。だがこうして話をしてみると、どんなことでもさらりと話してしまえるような、不思議な包容力があった。
「それにしても、連日ご苦労様ね。事件が早く解決してくれるといいけど」
「大変なのは、自分だけじゃありませんから。ハンスじいさんだってあの年で毎晩みんなを束ねていますし」
「ええ、あの人は昔から根性だけはありましたから……」
あのじいさんがそうなのは、きっとあなたみたいな人がずっとそばにいてくれたからですよ。マシューは嬉しそうに笑う彼女の姿を見ながら、心の中でそうつぶやいた。
昨夜の夜回りは、集まったほとんどの者の予想を裏切り、何事もなく終わった。ここ一週間で五人の娘たちを辱めた怪物は、これでまる二日、姿を見せなかったことになる。だからといって、誰も安心などしていなかった。この静寂は次なる惨劇の前触れなのだと、みな信じて疑わなかった。
それではマシューたちは昨夜何をしていたのかというと、ひたすらに犯人について互いの意見や考察を出し合っていたのである。
「確実な証言や証拠を探すには、ネーレ・アリスマまで行かなければならんかもな」
「ひとりじゃなくて何人かでよってたかって嬲りものにしたかもしれん。どうじゃろうか」
「もし追放されたオークの仕業だったら、僕が絶対に許さないよ」
ただそうした場も、結局は決定的な推理に結びつかず、いたずらに疑いの目を向けねばならない者の数を増やしただけだった。そのうえハンスじいさんが、
「……こうなったら、シャーマンでも連れてきて犠牲になった娘の魂でも呼んでもらうか」
などと言い出した時は、さすがのマシューも歩きながら酒の瓶をあおるしかなかった。膨らんでいく可能性や行動の選択肢は、次第に大きくなっていく不安や焦燥感を表しているかのようだった。
その一方でマシューたちと行動をともにしていた他の三人は、マシューたちが殺すだの犯すだの物騒なことしか言わないので嫌気がさしてきたのか、いつのまにか距離をとり、ずっと前を歩いていた。
「待たせたな、今戻ったぞ」
扉の向こうに現れたハンスじいさんは額に汗をにじませていた。マシューはクマヨシの座る椅子の脚を蹴り、眠りから覚まさせた。クマヨシは驚いたように起き上がると、手のひらで顔全体をこすった。
ハンスじいさんは水桶からコップ一杯の水をくんで飲み干すと、すぐマシューに向かって言った。
「少し戸惑っていたが、了承してくれたよ。事件解決のためになるなら、と言っていた」
「ありがたい。ご苦労だったな、じいさん」
「いやいや。それじゃ、あとは頼んだぞ。フィリップの家への地図を渡そう」
「じいさんは来ないのか?」
「ああ。ノイバーブルクにいるわしのせがれから、早馬で伝言が来てるらしくてな。すぐ村の中心に行かなきゃならん」
「今回の一件でか」
「わからんが多分そうだろう。あんたらはすぐ行くかね?」
「俺たちもできれば早めに話を聞きたい。地図をもらったらすぐ出るつもりだ」
「よし、わかった。ちょっと待っておれ」
ハンスじいさんは書斎に向かうと、棚からわら半紙を一枚とりだした。そして羽ペンにインクをつけ、大まかな地図を書きはじめた。クマヨシと一緒にその様子を覗き込むと、ハンスじいさんはふたりに早口気味に言った。
「ここから麦畑にそって大きな道を進んでいく。そして十字路につきあたったらネーレ・アリスマの方角に進む。迷ったら近くの人に聞くといい。それでな……」
ハンスじいさんは地図を書きながら説明を続け、最後に、ここがフィリップの家だ、と言うと地図に小さな二重丸を書いて、マシューに託すように渡した。
「じゃあ、あとは頼んだぞ。あと……焦る気持ちはわかるが、フィリップたちから事件について無理に聞き出すのはやめてほしい。ただでさえみんな辛い思いをしているのに、さらに追いこむようなことがあっちゃいけない」
「そのことは、わかってるつもりだ」
マシューの返事に、ハンスじいさんは大きくうなずいた。ハンスじいさんもそれにこたえるように、マシューの肩をたたく。
