その2
銃を手に迎えに来たハンス爺さんとともに、マシューとクマヨシは小屋を後にした。
三人が向かうのは、丘を越えた先にあるハンス爺さんの水車小屋だ。そこに夜警のために集まった村の男たちがいるという。その道すがら、マシューはハンス爺さんから、これまでの事件について詳しい話を聞いた。
これから記すのは、ハンス爺さんからの話やうわさに聞いた情報をもとにした、マシューの知りうる限りの事件のまとめである。
○第一の事件
先月の半ばに、アーバンカルトの西の村、ネーレ・アリスマ近郊で発生。
日中、麦畑で作業をしていた少女が突然行方不明になり、翌日森の中で遺体となって見つかる。
傷の状態から、喉笛を何者かに食いちぎられて即死したと考えられている。さらに腹部が食い荒らされており、肉食動物に襲われたことはほぼ確実。
それから二日後、事件現場に近い山奥で大きなオスの狼が仕留められた。仕留めた猟師によればこの狼は群れからはぐれた一匹狼で、動きなどに病で狂っていた様子が見られたという。
胃袋の中身を調べたところ、事件を引き起こしたのがこの狼だったことが確定。その毛皮は半月の間、村に見せしめのように貼りだされた。
ちなみにマシューもその時依頼を受けて山狩りに参加しているが、狼の仕留められた山とは別の山を担当していたため、仕留めた現場には立ち会えなかった。
○第二の事件
一週間と少し前に、ネーレ・アリスマ東部の牧場で発生。
夕方ごろ、牛の放牧をしていた少女が森にほど近い草原で倒れているのが発見される。
こちらも喉笛を切り裂かれ、すでに絶命していた。少女の持っていた武器になりそうなものは牛追い用の鞭だけで、抵抗らしい抵抗もできずに殺害されたと考えられる。
○第三の事件
第二の事件の翌々日、その牧場にほど近い川原で発生。
十代前半の少女が川原で遺体となって発見される。首筋に先の事件と同じような傷、凌辱の形跡あり。
○第四の事件
第三の事件の翌日に発生。
第二の事件の牧場から少し離れたテンサイ畑で、農作業をしていた三十代の女が遺体となって発見される。
遺体の状態に関して、ハンスじいさんは一言も話さなかった。
○第五の事件
昨夜、アーバンカルト西部に住む農夫、フィリップの長女マノンが行方不明になる。フィリップの家はこれまでの事件の起きた地域とは、山をはさんで反対側に位置していた。
連日続く事件で近くの村人はみな警戒していたため、フィリップの一家もその日の夜は家にいたものの、飼っていたニワトリが突然騒ぎ出したことから、フィリップが様子を見に行った。しかし、その隙をついて何者かが家に侵入し、ひとり用を足しに行っていたマノンを引きずって闇に消えたという。
マノンは翌朝、パトリックたち捜索隊の手によって、これまでの犠牲者と同じような姿で発見された。
マノンが攫われる様子を一瞬だけ目撃した彼女の妹は、『狼のような長い毛が生えていた』と震えながら語ったという。
なおマシューたちの家や、狩場になっている山は村の北部にあるため、今までの事件の現場とはそれなりに距離がある。時間にすると、往復して半日ほどだ。ゆえに、クマヨシがマシューの目を盗んでこれらの事件を起こすのは不可能に近い。
「マシュー、どう思うね?わしには犯人が、女たちをただのエサと見ているわけではないように思えるが……」
ひと通りの話を終えて、尋ねてきたハンスじいさんにマシューは、
「狼なら小さい時から人間に育てられ、自分のことを人間と思いこんでいるやつなら人間に対して発情することがあるらしい。だが普通の野生動物じゃまずありえん。なら化け物か……もしかしたら人間か。だとしたらじいさんよ、これは俺の専門外かもしれないぜ」
そう答えたものの、マシューもひとりの娘をもつ父親である。若い女ばかりが襲われる、この猟奇的な事件を他人事のようには思えなかった。マシューはフィリップという男とは会ったことさえなかったが、その男の心境を察するのはさほど難しくなかった。
犠牲になった女たちのためだけじゃない。その家族のためにも、犯人は必ず仕留めてやる。マシューはその思いを胸に、集合場所へと足を進めていった。