「よし、じゃあ、あとは頼んだぞ」
「ああ。じいさんのほうこそ、うまくやれよ」
それだけ言うと、この後ハンスじいさんも飲むであろうコーヒーの優しい香りに心中で別れを告げ、クマヨシとともに家を後にした。
マシューとクマヨシは田舎道を足早に進んでいった。この事件に関わる前からずっと歩き詰めのふたりであったが、このくらいでへこたれていては猟師はつとまらない。大物のシカを弓矢で仕留めるときなどは、足元の悪い山の中を数日間ひたすら追いかけ続けなければならないことだってあるのだ。
急な山道を歩くことはないと知っているのもあってか、クマヨシもどこか気楽なように見える。マシューはハンスじいさんの農地を出たところで、クマヨシに話しかける。
「これから話を聞きに行くわけだが、行きがけで見かける人に、一応事件の起きた日に何か見なかったかを聞きこみしていこう。情報は少しでも多いほうがいい」
「うん。誰かいないかな……」
クマヨシは返事をすると、あたりを見回した。続いてマシューもあたりに誰かいないか探したが、
「いないね……」
「そんなことはない。ここは麦畑のど真ん中なんだぞ。誰もいなけりゃ、みんな怠け者ってことになっちまうじゃねえか」
「みんな警戒してるんじゃない?」
「でも午前中くらい作業しててもおかしくないだろう」
と、そんなことを話しながら歩いていると……
「あっ、あそこにいた」
クマヨシが指さす先では、あぜ道にからほど近いところで、紺色のスカーフを被った女性が畑からひょっこりと顔を出した。おそらく雑草取りでもしていたのだろう。道から声をかけても十分声は届きそうだ。
「よし、行ってこい」
「はいっ!」
クマヨシはあいさつをしながら、女性のそばまで駆け寄っていった。
「すみません、ちょっと聞きたいことがあるんですけど……」
しかしそんなクマヨシの姿に気づいた女性は、スカーフで顔を隠しながら畑の真ん中へ足早に去り、ふたたび麦の穂の間に隠れてしまった。クマヨシは、そんな女性の後姿を見送ることしかできなかった。
「あれ……」
呆然と立ち尽くしていたクマヨシにマシューは追いつくと、肩をたたいて先に進むように促した。
「まあ、こんな時節柄だ。みんな警戒しているんだろう。話を聞いてくれる人は、ほかにもいるさ」
「うん……」
そう答えたクマヨシは、ほんのちょっぴり残念そうに見えた。
しかし、二度目のチャンスが訪れるのにはさほど時間はかからなかった。しばらく歩いたところで、ふたたび畑の中に農作業にいそしむ女性の姿が見えた。
「今度は俺が行こう」
そうクマヨシに言い残すと、マシューは声をかける。
「失礼、奥さん。例の事件を調べている者なんですが、少し聞きたいことが……」
だが、女性はマシューに気づくと、クマヨシのときと同じようにそそくさと畑の中に姿を隠した。
これは、まいった……。
怪物そのものの見た目であるクマヨシどころか、自分までも百姓たちにここまで拒絶されてしまうとは、マシューも思わなかった。それも仕方がないだろう。百姓たちの心情を思えば、昨日の夕方のように冷たい視線を向けられ、拒絶されるほうが普通なのだ。
フィリップの家へと足を進めながらそんなことを考えていると、今度は畑の中に母子の姿が見えた。母親らしき女性と少女、そして十歳に満たないかという男の子の三人。おそらく近くに一家の主もいるだろう。三人で何か話をしながら、楽しそうに畑仕事にいそしんでいる。もしかしたら、話を聞いてくれるかもしれない。
「次は僕の番だね、父さん」
クマヨシも同じことを思ったのだろう、そう言い残すと道の先へとかけていった。それでも一応念のために、マシューもその後に続いた。
「すみません!少しいいですか……」
そうクマヨシが明るい声をかけた、その瞬間。
ふり向いた三人の顔から、一瞬にして笑顔が消えた。
「行くよ!」
母親の一言で、三人はこれまでの百姓と同じように畑の中ほどに消えていってしまった。だがクマヨシは、