麦畑の暗闇の中をしばらく歩き続けたマシューたちは、畑のはずれにある小屋にたどり着いた。
そこがハンスじいさんの畑の水車小屋だった。秋の収穫の時期には昼夜問わず石臼や杵が騒々しく音を立てているのだが、今はまるで不気味なほど静まりかえっていた。
マシューとクマヨシが小屋に足を踏み入れると同時に、ふたりにいくつもの鋭い視線が突き刺さった。今ここには、化け物を殺すために集まった男たちが大勢いるのだ。山で暮らす猟師とオークという、ふたつの異質な存在が突然現れて、警戒されないわけがない。
その異様なまでの殺気に、マシューの緊張も一気に高まった。幸い、すぐ後にハンスじいさんが、
「猟師のマシューとクマヨシだ。彼らも今回の化け物退治に参加してくれる。みんなうまくやっておくれ」
と言ってくれたおかげでこの場の全員の緊張は落ち着いたが、そうでなければふとしたはずみで殺し合いが始まっていたかもしれない。
マシューはおおらかなハンスじいさんの人となりに感謝しながら、大きく安堵の息をついた。
改めてマシューは、小屋に集まった男たちに目を向けた。人数は六十人ほどと多めではあるものの、その中でもやる気があって戦えそうな者は半分くらいだろう。残りは夜通しのお祭り気分で参加しているような若造と、家族や隣人の目を気にして嫌々ながら参加したような連中だった。そういうやつらは、他の連中と比べて明らかに危機感や闘志が足りていないのが目で見ても分かる。
その時。
「……来やがったか」
マシューの耳にパトリックの声が飛びこんできた。パトリックは切り傷のついた銃を杖のようにそばに置き、壁にもたれかかっていた。マシューをじっと睨むその眼は、かつて猟師だったことを思い起こさせるような鋭さだった。
だがマシューはいささかも怖気づくことなく、むしろ飄々として答える。
「あいにく、頼まれた仕事をばっくれる趣味はないからな」
その時マシューはパトリックの隣に、背の高い若い男がひとり立っているのに気がついた。彼の見た目は十代そこそこで、パトリックと同じ銃を手にしていた。顔つきもパトリックにどこか似ている。若い時のパトリックから嫌味ったらしさを抜いたらこうなるんじゃないだろうか。
「お前のせがれか?」
「ああ、俺の正真正銘の息子だ」
マシューは思い出した。一緒に仕事をしていた若いころ、すでにパトリックは息子を授かっていた。玉のような赤ん坊を猟師仲間に見せびらかしていたのも、今となっては昔の話だ。
「思い出したぞ。その子が生まれた時、お祝いに鹿の肉を送ってやったな。名前はなんといったかな……ウィレム……?」
「アランだ」
「おっと、全然違ったな。すまなかったアラン、父さんの友達のマシューだ。こいつはクマヨシ。似てないが俺の息子だ」
「はじめまして、クマヨシです。よろしくお願いします」
「アランです。こちらこそ、よろしく」
アランはカーキ色のハンチング帽を脱ぐと、マシューたちに笑顔を向けて挨拶をした。父親と違って、こっちはクマヨシに偏見を持ってないらしい。マシューが胸を張って『自分の息子だ』と言ったのにも、特に疑問に思うような素振りを見せなかった。それが素の性格なのか、それとも嫌悪感を押し殺しているのかは分からなかった。たとえ後者だとしても、少なくとも露骨に嫌な顔を見せる親父よりはだいぶマシだ。マシューは心からそう思った。
その時、ハンスじいさんがその場の全員に声をかけた。
「よし、みんな集まったな。今夜の夜回りの説明をするぞ」
今夜ここに集まった男たちは、十人ほどでひとつのチームを組み、決められた順路で村とその周辺をまわることになっていた。そして一時間ほどの間隔で休憩を回しながら、夜が開けるまで見回りを続ける計画だった。なにか問題が起きれば呼子の笛を鳴らし、すぐに他のチームが駆けつける手はずになっていた。ちなみに、チームのメンバーを決めたのはハンスじいさんであった。
ハンスじいさんが説明を終えると、すぐに夜回りの第一陣が小屋を出発した。ランプの灯りを手に、男たちは闇の中に繰り出していく。ある者は怪物を仕留める気マンマンなのだろう、勇ましい顔をして。ある者は無事に朝日を拝めるか不安なのか、無表情で俯きながら。気持ちを昂ぶらせるように、全員で下手くそな歌を歌いながら出ていったチームもあった。
小屋に残った男たちも、戦いに備え眠りにつく者、夜だからと酒を飲み猥談に興じる者、神に祈りをささげる者とそれぞれだ。
しかし、そのいずれの中にも、マシューとハンスじいさん、クマヨシの姿はなかった。
それでは、彼らはどうしているのか、というと……。
「ああ、あまり麦に火を近づけるなよ」
「干してるわけでもあるまいし、そう簡単に燃えやしないよ」
三人は麦畑の中をかきわけるように進んでいた。ハンスじいさんの決めた夜回りのルートはいずれも農道にそったものであり、麦畑を突っ切るルートはない。もしあったとしても、化け物が潜んでいるかもしれない麦畑をわざわざ通りたがる者はいないだろう。
「ところでじいさん、話はついてるのか?」
「さすがにそんなことは相談できなかったよ。ある意味、死者への冒涜ともとられかねんからな」
「まあいいさ。どうせ牧師は俺の知り合いだ。なにかあった時には守ってくれるさ」
そう言ったマシューの肩には、大きなスコップが担がれていた。
麦畑を抜けて少し歩くと、マシューたちは木の柵に囲まれた荒れ地のような場所に出た。ランプの灯りであたりを照らすと、四角い石や木でできた十字架が、暗闇の中に浮かび上がる。
ここが、かつてアーバンカルトとその周りに住んでいた人々の眠る墓地である。
村長や職人の元締めなどの地位の高い人間であれば、教会の裏手にある墓地に立派な墓石とともに葬られるのだが、農民や下級の職人といった庶民は、村から離れたこの荒れ地に身体をうずめるのである。
マシューはげんなりしたように息をついた。さすがのマシューも、夜の墓場は気味が悪い。怪物が出てきそうとかそういうことでなく、墓場のどこか禍々しい空気が、闇に包まれてさらに重さを増しているような気がしたのだ。
これ以上闇を見つめてもげんなりするだけのような気がするので、マシューはとなりのクマヨシに目をやった。クマヨシも怯えている訳ではないが、どこか疲れたような顔であった。こんなところから、さっさと帰りたい。そんな気持ちが思いっきり表情に出ている。
だが、何も得ずに帰るわけにはいかない。遺体を調べてはじめて、なにか分かることがあるかもしれない。マシューはそう思うと、ハンスじいさんにマノンの眠る場所を聞いた。
「マノンの墓は、この先の樫の木のそばにある。墓石も新しいからすぐに分かるだろう」
「じいさん、ありがとよ。よければ、少し見張っていてくれないか。墓荒らしと間違われたら、こっちもやってられんからな」
「ああ、大歓迎さ。わしもこんな暗闇をひとりで帰る度胸はないし、かといっていくら若い娘さんとはいえ、夜中に死人の顔を見るのもごめんだからね」
「それはよかった」
「まあ、わしもじきに、ここの仲間入りをすることになるしな。顔合わせはそのときの楽しみにしておくよ」
ハンス爺さんはそう言って、しわの目立つ顔をほころばせた。
マシューはこれまで、実体のあるものに恐れを抱いたことはなかった。しかし実態のないものに関しては、恐れ……もとい『畏れ』を抱いていた。
山で長いこと生きていると、ふと自分の力の及ばない、大きな力を感じることがある。そのようなものに対しては、畏敬の念を抱くことしかできない。そうしていれば力に押しつぶされることなく、逆にその大きな力に抱かれ、守られているような安心を得られるのだ。
それはともかく、ハンスじいさんの励ましで元気を取り戻したマシューは、クマヨシの肩を叩いて促した。
「行くぞ、クマヨシ」
「うん」
クマヨシも、ハンスじいさんの冗談にずいぶん救われたようだった。さっきよりはまだ、前向きな眼差しをしている。
こうしてマシューとクマヨシは、墓場へと足を踏み入れた。
今まで歩いて来た砂利道と違い、墓場の土は柔らかい。その感触は、今の二人にとっては逆に不気味以外の何物でもなかった。
「父さん、こんなに地面が柔らかいとさ……なんか死体の上を歩いてる気がするね」