「ちょっと待ってください!少しだけでいいんです、話を聞いてくれませんか!」
きっと今まで拒絶されっぱなしの中、ようやく話を聞いてくれそうな人を見つけて諦めきれなかったのだろう、あぜ道を降りて親子の後を追いかけ始めた。
突然のクマヨシの行動に、マシューは焦りを隠せなかった。お前のほうこそ待て!その思いが声に出るよりも先に、クマヨシの後を追って麦畑の中に飛びこんだ。
「僕たちあの事件を調べているんです!あの日、何か見ませんでしたか?」
大きな声で叫ぶクマヨシの声と揺れる穂の動きを頼りに麦の穂の間を進んでいくと、その奥に緑色の身体を白い服で包んだクマヨシの姿が見えてきた。追いついてその襟首をつかんで引き戻そう。そう考えた、その時だった。
「少し時間を……おおあっ!」
言葉をぶった切るような叫びとともに、クマヨシは突然しりもちをついた。そして地面に座りこんだそのままの態勢で、麦の穂を尻で倒しながらこちらに戻るように進んできた。その姿をはっきりとらえたその時、クマヨシの眼前で包丁の刃がその巨体を刺そうとしているかのようにきらめいたのが見えた。
樫の木の棒の先に出刃包丁を括り付けた、即席の槍だった。
それを見たマシューは背中の斧に一瞬手が伸びたが、途中で止まった。相手はおそらく、姿の見えなかった一家の主だろう。もしこちらも武器を見せたら、警戒している相手を余計に刺激するかもしれない。考えたその時、槍の伸びた麦の穂の間から、赤いチェックのシャツにオーバーオールを着た中年の男が姿を現した。
「俺の家族に手ェ出しやがって、ぶっ殺してやる!緑のバケモンがっ!」
「待てっ!」
マシューが間に入ろうとする間もなく、刃は素早くクマヨシへと向かった。
だが幸いにも刃はクマヨシの右脇腹をかすり、土に突き刺さった。おそらく男も興奮のあまり狙いが定まらなかったのだろう。すかさずクマヨシは槍の柄を右腕ではさんでつかみ、動きを封じた。続いてクマヨシは尻をついた姿から片膝を立て、どんな動きでもできるように態勢を立て直した。
「クマヨシ、傷つけるな!」
マシューは叫ぶ。ここでこの男に何かあればまたどんな悪いうわさが広まるかわからない。そうすれば事件の調査にも支障が出る。
クマヨシは「はい!」と大声で答えるとすっと立ち上がり、槍を手前に一気に引いた。男は槍を手放さず、その体はクマヨシのほうに傾いた。男が槍を手放してしまうより前に、今度は突きをするように奥へと押した。男はバランスを崩し、土の上に尻もちをつくだけでは収まらず、麦の穂をなぎ倒しながら後ろへと転がっていった。
「逃げるぞ!」
男が転んだ勢いで槍を手放したのを確認すると、マシューはクマヨシとともに麦をかきわけながらフィリップの家の方角に一心に走った。あの男も服は土だらけになったが、きれいに後ろに転がったからおそらくケガしたり、腰を痛めたりはしていないだろう。そんなことを考えながら進んでいると、
「薄汚い腐ったバケモンどもめ!覚えておけよ、いつかこの村からたたき出してやるからな!」
はるか後ろから、ひどく恨みのこもった悪態が飛んできた。だがふたりはそんなものは気にも留めずに麦畑を出ると、彼らから目の届かないであろうところまで走り続けた。
ひとしきり走ったところで、ふたりは大きな木を見つけ、そこの陰で休むことにした。木のそばに置かれた大きな石に腰掛けると、麻布で汗をぬぐいながら息をととのえる。木の葉を揺らす風がほんの少しだけ、心地よかった。
「……こんなことになるなんて」
「まったく、こんなことじゃおちおち人に道も尋ねられんな」
「人にいろいろ聞くのは、もうやめたほうがよさそうだね」
「ああ、だが……」
このままじゃまともに情報も得られないどころか、俺たちを見ただけで襲ってくる百姓も出てくるかもしれない。
『この村からたたき出してやるからな』
百姓たちの全員がそう思っているわけではないとしても、そう考えている奴は少なくないような気がしてきた。