「馬鹿、そんなこと言うんじゃねえ。だったら野山だって、のたれ死んだ動物たちの死体ばかりじゃないか」
「山は神聖な土地だから、こんなとことは全然違うよ。それに……あっ、あれじゃないかな」
と、クマヨシは前方を指さした。マシューがランプの光を向けると、樫の木が暗闇の中にはっきりと見え、その下にいくつか墓石が見えた。そしてその中にひとつ、白い墓石が明かりに照らされて輝いた。
マシューとクマヨシはその墓石にかけよった。墓石は高級ではないが綺麗に磨き上げられた大理石で、まだできて間もないものだ。
「うん、確かに『マノン』って書いてあるよ。父さん」
「よし……早速掘ろう。掘って、調べて、埋め直してってやってたら、朝なんてすぐ来ちまうぞ」
マシューの言葉にクマヨシが頷くと、ふたりは墓石の前の土にスコップを突き刺した。
棺がこの日の昼に埋められたこともあってか、土はまだ柔らかかった。その柔らかさがまるで生身の肉体を思わせるようで、マシューは顔をしかめた。クマヨシも何も言わずにひたすらに穴を掘り進めていたが、さすがにつらくなってきたのだろう、汗をぬぐいながら話しかけてきた。
「まだなのかな……結構深いんだね……」
「たぶん親御さんが誰にも触らせないように、それなりに深いところに埋めさせたんだろう」
「そう思うと、なんか後ろめたいなぁ」
「だからって折角の手がかりを諦めるわけにはいかねえだろ?一緒にがんばるぞ」
そんなことを話しながら膝の高さまで穴を掘り進めたところで、マシューのスコップの先に固いものが当たった。マシューは靴の裏で土をはらいのけると、その中から白木の木目が見えた。
「棺……?」
「そうだ。クマヨシ、棺のまわりの土をかきだせ」
マシューがそう言うと、ふたりは棺の縁をたどるように土を掘り起こしはじめた。しばらくすると、土の下から白木でできた棺がその全容を現した。
棺は装飾のほどこされていない、縦に長い六角形のものだった。長さはおよそ百六十センチメートルほど。中に納められている者の身長とほぼ同じくらいだろう。
「見つけたね、父さん」
「ああ」
「……中、どうなってるかな」
「さあな」
マシューとクマヨシのふたりはランプの光に照らされた棺の右側に立ち、何もせずただじっと見下ろしていた。
やっとの思いで掘り起こしたというのに、棺を開ける気になれない。遺体の状態が気になるのか、それとも死者の家族に申し訳ないという思いがあるのだろうか。クマヨシの思いとしては、どちらかといえば前者のほうだろう。いくらオークとはいえ、朽ち果てた人間の姿には嫌悪感を隠せないようだ。
マシューはしばらくためらうように立ちつくしていたが、突然意を決したようにスコップを手にした。
「開けるぞ」
「うん!」
クマヨシもマシューの決意に応えるように返事をした。
ふたりは棺のふたにスコップの刃をさしこみ、ぐっと押しこんだ。釘でとじられた棺のふたが、ギイと音を立てて少し浮き上がる。
「いくぞ!せーのっ!」
マシューのかけ声と同時に、ふたりは同時にシャベルの柄を肩で担ぐように一気に持ち上げた。栓抜きの要領でこじあけられた棺のふたが、棺の左側に落ちる。
中身が明らかになったその瞬間、マシューはランプを手にすると意を決したように棺の中に明かりをかかげた。
棺の中では色とりどりの花に埋もれて、ひとりの少女が安らかに眠っていた。白いワンピースに身を包み、胸の上で手を組んでいる少女の見た目はいささかも朽ち果てた様子はなく、その美しさを保ち続けていた。
花と香水の香りがあたりに漂い、化粧で頬を明るく染めているその様は、まるで花畑で眠っているかのようだった。もしも彼女が突然目を覚ましたとしても、マシューはさほど驚かなかっただろう。そう思わせるほどの生気が、彼女の遺体からは感じられた。
マシューはクマヨシに目をやった。クマヨシは十字を切りながら、少女を見つめていた。どこかホッとしたようにも、その美しさに見とれているようにも見える。もしあと数日調べるのが遅かったら、もしくは先に命を落とした他の犠牲者の棺を開けることになっていたら、こんな顔はできなかっただろう。