例の事件が起きてから、村の人間のつながりは以前より強くなっている。それは確かだ。現に俺もアルベールの夫婦と久しぶりに会い、ハンスじいさんの妻とも初めてまともに話をした。昨夜の百姓たちのように、初めて話をした連中もいる。……だが村全体のそんな動きが、どこか悪い方向に動いているような気がするのは単なる思い過ごしだろうか。
不安な思いを抑えるように、マシューが酒瓶に口をつけると……。
「おーい!マシューさん、クマヨシさん!」
これから向かおうとしていた道の先から、聞き覚えのある声がした。呼び声に振り向くと、紺色のシャツにベストを着て、ライフルを担いだ青年がこっちに向かって駆けてきていた。
「あっ、アラン君だ!おーい!」
クマヨシはゆっくりと立ち上がると、アランに大きく手を振る。
そんな姿を見たマシューは、どこか心が温かくなるような思いがした。マシューが鹿の肉を送ったのは、覚えている限りでは十九年前。マシューがクマヨシを拾ったのが同じく十八年前。本来ならば年が近いもの同士、幼馴染の友人としてずっと一緒に過ごしていたかもしれない。
アランはふたりのもとにたどりつくと担いでいた銃をおろし、頭をさげた。
「どうも、おつかれさまです!」
「お前さんこそ、こんな重いものを担いでご苦労さん、どうした?」
「朝の仕事が一段落ついたので、親父から見回りにでも行ってこいといわれまして。お二人は?」
「実は今からな……」
マシューはこの後の予定をアランに簡潔に話した。アランは話を聞いて力強く頷くと、逆に聞き返してきた。
「……自分もついていっていいですか?事件解決の手掛かりを、自分も聞きたいんです。フィリップさんの家も知ってるんで、案内しますよ」
「ついてくる分には構わんが、お前さんが話を聞けるかどうかはフィリップ次第だ。俺とクマヨシだけが話を聞きに行くと、そう約束してあるからな」
「はい。もしダメだったら、その時はあきらめます」
アランは真剣なまなざしで、ふたりの顔を見て答えた。
マシューはうなずいてアランに答えると、ひざがしらを叩いて立ち上がった。
「よし……ふたりとも、そろそろ行くか」
「はい!」
ゆっくりと歩みを進めるマシューの前で、クマヨシとアランのふたりは話に興じていた。
アランはクマヨシほどに落ち着いた性格ではなかったが、礼儀はしっかりとわきまえる好青年だったとわかった。出会った初日に落ち着いて見えたのは、おそらく初対面だったからだろう。見た目だけなら若い時のパトリックとそっくりだが、性格の根本はどうやら違うらしい。
思えば最後にパトリックの息子を見たのは戦に遊撃兵として行く直前だったから、このふたりが三、四歳のときか。その間ミカとクマヨシは、ずっと教会にあずけたっきりだったな。そして自分が戦から戻った時には、パトリックはすでに牧場主になっていた。もしそうでなければ、ふたりが一緒に狩りに出る姿も見られたのかもしれない。
「実は僕たちさ、事件の日に何があったか聞き込みをしてるんだけどさ、僕はこんな姿だから警戒されちゃって……」
「うーん、そっか……オークも大変なんだな……」
「まあね、でももう慣れてるから」
ここまでクマヨシが言ったところで、アランは麦畑のなかを指さした。どうやら麦畑の中に、早速聞き込み対象の女性を見つけたようだ。
「じゃあ今度は、俺が行ってきます!」
アランはそれだけ言い残すと、颯爽と麦畑の中に飛びこんでいった。一方クマヨシはゆっくりと、マシューのほうへと近づいてきた。どうやらアランに迷惑をかけぬよう、あまり姿を見せないようにしているようだ。
マシューとクマヨシは、あぜ道からアランの様子を見守っていた。アランは女性に近づくと身振りを交えながらしばらくやりとりを続けた。どうやら見た限りでは、相手の女性にはさほど抵抗はないらしい。まるで世間話でもしているかのようだ。
「うまくやってるみたいだね」
「ああ。パトリックの息子だから、たぶんそれなりに顔もきくんだろう」
このことについては、実はマシューも内心期待していた。誰もが警戒の目を光らせているこの村全体の空気の中では、普段まったく見慣れない狩人や人間のように生活している怪物よりも、時々見かける牧童の少年を信じるのは当たり前の話だ。
それにパトリックなら、できるだけ百姓たちとの交流もしていることだろう。だとすれば百姓たちはアランのことを「パトリックさんのところの息子」と認識し、親しみを持っているのではないか。そうマシューは考えていた。そしてその予想は、多かれ少なかれ間違ってはいないようだ。
考えているうちに、アランは女性に頭を下げ、女性の笑顔に見送られながらこちらに戻ってきていた。おそらく、「お気をつけて」みたいなやりとりでもしていたのだろう。
こんな扱いなど、自分たち親子なら絶対に受けられない。そのことはよくわかっているつもりだったが、改めてその事実を突きつけられると、どこか理不尽なようにも思えてくる。
そんなアランを、マシューはどこか複雑な思いを抱きながら出迎えた。
「あの方、特に何も見てはいないそうです」
「ありがとう。この後の聞きこみも頼みたいんだが、構わないか?」
「はい!任せてください!」
こうして一行がふたたび歩き出し、野菜畑にさしかかったところで、クマヨシはアランにずっと気になっていただろうことを尋ねた。
「そういえば、アラン君はお父さんや他の人と違って僕たちを避けたりしないよね。それには何か理由が……?」
「うちのおふくろが、俺が小さいころからよく言ってたんだ。森の生きものはたとえ怪物であろうと、何かのために生きてるんだから、慈悲を忘れちゃダメだって。でもうちは親父がああだから、喧嘩になることもよくあったんだけどね」
アランからそう聞いて、ようやくマシューは納得した。
「いいおふくろさんじゃないか。しっかり孝行するんだぞ」
「はい!」
アランはマシューに大きくうなずいた。やはり男の子にとっては、母親の影響は見過ごせないものなのだろうか。ならクマヨシには……生みの母親の顔を知らず、育ての母親もいないあの男には、同じほど大きな影響を与えるような存在がいただろうか。
ふとそんなことを考えていると、クマヨシが大きな声をあげた。野菜畑の中を見てみると、数人の女性が剪定なのか収穫なのか、なにやら作業をしている。
「今度は僕が行ってくるよ!」
「待った、ここはアランに任せて……」
「いや、アラン君がついてくれている今なら、なんだか自分でもいけるような気がして。それじゃ!」
なぜか自信満々のクマヨシは、あぜ道から畑の中に飛びこんでいった。後ろにアランの姿があれば、おそらく警戒されないと思ったのだろう。普段は落ち着いた性格だが、時々こんな感じになるからちょっぴり困り者だ。
「まったくあいつは……」
「オークであることを抜きにしても、けっこう変わり者ですよね」
「まあな……」
アランのひとことに思わず苦笑したところで、今度はアランのほうから、気になっていただろうことを尋ねてきた。
「ところでマシューさんとクマヨシさんは、どんな感じで『親子』になったんですか?」
「ああ、あれはな……あいつが赤ん坊のころ、森で捨てられていたのを俺が拾ってきたんだ」
「そうだったんですか……もし成長して悪いオークになったら、とか思わなかったんですか?」
「なぜか、そうは思わなかったんだよな。でも考えてみれば、あいつは本当に幸せな男だよ。あいつは小さいころから、化け物を化け物と思わないような、いろいろな人の優しさを受けて育ってきた。そのおかげで、ただのオークと違ってあんな優しい男に育ってくれたんじゃないかって、俺は思うんだ」
「ええ。でも一番大きかったのは、捨てられていたところを拾ったマシューさんの存在だと、俺は思いますよ」
「いやあれは、ただの気まぐれさ。もしかしたらあのときの俺は、徳を積んで少しでもマシな人間になりたかったのかもしれんな」