「まったく、これほどまでまともなご遺体は初めて見た。まあ、今日の昼に埋められたから当たり前か」
「ほんと。どんな姿で出てくるかと思ってたから、なんだか安心しちゃったよ」
そう安堵の表情を浮かべながら言ったものの、これで帰るわけにはいかない。ふたりはこれから、彼女の身体を検め、何が起きたかを知らなければならないのだ。ふとそのことを思い出した瞬間、マシューの顔からは笑顔が消えた。
「……クマヨシ、喉元の花をよけろ」
「……うん」
ハンスじいさんの話では、彼女は刃物のようなもので首を切られているという。その傷の形から、何によってつけられたかは大体予想がつく。包丁か、作業用のナイフか、それとも獣の爪か。それがわかるだけでも犯人をしぼりこめる。
マシューは固唾をのんで、少女の首のあたりを見つめていた。クマヨシはまるで首飾りのように置かれたユリの花を、一輪ずつよけていった。
その時だった。
「うわああぁ……!」
クマヨシは突然声をふるわせながら叫び、後ずさった。
前のめりになったマシューが花に隠されていた彼女の喉元をランプで照らした瞬間、マシューの息は詰まった。
少女の喉元は横一文字に大きく切り裂かれていた。そしてその傷口は、太い糸で何針も乱雑に縫い合わされていた。顔や身体は生きているように見えるのに、喉元だけが、まるで雑に作られた人形であるかのようだった。
マシューは自分の身体から、一気に血の気が引いていったのを感じた。
この首を縫い合わせたのは、教会の人間じゃないだろう。恐らくは……彼女の母親だろうか。震える手で縫い合わせたがゆえに、あのような一見乱雑に見える縫い方になったんだろう。その感情を思うと……。
ただ、マシューは傷口に目を向けることも忘れなかった。
傷口には何度も引っかかったような跡がある。大きな傷だが、さほど切れ味のよくない刃物か爪でつけられたようだ。……どんな状況で傷がつけられたかは、考えたくもないが。
マシューはそのまま、遺体の下腹部のあたりへと手を伸ばした。下半身いっぱいに敷き詰められた花の中に大きな手を差し込み、まるで何かを探すようにその中をまさぐる。中はもうすでに固く冷たくなっており、まるで小動物の巣穴に指を入れているようだ。しばらくそうしていると、ふとマシューの手が止まった。
マシューは花の中から手を抜くと、指を鼻に近づける。鼻をついた妙なにおいと微かな血のにおいに、マシューは顔をしかめた。
「ひどいな……」
マシューは酒瓶をとりだして指を洗うと、布きれをとりだし手をぬぐった。
「中も傷だらけじゃないか……クマヨシ」
さっきとはうってかわって、禍々しいものでも見るような目を少女に向けながら十字を切っていたクマヨシはその名を呼ばれ、はっとしたようにマシューを見た。
「この子の背中を見よう」
マシューとクマヨシは、少女の肩に手をかけた。少女の体は硬直して関節が曲がらなくなっており、まるで眠る姿のまま形どられた彫像のようになっていた。にもかかわらず、ふたりはあくまで丁寧に少女の体をひっくり返し、うつぶせの状態にした。
続いてマシューは潤いを失った少女の後ろ髪を、うなじが見えるように左右に払う。
まだほのかに香ってきそうな真っ白なうなじに目をやると、ワンピースの後ろ襟のあたりに、一筋の赤い線がちらりと見えた。それを見たマシューは、ワンピースの襟に両手をかけ、一気に引き裂いた。
白いワンピースに隠されていた背中を目の当たりにしたマシューとクマヨシは、思わず言葉を失った。
少女の白い素肌には、生々しい何十条もの細い傷がつけられていた。
つけられた傷は浅い傷からかなり深くまでつけられたものまでさまざまであり、まるで何度も爪でかきむしったかのようであった。傷の上からさらに切りつけられたために、背中の一部の肉はえぐれてしまっていた。
さらにえげつないのは、背中にこれだけの傷がつけられたにもかかわらず、致命傷は首をかき切ったときのものであるという事実であった。つまりこれらの傷は、少女をただ痛めつけるためだけにつけられたのである。
クマヨシはその惨状を目の当たりにして、小さくつぶやいた。