ここまで話したところで、畑の中から悲鳴が聞こえた。何事か、と思って目をやると、話を聞きに行った女たちはみな一目散に逃げてしまったようで、畑の中ではクマヨシがひとりこちらをみて肩をすくめ、なんとなく納得いかないように首をかしげているだけだった。
ほら、いわんこっちゃない。マシューは笑いながらクマヨシに手招きした。
道の両側の畑には色とりどりの夏野菜が実り、まだ青い苗や麦の穂はたっぷりと陽の光を浴びてこれから来る実りの季節に備えていた。
しかしその一方で、マシューたちの道中の調査は、一行を汗まみれにしただけでなんの実りも見せることはなかった。
アランは出会う者に片っ端から事件当日の夜の目撃証言を尋ねて回ったものの、フィリップの家は草原に囲まれ他の百姓たちの家と離れていた上、ほとんどの百姓は翌朝の仕事に備えてそれぞれの家で早く床についていたこともあり、有用な証言は全くと言っていいほど得られなかったのである。
もう何度目かわからないほどの「何も見なかったそうです」の報告をした後、アランは小さく頭を下げて言った。
「お役に立てないで、本当にすみません……」
「仕方ない、何も見てないのに適当なこと言ってこっちを困らせる、狼少年みたいな奴が現われるよりよっぽどいいさ」
「はい、でもお詫びと言ってはなんですが、その……」
そう言うとアランは、上着のポケットから何かをとりだした。大きな赤い実……トマトだった。
「さっきの畑で、百姓のおっちゃんが持ってけってくれたんです。のども渇いてるでしょう。三つあるのでひとつずつどうぞ」
「うわぁ……どうもありがとう!」
「……これはかたじけない」
クマヨシに続いて、マシューはトマトの実を受け取って、そのまま口に運んだ。アランの考えた通り、マシューもクマヨシも歩き通しでのどがカラカラであった。本当に百姓のおっちゃんからもらったものなのかどうかは、今回は聞かないでおこう。
トマトにかぶりついた瞬間、口の中にみずみずしさが広がった。マシューの記憶では、トマトは苦みが強くここまでおいしいものではなかった。なのにここまで美味しく感じるとは。苦みの少ない種が見つかったのか、それとものどが渇きすぎているからなのか。
トマトで渇きをいやしながら歩いていると、目の前に小川と、そこにかかった小さな橋が見えてきた。この小川の水が、これまで通ってきた畑に使われているのだろう。
そして小川の向こうからは草原が広がり、左手に小さく、ぽつんと木でできた小屋が見えた。玄関の左隣には物置と並ぶように大きな鳥小屋がある。そこを除けば、まるで自分たちが住んでる小屋のようだと、マシューは思った。
「あそこです。あそこがフィリップさんのおうちですよ」
そう聞いた瞬間、マシューの気持ちがまるで紐でもしめたかのようにキュッと引き締まった。ついに、犠牲者の家族と一対一で話をするのだ。
これまでもマシューは、狩りの途中で命を落とした者の家族に挨拶に行ったことはあるが、それに近いような思いを抱いていた。
狩りで命を落とした者については、仲間の狩人たちも家族も『山に生きる者の宿命だった』の言葉をまるで合言葉のように互いにかけ、納得してきた。だが今回は、そのような訳にはいかない。
うまくいくかはわからないが、やれるだけやるだけだ。
トマトの汁のついた手を布でぬぐうと、マシューはクマヨシとアランに声をかけた。
「お前たちに先に言っておこう。話をしている最中、ふたりともフィリップに聞きたいことは出てくるだろうが、相手の話を途中で遮るようなことはするなよ。まず俺が質問をするから、お前たちはその後だ。あと、言葉にも十分気をつけろ。相手は大切な家族を突然奪われた人間なんだ。もし何かあったら、話の途中でも帰らなきゃならなくなるかもしれんからな」
若い二人は真剣な顔つきで、大きくうなずいた。
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