「どうしてこんな……この人になにか恨みでもあったのか?」
普通の者ならクマヨシのように、これらの傷からは執拗なまでの強い恨みや殺意を感じたことだろう。そして痴情のもつれや女性そのものに対する激しい憎悪、といった動機を推測し、そこからある程度の犯人をしぼりこむ。
しかし、マシューの考えは違った。
マシューが若い頃、猟師仲間にひとり素行のよくないことで有名な者がいた。彼はマシューより少し年上の先輩であったが、ときどき見ず知らずの家に夜這いをかけ、相手が嫌がっても無理やりことを済ませるような男であった。
そんな彼が一度、マシューが若干二十歳になろうかという頃にこんなことを話していた。
『動物は交わるときにな、オスがメスの体を爪で引っ掻き回して、痛めつけるんだ。どうしてだかわかるか?そうすれば『しまりがよくなる』ことを、ヤツらは知ってやがるのさ。もし今度、女とやることがあったら、試しに首でも絞めてみな。そうすりゃ、へへっ、たまらなくいい感じになるぜ……』
若きマシューはこの時、はあ、と小さく答えることしかできなかった。ちなみにその男は後年、熊狩りに出かけてそのまま行方不明になったと、マシューは風の噂で聞いている。
少女の背中の傷を見て、ふとマシューはそのことを思い出したのであった。
……俺の考えが合っているとすれば、そこには動機もクソもない。女であれば相手は誰でもいいという、無差別的な暴行殺人だ。
マシューは少女から目を背け、疲れ切ったように穴のふちに腰かけると、大きくため息を吐いた。ランプの灯りを受けて深い皺の目立つその顔は、悲しみとも怒りともつかない表情をたたえていた。
「けだものだ……けだもののしわざとしか思えん」
クマヨシがこちらを見ているのにマシューは気付いていたが、とても話をするような気分ではなかった。ただでさえ気が滅入っているのに、さらに気落ちしてしまうのは火を見るより明らかだった。
「……埋めるぞ、クマヨシ。この子ももう、こんな世界に用はなかろう」
「う、うん……」
クマヨシもマシューの姿から察したのだろう、返事をするだけで何も聞こうとしなかった。そしてふたりはすぐさま、少女の背中の傷を隠すように遺体をあおむけの状態に戻した。そして棺に再びふたをすると土をかけ、来る前の状態に戻した。その間ふたりは、ひとことも言葉を交わさなかった。
元通りになった墓の前にクマヨシはひざまづくと、聖水の入った小瓶をとりだし、土の上にふりかけた。そして神妙な面持ちで十字を切ると、静かに祈りをささげはじめた。
マシューも隣で小さく十字を切ったが、すぐにそのそばを離れると酒瓶をとりだしてあおった。
犠牲になった少女たちを救うのは祈りじゃない。殺した者がその身をもってする償いだけだ。そのためにもあの傷を手掛かりに、犯人を見つけてやらなければならん。
おそらく首と背中の傷は、同じ爪または刃物でつけられたものだろう。ただ、背中の傷を動物のものとするならば、ひっかき傷しかないのは少々疑問が残る。狼などの動物が犯人だとすれば、ひっかき傷と同時にどこかに噛み傷を残していても不思議ではない。だが首筋や肩など、交尾の態勢ですぐ噛みつけるようなところにそういった傷はなかった。
それに動物は交尾の際にメスを傷つけたとしても、殺すまでのことはしない。メスを殺すのは、子孫を残すという本能的行為とは明らかに矛盾しているからだ。となると動物に見せかけた人間の仕業という可能性も、俄然高くなってくるが……。
だがもし、獣に近い人間が、この地域にいたとしたら……?
マシューがふと東の空に目をやると、山の端はすでに白みはじめていた。またこうして、新しい一日が始まる。マシューにも、クマヨシにも、そして人殺しにも。だがその人殺しの手によって、この日の朝を拝めなかった者たちが確実にいるのだ。
早朝の冷たい風を顔に受け、マシューの気は引き締まった。そしてマシューはゆっくりと、墓地の出口へと歩みを進めた。
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